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7月, 2014の投稿を表示しています

もやもやには諦める/循環を見出す。

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もやもやも諦めるか高いところから見るかで解決策が見出せるかもしれません  1ヶ月前の話になりますが、私は毎年6月というと配置転換や転職の時期があるような気がして、もやもやした気持ちを持ってしまいます。そのようなもやもやした気持ちを持つことは心も冴え渡る、よい状態とはいえません。ではそうしたもやもやを払拭するためにはどうすれば良いのでしょうか。ここではそうしたもやもやを解消する方法を人間関係、特に親子関係になぞらえて書いてみました。 知れぬもやもや  日本は梅雨時期があります。おおむね6月頃がその時期で、天気が悪いことが多く、また大気中の湿度も高めです。よってじめじめした気候となりがちです。すると気持ちも天気のようなじめじめとなりそれが発達すると、もやもやしてしまいます。病は気からという言葉があるようにもやもやとした気持ちはやがて病をもたらし、人を苦しめてしまう場合もあります。 もやもやの先から見られれば解決  そうしたもやもやを解消するにはどうするかを考えるとその一点だけでなく、 その先や別方向から見えるようになれば、行き着く先や取り付く島も有りそう に思えるのです。  しかしそうでない場合は、ついついもやもやが先行することにより、自分の考えを中心になり、わけが解らなくなってしまうことから、何らかに責任を押し付けがちになってしまいます。  すると「自ら」ではなく何らか「他のもの」を信じて決断してしまう場合も有ります。当然、もやもやした気持ちが前提としてあるため、根拠も不明確です。 もやもやな不安状態からの脱出  こうしたもやもやな不安状態が続くと、取れるところをとろうと考え、わざわざ冒険をしなくなります。 守ることに一辺倒 になり、 もしくは攻めても根拠の無い自信をもって行動してしまいがち です。  すると、例えばボーナスを前提としたローンを組んでしまったり収入の前提を持った転職を期待してしまいがちです。  ですが、このような 前提が先にくるようなことは現実の社会であるはずは無く、 どんな状況でも先はわかりません。ある程度の予想はつくにしても、 確実なことは基本的に無い です。  ですから、期待しすぎないこと、即ち諦めることに必要な気がします。 似た例:子離れでき

無料の利益と害

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無料が全ていいのかというと疑問ですなぁ。  物品販売をするに際して、考えることが価格設定です。最初は勿論原価計算などをする必要がありますが、経営を続けていくにしたがって、その値段を調整する必要があります。そうした価格調整には①値上げ②値下げがあり、これからのバランスを取ることが大事です。国や地方公共団体のように、絶対必要なサービスだからという場合には、いやおうなしに1.の値上げに踏み切ります。しかし民間企業で1.の値上げばかりしていてはお客さんが逃げます。ですから、ちょうどいい按配で、かつ質を上昇させながらストーリー性を持って売り上げを伸ばすことが望まれます。  昨今で言うと、地球温暖化やマイナスイオン、2月14日のバレンタインデーにチョコなどをあげる文化などは典型的な商業的意図を含んだ、事象です。何の意図かもわからず、いつの間にか根付いている文化の中にも実は企業側の巧みなイメージ戦略があるのかもしれません。  そうしたサービスと値段をどう考えサービス提供者としての意図とサービス消費者としての意図の両面でわれわれはどう考えていくべきかを書きました。 主力製品を値下げする  価格調整のうち、値下げの究極は無料です。無料で商品を提供されるということは必然的にそのサービスを受ける側として、時間を消費し、サービスとの関係を構築していることとなります。  企業側としてマイナスからの売り上げスタートとなりますが、出来を評価してもらうにはいいサンプリング機会となります。私が左官材料を開発している際にも、試作段階でお客さんに無料でテストをしてもらいました。時間や使ったときの評判、情報をお金の換わりにいただきます。  この場合、特に主力製品を無料にすることが望ましいです。なぜなら無料で提供している以上は品質の評価が重要で、それを主力商品ならば調整をすることが容易だと思われるためです。こすいやり方ではありますが、主力製品を無料にしてサブ製品で売り上げを立てる方法も有ります。 無料化から考えられること  現在は多くの商売において、企業間で値段をあいまいにしながら商社などの中間役が価格調整をしている部分があります。それも昨今のネットの発達により、いずれ物の製作者と消費者の距離がなくなり、変わりにネット

教える立場の人の気持ち

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 教える立場の方の中には「俺様は貴様らより偉いんだ」、と思っている人がいます。別に個人の心情はどうでもいいのですが、こういった気持ちも行過ぎ、表に出ると、相手がどうあれ「俺の思い通りにしてやろう」、とか、あるいは「子どもを扱わねばならない」といった気持ちになりがちです。すると、理想と現実との間で思い通りにならないことに怒り、時には暴力などを起こして問題となる場合があります。こうした問題に発展する前に、教える立場の方はどのような気持ちを持ったらよいのでしょうか。ここではそういった教えるもののあり方について考えました。 気持ちの上でのボタンの掛け違い  教える立場に就いている方の一部には、 「どんなことをしても相手は従うべきなんだ、だから俺のしたいようにしていいのだ」 と思うことから気分次第で行動し、相手に対し理不尽なことを平気で要求する方がいます。  自分だけの感情でとどめているのならばまだ許せるのですが、この考えが行過ぎ表に出てしまうと、理不尽さを仲間内だけでなく最終的にはお客様にも浸透させてしまいます。これは教える側の心の弱さがそうさせています。 教える人の生育環境も影響してる?  こうした考え方の原因には、教えるもの自身の幼少期における育成環境も、一つあるのかもしれません。  良くも悪くも、本気でぶつかり合うことが少なかった、つまり心をぶつけられず、押し付けらて育てられきた経験がそうさせている部分もあるのではないでしょうか。 教育基本法執行者としての役割のある教師  ところでこうした教える/教えられる環境といったもののなかで、身近なものには「学校」があります。こうした学校は何のためにあるのでしょうか。学校教育法上、例えば義務教育では 第二十一条  義務教育として行われる普通教育は、 教育基本法 (平成十八年法律第百二十号) 第五条第二項 に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。 一  学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 二  学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自

良くなる考え、良くなる行動

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体重が一定速度で増え続ける、停滞なのもいいチャンスなのかも。  失敗だからダメだ、終わりだ等と物事を悲観してしまう人たちが居ます。一方、何とか物事を良くしようと必死に行動している人が居ます。  前者と後者とではどのような考え方の違いがあるのでしょうか、そして例え今は前者のような考えを持っていたとしても、それを校舎のような考えにするにはどのようなことに気をつけたら良いのでしょうか、ここではそういった良くなろうとする場合における考え方について考え、記してみました。 世で新じれられるのは誠実さ  人間は幻想を見て、それを信じる傾向にあります。ですから、ダメだと思ったらダメな結果になるのですが、一方で千里の道は一歩からという言葉もあるように継続していかなければ思いはかなわないともいえます。究極はなるようにしかならないのですが、これは一つに心の持ちようかもしれません。  その中でやはり一番問題なのは甘やかしのように、ごまかしながら、即ち誠実でなく嘘をつきながら筋を通さないことは一番の罪のような気がします。これは子どもとか大人とか関係なしに、人としてです。 自分の中の気持ちと相手への気持ち  実際一本筋を通し、表明するような場所は少ないわけですが、かといって、それを盾になぁなぁで対処できるわけでも有りません。ですから、何事もできないことは人間にはるのだから、それを認識した上で、ないことを味わうようにすること、もしくは諦めて自分は他人ではないことを知り、実感する有限性を持つことが大切のような気がします。  他方で限りある人生の中で他人様に生かされていることを知り、それをどう役立てられるかを考える必要があるように感じます。自分を他人のように考えて敬うという意味では自分の生き方を選択した人に対して、過度に手を出したり、おせっかいをしたりしないことで害になるのを抑えます。 他人との接点から気持ちを大切に持つ  いずれも、そうした自分が何とかしていくんだといった気持ちや、自分がされたくないことを他人にしないようにしよう、といった気持ちが言葉などの概念から行動を起こす以上に原動力になることが考えられます。これはやらされることとは逆です。意欲があっての学びや成長のあることが考えられます。

立場を複数考え、選択は責任を持つ。

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むやみに捨てるのはどうかと思いますが、考えて捨てる事も大事です。  一方的な立場でしかものの言えない、考えられない方が居ます。そのような方は 「自分の選択範囲以外考えられない。」 と思われていることが多いようです。  そうした考え方も決断を俊敏にする意味で悪くはありませんが「自分の選択範囲以外考えられない」考えをおし過ぎてしまうと、自分の考えている範囲外に原因が存在し、それから問題の発生した場合問題の原因や策を見出すことはできません。これでは困ります。  ですからそうした自分の考えている範囲外にある原因で起こった問題の解決にはどうしたらたよいのでしょうか。ここではその解決方法を記しました。 一般的イメージ  考え方を同一にする集団として組織があります。日本にはいい組織も悪い組織もあります。その一例が極端な例ですが国と暴力団です。前者は綺麗で後者は汚いイメージがあります。  綺麗と思われる国は組織運営のためにお金が欲しいです。よって税金を設定し、出来るだけ多く取りたいと思っています。そのため、高い税を設定しますが、多く取ることに注視しすぎると、一部に税の抜ける穴を探され、税金逃れを図られます。これは困ります。  ですから国は国民に対し出来るだけだましだまし、そして意図を気付かれることなく、愚かに、気付いたら管理されてた、と思えるよう動きます。例えば、一応建前上は便利だ、と謳ってサラリーマンは年末調整や国民基本台帳ネットワークへの記帳という手段を使い、国が国民の所得や個人情報を管理しています。  一方、汚いと思われる暴力団も組織運営のためにはお金が欲しいです。手っ取り早くできるだけ多くのお金が欲しいので、場合によっては名前の通り暴力を用い、覚せい剤やペットショップなど国などで禁止されているものを仕入れ、あるいは先物や商社という偽者や中身の無い形を作ったりして、だましだまし売ることでお金を得ています。 見方しだいで変わるイメージ  これだけ見ると、国は綺麗と、暴力団は汚い、と思われます。しかし、こうしたイメージも見方次第で変わります。  例えば所得税でも科目の分け方次第で、国からすると悪いイメージの脱税も、節税という良いイメージができます。また、暴力団のしている偽者ブランド作りも、単