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11月, 2015の投稿を表示しています

形だけを問う社会からの脱却方法

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 現在の日本は機会が平等になりつつあり、また技術革新がされつつもあります。こうした状況により「生きること」に選択肢が増え続けています。すると以前には当然であった「理想像」の生き方も問われ、どれが正しい生き方なのかわからないことが考えられます。また多くできた選択肢をそれぞれ体験できないことから、「こうであろう」といった形だけを問うの行動を良しとしてしまいがちです。私はこれは押し付けになりがちで、問題だと思っています。そこでここではこうした問題の発生を防ぐために、どのようなことを考え、どのように脱却したらよいか、といったことを組織と自分とにわけ、気をつける点を書きました。 残念な社会の原因  「結婚活動」や「街コン」など「楽しむことを第一」とした模擬参加型イベントが盛況しています。これらのイベントは心を満たすことより形を満たすことで、仲間とつるみ、場合によってはその状況に安住してしまいます。  これは行過ぎると無責任な応援(「頑張れ」と言ったり)や、人をモノ化(キラキラネームだとかDQNネームだとか育児放棄も含む)してしまいます。 心が通わせたいのに心が通わず、しかしそれに似たような形を追い求めることで、ますます形を得ることに腐心 してしまいます。  こうした行動の裏の気持ちにはどこかに「誰でもいいから助けて」といった欧米やキリスト教圏における「祈り」に近いものがあり、あてもない希望を持っていることがあるかもしれません。  言いかえると常に「誰かに楽しませてもらっている」「客体的」な部分が見えます。こうした客対化が行き過ぎてしまうと、主体者の意図に沿って堕落や努力を放棄します。  そのような行動を取り生きていけるうちはそれでも良いと思います。しかし私はそれは成長できない意味で残念で、また問題だと思っています。 残念にならないよう自立する  そこで私は残念にならないようにするために自立する必要があると考えています。そのためには①アルコール依存における「底突き体験」のように 現実を極限まで体験 する。②その「底付き体験」から どうするかを考えるもしくは支える。 方法を取る必要がある気がしています。  そのためにはまずは個人と集団とが違うことを認識し 、違いをいいように「使う」考え方を持つことが必要 なのかもしれません。その

甘えさせる期限や限界とそれから得られるもの

 私もそうでしたが日本の多くの子供が親の経済的支援を受けて大学や高校、中学を受験、入学、卒業をしています。これは甘えと言えそうですが、このような場合、親はいつまで、どの程度まで子を甘えさせればよいのでしょうか。大学に入ったら終わりでしょうか、それとも就職するまで面倒を見るのでしょうか。仮に子が死ぬまで甘えさせるのであったらキリがありません。そこでここでは支援者が支援の程度が見極められない場合どうしたらよいか、甘えの期限や限界はいつか、あるいはそうした見極められない気持ちの背景には何があるか、といったことを書きました。 日本は甘々文化がある。   日本文化は西洋文化と違い甘えを大事にする「なあなあさ」があり ます。(甘えの構造:土居健郎 イギリスのいい子日本のいい子:佐藤淑子)ですから子供を就職先まで面倒見る場合もあるのだと思います。  私も親に入学金や授業料を出してもらって大学まで出させていただいたので、そうした意味では甘えで生きてきた部分はあります。ですから感謝はしております。  しかしいつまでも甘えることは、あまり良くないことかもしれないと考えます。いつまでも期限なく甘え続けさせるということは(適応上手:永井明、「心の傷」は言ったもん勝ち:中嶋聡)にもあるように、本来自分のストレス防御で対処することをも相手にゆだねてしまう意味で、どんどん自分で出来ることが少なくなってしまう危険性があります。すると常に柔軟に変化する社会で適応できない、といった問題が生じることがあるように思います。  ですからそうならないためにも、どこかで線引きが必要なのですが、私がこうした 支援や甘えを提供する場合を考えると、精神的な余裕と経済的な余裕があってしてあげられるのならば、気のすむまでさせてあげれば良い と思います。ただしそうした場合親は甘えさせたり支えることに文句を言ってはいけません。文句を言うのでしたらしたくないのにしているという意味で問題です。 甘々文化はどこから。  そもそもこうした子の面倒をみなくてはならない”気持ち”はなぜ生じたのでしょうか。世間の空気に顔向けできないことがあるのでしょうか。あるいは子供をいつまでも手懐けておきたい征服欲があるのでしょうか。  どちらにしても 子が甘えている一方で、親のほうも実は甘えている部分があ

対処不可能なことへの対処法

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 人間は完全ではなく、対処できない限界があります。そうした対処できない限界のある状況では、打開策が見いだせない場合は困ってしまいます。これは問題です。そこでここではそうした①対処できないことのある状況における場合の対処方法と②行動後における結果の考え方についてどうするか知る方法のひとつを書きました。 対処不可能なことが人間にはある  日本臨床心理学の権威である 河合隼雄 は「ユングの精神分析」を主として研究していたそうです。  ユングは 40代で人間が人生の中間部に指しかかる と言いました。一概に誰しもがそうなり得えないとは思いますが(なぜなら人の寿命は決まっていないため)それでも人間が成長や老化するにつれ、おおよそ何らかの変化は起こると考えられます。  そうした意味では人間は常に変化していることを知るとで、「人生には絶対がないこと」が知れると思います。これはすなわち「限界を知る」ということと同じことです。  こうした限界という現実を知ることで、これまで生きてきた人生を一度立ち止まることが可能です。するとこれまで何のために生き、認められたのか、あるいはなぜ勉強をしてきたのかなど、 過去を振り返ることが可能です。またそれから 未来への対応方法 を知れます。 対処できない中で大事な鈍感力と敏感力  こうした未来への対応方法に対する過去を知る場合、悪くは道に転がっている小石のように無視をしたり良くは小さなことでも変化や機微を感じ取ることが重要です。  そうした意味では ①敢えて注意を向けないといった鈍感力と②状況を読み取る意味で敏感力とを併せ持つことが重要 だと思われます。  この鈍感力や敏感力を柔軟に使うことで気持ちが表情にあらわれ、またその表情が固定化されることにより人相を形成します( 人相学 )。逆に、自分の顔を形作ることで相手を自分の意図に思わせるように「動かす」といった方法もあると思います。 鈍感力や敏感力を使って問題をどうのりきるか  こうした敏感力と鈍感力とを自らが会得すると、他人によることなく自分で責任を持ち行動することが可能です。  ただ、行動を起こした結果は成功や失敗が起こりえます。一般的に成功は運で起こりえ、失敗には原因があると言われています。  ですから確実に成功することはなく、「

リスクを負って今を生きる必要性とその方法

 安全、安定、普通が求められる社会です。そうした気持ちの裏にはどのようなものがあり、それが育つとどうなるのでしょうか。そしてそれを認識した上でよく生きるにはどうすればよいのでしょうか。ここではそうした安定を求める気持ちの裏側を記すとともにそれを知り、リスクを負って良い生き方ををするための方法を書きました。 安心安定安全が求められている社会  かつての私もそうでしたが、仕事を選ぶ基準として「安心、安定、安全」を求める場合があります。  確かに現在は先行き見えない社会であり、失敗をしたくないという意味では、これらを確保することは重要になる場合もあるのかもしれません。  しかしそれを続けたり増してゆくと最終的には成長をすることができなくなります。これは問題です。ですからここではそうした状況に対しどのようなことを考え、どう対処していくのが良いかを書きたいと思います。 安心安定安全の裏には何がある  このような安心、安定、安全が第一だと思われる背景には、現在の社会が安心ではなく、不安定で、危険である、ということがいえるのではないかと考えています。  確かにかつて、高度経済成長期では、今を苦しんでいればいずれ自分の利益となる、といった「見える安心」や「見える安定」がありました。しかし今は違います。かつてのオイルショック以降やバブル崩壊、リーマンショックなどの不況が次々社会を暗くし、次の社会の予想が立てにくい、一歩先が見えないといったことが起きています。するとそうした不安定で不安心、危険な気持ちが先導してくると考えられます。  なお、不安の無い社会の例で言うと共産主義の社会があります。中国やかつてのソ連のように共産主義をよしとする社会では、「選択に対する不安が無い」一方で「強制させられる不安」があり、みんなの利益を得るために個人は死ぬ必要があります。これは健全な社会といえるのでしょうか。私は違うと思います。  しかしよくよく考えてみると、そもそも安全な社会などというものはあるのでしょうか、もしくはあったのでしょうか。人間は狩猟生活から始まったといわれていて、そのうちの一部が農耕民族として生活するようになりました。狩猟生活を行うならばえさが無い限り歩き回らなければなりません。農耕生活にしても天気の影響を余分に受けるため、人類は常に不

理想と現実の差異から不安にならないために

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 犯罪件数や凶悪な事件は世には存在しています。そうした事件は恐ろしいと思われる事があるかもしれませんが、一方で犯罪の理解や、自衛の大切さを知ることが出来ます。このように一つの事実の見方を変え、実践することで自分が良い選択をすることが可能です。そこでここでは生きる場合において理想と現実とで不安にならないよう自分が良くなるにどうするか。考え方や行動に対する変わり方を書きました。 区別の無い社会が不安にする  かつての日本ではお上からの指示に従い、一般庶民が社会はおろか自分の生活さえも変えるような行動をとることは出来ませんでした。たとえば江戸時代においては「 士農工商 」という身分区別があったといわれています。  このような身分区別は日本だけでなく世界でもあります。例えばインドにおいては現在でも カースト制度 があります。  こうした身分区別のある社会では調和が取れているとも言えますし、競争が無い意味では幸せといえる部分があるのかもしれません。  一方現在の日本では、江戸時代や現在のインドのような身分区別は基本的にありません。機会的は基本的に誰でも平等で、生き方も多くの選択が可能だと言えると思います。しかしそれがゆえに選択に対する不安が生じていると思います。 不安を持たず幸せになる  不安を生じると何が問題なのでしょうか。ひとつに理想と現実との差が埋まらないことがあるのだと思います。するとストレスがたまり、不快で困ります。ですから出来ればストレスは解消したいです。  このような不安を皆が持っていると、いつからどこからかそうした差を埋めようとする産業、コンプレックスをうめようとする産業が他から生まれ隆盛します。例えば新聞広告などに見られる「アンチエイジングの商品」紹介などがそうです。これらの紹介にうまいこと乗せられ、気がつくとお金を騙し取られてしまうことも少なくありません。これは非常に不幸な状態だと考えます。  そこでこうした現在の騙されやすい不幸な状況に対して不満をもたれている場合には「満足の基準を少しずらすこと」で、満足や解決を図ることが可能です。それには 考える方向性を変えること 自分の価値観を信じること そして直接やり取りすること への 気持ちを持ち行動することが大切 です。 それぞれ気持ちと

単独で見ずに真実や責任を見出す

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 犯罪でも歴史でも 単独で見ていては責任や真実を適切に推察出来ません。 責任や真実を適切に推察することが出来ないと、間違った仮説を立ててしまうことから間違った行動をとってしまうことがあります。これは問題です。そこでここでは間違った行動をおこさないために、①真実を推察するための考えられる方法と②そしてそれをどのように応用することが出来るか、といったことを書きました。 なんでも立場による責任はある  例えば組織運営をする場合、通常「組織を維持発展させる」といった目的や責任があります。こうした立場に応じた目的や責任はどこにでもあり、それぞれの人がそれぞれの場面における目的や責任を認識することが重要です。  現在の社会では産業技術に発展によって便利になっていることはあるものの、一方で他人の役割や立場を認識できにくいことがあります。(正式には責任が隠れやすいと書いたほうがよい)  すると法律でもやった者勝ちであるとか、あるいは極端な新興宗教が流行るといったおかしな価値観が蔓延することとなります。これは社会が純粋に回っていない意味で問題です。 責任は犯罪において複数ある  そこで自分の責任や目的を認識するために、一つの事象でも複数の目を持つ必要があるように思います。すると責任範囲を見出せられると思います。  例えば新聞やテレビなど報道される事件において何がどう責任があるのかを考えた場合、①実際に事件を起こしたものと、②それを広めたものと、で罪は分けるべきなのかもしれません。  得てしてマスコミの報道では犯罪を犯した人が①犯罪自体も、はたまた②広げたこと自体も責任を負うとされてしまうことがあります。  すると犯罪自体は軽微であっても報道のされ方によっては重大な事件だと思われてしまう、あるいはその逆もあり、報道機関によって罪のバイアスがかけられてしまいます。これは、法治国家である日本で 法の公平性 の観点からいうと問題です。  ですからこのように一つの事件や事象でも 公平性が前提にある場合において、一点だけを見るのではなく、広く複数の視点を持つ必要があり ます。  そのために先ほどの事件の例で言うならば複数の新聞を見て報道のされ方を比べたり、あるいは一つの事件の裏側も考えたりすることで 事件とその 回りの深さを知る必要があり

「なければならない」から「したい」を見出す

 相手と話をするときに「何々しなければならない」といった命令などの大きい言葉に対して自分の気持ちが右往左往してしまうことがあります。すると自分の選択を必要とする大事な場面、例えば就職や結婚、生きる時や死ぬ時などにおいて自分の満足する選択が出来なくなります。これは問題です。そこでそうした問題を防ぐため、ここでは命令形に対してその中から自分の「したい」を見出す方法と、命令形の気持ちの背景とをそれぞれ書きたいと思います。 命令に従っても思う結果の出ないことがある  上司や先輩、親、先生などからああしなさいこうしなさいなどと言った命令形の言葉をきくことがあります。しかしこの命令形の言葉のとおり行動したとしても、結果が思わしくなかったり場合によっては気持ち的にしっくりこないことがあります。  こうした気持ちのしっくりこない場合にはこれが転じて、命令した人に文句をいったりあるいは世間が悪いんだなどと他人のせいにする、さらには自分はダメな人間なんだといった卑下をするといったこともあるのかもしれません。  こうした「行動」と「気持ちのずれ」は日本において「わび」や「さび」を見出す場合には大変有効です。しかしわびやさびの見出しを意図していない場合には問題です。会社員などで仕事をする場合などではまさしくそれです。基本的にわびやさびは求められておりません。  もちろん相手からの情報をもらってそれを選択をしたのは自分の責任ではあるのですが、それは後に反省する材料とし活かすこととして、とりあえず命令形で話をされる方に対しては「自分なりのやり方を見出す」こと、「自分としての身の振り方を考える」必要があります。 命令言葉を使う背景  「自分を見出すこと」や「自分の身の振り方を考えること」とは他は他、うちはうち、といった自他の違いを見出すことです。  これにはそれまで生きてきた生育暦や生き方も関連します。ですから一般的にこうだといえるものではありません。仮にいえたとしてもそれを万人が理解出来ないと思います。  ただそうはいうものの、何かしらのきっかけからチャンスを見出すことはできると思います。そのためには自分の 行動を責任を持って起こすこ、自立性や積極性が大切 です。その方法を以下に記します。  一方、命令をしたり、あるいは従ったりする場合にはどこ