tag:blogger.com,1999:blog-37759329870415897092024-03-14T03:13:22.415+09:00育人 幸せになる相談室「楽しいことをして幸せになる」を支える育人です。
東京は八王子で、幸せになる相談を聴いています。
考えたことや知識として本の要約、感想などを書いてます。
共感しやすかったり、心に役立てたりできる文章を書きます。
講演依頼などのご連絡は
電話番号は090-6606-4500
メールアドレスはsoudangyomu@gmail.com
まで下さい。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.comBlogger432125tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-80362005832473925962023-03-02T10:00:00.000+09:002023-03-02T10:00:13.562+09:00「死ねるほど楽しいこと」の「出来る環境を選ぼ」う! 先日台湾やタイに一人で旅行をし、それら他国を観察してこれから自国や自分にとって幸せになれそうなことを考えました、ポイントは「死ねるほど楽しいことを見つけること」だと思っています、またそれを実現するためには一つに「環境を選び取ること」が大切だと筆者は思いました。そこでここではそれぞれメリットやデメリットを記し、自分なりにより良い生活を実現するために選択・行動しましょうということを書いています。<div style="text-align: left;"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></div><h3 style="text-align: left;"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0">他国観察から得られるこれから大切そうなこと <br /></span></h3><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 先日台湾とタイに一人で行き、それらの国々は下水は細いけれど機能していたこと、屋外に公共的に使えるトイレの数が少ないこと、飲料水を調達するにはなんぼか費用を出して購入する必要があること、がわかり、日本との国力や文化の違いを感じました。
それらの経験から日本の水の充実さや安定性を知る意味で、海外に一人で行くのは有効なことがわかります!</span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 一方台湾やタイに限らず他国で日本の上下水道のようなのを完備できさえすれば、それらの国々は現時点でも既に十分発展していると思いますけど、まだまだ発展できる部分はありそうでしたし、新たな価値も十分産み出せそうな気がしました!
ですからもちろん日本国内で事業の種を育てても良いですが、日本国外で事業の種を育てても良さそうな可能性を感じました。 </span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 翻って日本の完備された上下水道のように、「公共に貢献できるような状況や人」を日本国内および外国で育てることで、手痛い状況にある日本でもあるいは他の国でも多くの方から信頼されて力をつけられる可能性がありそうです!
そのためには自分が死ねるほど(真に)楽しいこと(興味あること)をして、その楽しいことで他人に喜んで貰うことが大切に感じます!</span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></p><h3 style="text-align: left;"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0">死ねるほど真に楽しいことをするには<br /></span></h3><div class="css-1dbjc4n"><div class="css-901oao r-18jsvk2 r-1qd0xha r-a023e6 r-16dba41 r-rjixqe r-bcqeeo r-bnwqim r-qvutc0" data-testid="tweetText" dir="auto" id="id__oepdd1qhuh" lang="ja"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 死ねるほど楽しいことや死ねるほど興味深いことが何かわからないのでしたら、お友だちに聴いても良いと思いますし、僕に言うてくださればそれを見いだすお手伝いのできる可能性があります!
そしてその死ねるほど楽しいことをすることが、わたしの<a href="https://twitter.com/KT_socialworker">ツイッターのプロフィール</a>に書いてあるような「幸せになること」ですし、それは間違いないと考えます。</span></div></div><div class="css-1dbjc4n"><div aria-label="2 件の返信、2 件のいいね" class="css-1dbjc4n r-1ta3fxp r-18u37iz r-1wtj0ep r-1s2bzr4 r-1mdbhws" id="id__xpw24vwjpc" role="group"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div></div></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n" style="-moz-box-pack: inherit; display: inline-grid; justify-content: inherit; transform: rotate(0deg) scale(1) translate3d(0px, 0px, 0px);"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><br /></div></div><div class="css-1dbjc4n"><div class="css-901oao r-18jsvk2 r-1qd0xha r-a023e6 r-16dba41 r-rjixqe r-bcqeeo r-bnwqim r-qvutc0" data-testid="tweetText" dir="auto" id="id__csw9jjy6ehw" lang="ja"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 勿論自分で他からの資料を読み解いて自分の生き方を自省し実験して改善してくことで見いだせることもありますから、それはそれで良いと思います、その代わり時間はかかりますし下手すると死のキワまでいかないとわからないことは考えられます。
一方他人に聴いたり僕に聴いたりすると客観的に判断できる可能性がありますから、死ねるほど真に楽しいことを見出せる時間は早くなる可能性があるでしょう。</span></div><div class="css-901oao r-18jsvk2 r-1qd0xha r-a023e6 r-16dba41 r-rjixqe r-bcqeeo r-bnwqim r-qvutc0" data-testid="tweetText" dir="auto" id="id__csw9jjy6ehw" lang="ja"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></div></div><div class="css-1dbjc4n"><div aria-label="1 件の返信" class="css-1dbjc4n r-1ta3fxp r-18u37iz r-1wtj0ep r-1s2bzr4 r-1mdbhws" id="id__6eypks2o8ba" role="group"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div></div></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n" style="-moz-box-pack: inherit; display: inline-grid; justify-content: inherit; transform: rotate(0deg) scale(1) translate3d(0px, 0px, 0px);"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> ちなみにわたしは死のキワまで行ってそこから突き抜けで生き残っていますから、死の先からの助言することはできると思います、そもそも死ぬこと自体に何とも思ってない部分があります。
多くの方は死にたくないと思うでしょうが、その"死にたくない気持ち"が物事への客観的な認識を歪める危険性を有しています、ですからわたしの場合はその歪みを是正することを手伝える可能があります。</span></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><h3 style="text-align: left;"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0">事実認識をゆがめることとそれを是正する方法</span></h3></div></div><p> 上記<span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0">に書かれているような"自分の思いが事実認識を歪める"ということが人間にとって、とても面白いところだとわたしは思います。 </span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 例えば比較的客観性のあるとされる科学の世界でも、「真理を知りたい理学」と「より良くしたい工学」とだと同じ実験をしていても認識が変わることからその後の行動も変わります。</span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 5回実験をして5回とも1という値が観測された場合
、①理学ならなぜ5回も1が出るかという理由を考えモデル化したりします。
一方②工学なら次も1が出させるシステムを作ったり、1を2にする方法を考えたりします。
両者は思いが違って好き嫌いも人によって違いますから、気持ちに合うところに属せると良さそうですね!</span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> なお理学工学においては大学などでテストの点が取れたという理由だけで理念やご自身の気持ちを考えず合わない組織に属する猪突猛進タイプの方がいて、そうした方のために救済措置として工学のなかに理学の人が、理学の中に工学の人がいることがあります。 ですから大学生などでそれぞれの組織に属していて「違うな」と思ったら「合う」組織に属されたら良いでしょう。</span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 一方大学ではなく一般社会の組織ならその組織に嫌々従うか、あるいは別の組織に属しましょう!</span></p><p><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></p><h3 style="text-align: left;"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0">属する組織による違いとアウトプットされるもの <br /></span></h3><div class="css-1dbjc4n"><div class="css-901oao r-18jsvk2 r-1qd0xha r-a023e6 r-16dba41 r-rjixqe r-bcqeeo r-bnwqim r-qvutc0" data-testid="tweetText" dir="auto" id="id__fmdmixwwg7g" lang="ja"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 一般の組織で気持ちや理念の違う組織に嫌々従っても構わないですが、それだとしたいこととできることとで差が生じます。
その生じた差が不満として表出しますから、自分にとっても、あるいは不満をぶちまけられる周りにとっても良い気はしません、おまけにのっけから不満があるとアウトプットの質が下がる問題があります。</span></div><div class="css-901oao r-18jsvk2 r-1qd0xha r-a023e6 r-16dba41 r-rjixqe r-bcqeeo r-bnwqim r-qvutc0" data-testid="tweetText" dir="auto" id="id__fmdmixwwg7g" lang="ja"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></div></div><div class="css-1dbjc4n"><div aria-label="1 件の返信" class="css-1dbjc4n r-1ta3fxp r-18u37iz r-1wtj0ep r-1s2bzr4 r-1mdbhws" id="id__tdgtmv09h9s" role="group"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div></div></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 一方理念や気持ちの合う組織に属している場合でも、したいこととできることとで差が生じます。
しかしその生じた差は"より良くしてこう"という改善に働くので、自分も他人も良い気分になります。またアウトプットの質も自然と高くなります。</span></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> </span></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"> 合う組織合わない組織の付き合う選択は人により自由です!どちらの組織に属しても良いと思いますが、それぞれ得られる物が違いそうです。ですのでメリットデメリット考えてそれぞれの生き方を選択されるのが良さそうと思います。</span><div class="css-1dbjc4n"><div aria-label="" class="css-1dbjc4n r-1ta3fxp r-18u37iz r-1wtj0ep r-1s2bzr4 r-1mdbhws" id="id__01foeqkoknky" role="group"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div></div></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"></div><div class="css-1dbjc4n" style="-moz-box-pack: inherit; display: inline-grid; justify-content: inherit; transform: rotate(0deg) scale(1) translate3d(0px, 0px, 0px);"><div class="css-1dbjc4n r-18u37iz r-1h0z5md"><br /><br /></div></div></div><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-bcqeeo r-qvutc0"></span>幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-31974916210524800172022-05-01T15:13:00.000+09:002022-05-01T15:13:30.535+09:00自然界で生きるために必要な「思想」<p> わたしたちが自然で生きるために必要なものは何でしょうか、わたしは思想が一つのよりどころになるのではないかと考えています。例えば自然の中の一部分を科学という思想で切り取ってそれを扱うことで、より便利に良くなれる可能性があります。また人と人とが密に接する組織という場面では、お互いの思想をかけ合わせることで一人ではできない目標が達成できます。そこでここでは思想の形を三つ取りそれぞれ示し、その中でも特に良くなるかもしれない思想を使った場面を記してみました。</p><p> </p><h4 style="text-align: left;">私たちを取り巻く自然環境とは<br /></h4><p> 日本はどちらかというと多神教な国であり日本語で十分生活できる強い国だとわたしは考えています。その背景には過去の江戸時代の思想が大きく影響していると考えられ、特に武士道や近思録などが大きな影響を及ぼしていると思われます。これらの思想は現在でも難題が発生したときなどに問題解決の手段として有効に使える道具です。ですので過去の思想や文化や母語を学び使えるようにしておくと、現在の状況観察から思想と環境を融合させることで対処ができる意味で重要と考えます。</p><p> また今日、日本人の多くは恐らく科学をかつての思想のように多くの場面で活用していると思います。もちろん自然を科学で全て解明することは出来ないのですが、ただそうした科学の思想を持って使えるようになると、一部では無暗に動物のように殺し合わずに済みます。そして多くの方が崇拝している「科学」を信じる立場にたちますと、わたしたち人間の身近で重要な化学物質としては水があります。この水は電気分解することで水素と酸素に分解することでき燃やすことができる意味で価値の高いものだと思います。また一方で水に限らず、札幌における歩道信号のひさしや八王子における畑の活性化や絹産業による商業の発展など、現在人間は自然をより暮らしやすい形で使用している現状があります。過去にはこれら自然を味わって利用してきたことがあるように、現代の私たちも既にあるこれら自然を味わい使うことで需要発掘やビジネスチャンスにつながりそうです。<br /><br /> ところで現在自然界で生きるわたしたちにとって視座を広げますと重要なのは組織と思われます。なぜなら人が複数人集まり組織を形成することで、一人ではできないことができるようになるからです。作られた組織では組織の中の人々をお互い違う「仲間」と考えることが重要と思います。そのためには事業拡大する人と事業を作る人とは違っているなど、それぞれの良いとこを掛け合わせながら協力するということが重要になるかもしれません。それを実行に移す際人を見極めることが必要になりますが、その時に多くの方はどうしてもどれだけ続けているかといったことやどんな資格があるかといったこと、即ち過去の経歴を多くは重要視しがちです。しかしそれらはあくまで参考程度に考え方を過去から未来にむけ、相手を先行投資して違いを育てる価値観を持てると良いかもしれません。</p><p> </p><h4 style="text-align: left;">自然における情報としての取り扱い方<br /></h4><p> わたしたちは常日ごろ無茶苦茶な自然の世界に居ますが、その無茶苦茶な自然界の中で価値があると思われる情報は多くあります。古くから知られる情報の多くは早く仕入れることが大切と思われていますが、それだけでなく過去の古い情報から独自性を見出すことで新たな価値を生むこともまた重要だと思います。そしてこうした過去の情報から独自性のあることを見出すこと、見出された情報が機械化がより進んでいる現在、今後大きく貴重な存在になると思われます。</p><p><br /> そのためにはものごとの捉え方を変えて、つまりは物事の二面性を意識するとよいかもしれません。例えばブラック企業の環境下においてもホワイト企業のような要素を見つけるとか、あるいは人と接する場合においても内面の良いところを観てその良きところを他の人に宣伝できるようにするとか、です。さらにそうして得られた良いところを論理的な概念や解釈をつけることで、それが起こった場面だけでなく、別の問題が発生した場面においてもアイデアとして活用することができると思われます。</p><p> </p><h4 style="text-align: left;">情報から考えられる思想の三種類 </h4><p> なおアイデアや考え方には大きく分けて三種類あると思います。それぞれ<br /></p><ol style="text-align: left;"><li>一般的な普通だけども悪くなるかもしれない考え方や状態</li><li>奇抜でおかしいけども良くなるかもしれない考え方や状態</li><li>アイデアや考えの概念がない動物的な状態</li></ol><p>です。<br /><br /> 1.は一般的な普通な考え方と言えます。自由のない社会主義や共産主義的なつまらんさせられ環境と言えるかもしれません。つまり自分を滅してでも気に入られたい気持ちや自信のなさがあり、勇気もないので行動もできず過去のことばかりに執着すると思われます。勝負をするにもどうしても楽して勝とうと意識しますし、勝つためにはどんな汚いことでもするという面で良悪両面あります。その割に過剰に持っているため暇ですが論理的に考えられます。どちらかというと育てる思想を持つことができません。公務員や会社員のような方の考え方と言えるかもしれません。デマの呟きや2ちゃんねるなどの悪い情報も叩くために積極的に流します。<br /><br /> 2.は1.の逆です。自由を主体とした民主主義的な自分主体な環境と言えるかもしれません。己の気持ち良いや楽しいを主軸に取り自信をもって勇気をもって行動することができます。例えば自分にとっての不得手を他の人に渡したり、自分が悪い気持ちにならないことを選択ができると思います。そして未来を中心に考えるのでたとえ失敗したり負けたりしても辞めない限り良くなり続けられます。暇でなく人間は本来非論理な心を持っているためそれを使えば育てられます。こちらは起業家のような考え方と言えるかもしれません。いい情報を流し続けられる意味で誠実さは持てるかもしれませんが、行き過ぎてしまうと場合によっては「していることで死んでも満足する」といったおかしな考えを持つこともあるでしょう。 <br /></p><p><br /> 3.は思想がなく現在しかないので殺し合いになります。</p><p> </p><p> どの考え方も一長一短ありますし、人間は不合理な生き物なので全ての考えを持っていることも考えられます。ですので必要な時に応じて、それぞれの考え方を選択できるようにしておくと良くなることができるようになるかもしれません。</p><p> </p><h4 style="text-align: left;">2.の思想を使った場面</h4><p> 特に2.における思想を使うことで活用できる面は二点思いつきます。</p><p> 一つ目は環境の整備の場面です。たとえば現状喫茶店などの空間を売る仕事では大体1時間程度の滞在が通例として考えられているそうです。しかし一方お客さんの何時間でも居ていいような喫茶店環境を作り、満足に応じた寄付形式で費用を募ればその場面は無理だとしても後々稼ぐことができそうです。<br /><br /> 二つ目は他者との協力する場面があります。一般的に人と人とが接する仕事のある場合、したいことしたくないこととは出てくるものですが、相手にとってしたくないことを敢えてご自分が積極的に取ることで相手にとっての牽制をすることができます。特に未経験なことなら行動することで思ってたんと違ったということもあるでしょう。さらにそれで思ったような成果が得られなかったとしても、今度はそれから「相手の強さを認める=自分の弱さを認める」ことで自分と相手のお互いの強さを掛け合わせられると思います。その際人のどんなところが強いかを知るため適切に聴くこと見ることが重要です。相手のことを適切に見たり聴いたりするためには例えば主張の集大成と考えられる読書を例にとりますと、適切に書けるようになることや適切に読むことができるようになることが重要になるように思われます。<br /></p>幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-5648649497191688872020-12-14T13:39:00.000+09:002020-12-14T13:39:48.424+09:00桜島が中心にある県鹿児島で暮らす<p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-cLZD9GFl5Qw/X78_pm7k89I/AAAAAAAAC9Q/p9olkINd0ngtmvms9whtRL9OSgVxg8hbACNcBGAsYHQ/s2048/IMG_20201105_111517.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="1536" data-original-width="2048" height="480" src="https://1.bp.blogspot.com/-cLZD9GFl5Qw/X78_pm7k89I/AAAAAAAAC9Q/p9olkINd0ngtmvms9whtRL9OSgVxg8hbACNcBGAsYHQ/w640-h480/IMG_20201105_111517.jpg" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">西郷隆盛像です。この像に限らず市内に銅像がやたら多い気がします。<br /></td></tr></tbody></table><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"><u><b><span style="font-size: large;">鹿児島という土地 </span></b></u><br /></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"> </div><div class="separator" style="clear: both; text-align: left;"> 鹿児島は本州の中でも最南端にある都道府県です。今回は鹿児島県の中でも中心地として知られる鹿児島市に行きました。ここはかつて江戸時代には島津家が強かったことと西郷隆盛が生まれ育った場所として知られ、特に鹿児島市内には多くのそれらの銅像やモチーフがあります。なぜあんなに銅像が多いのだろうと思ったほどです。</div><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-sTmHbRaoIKU/X7tbwT20yWI/AAAAAAAAC8A/hm1Xbkict98oduyRM0DlWpHJpZH2_jw9QCNcBGAsYHQ/s2048/IMG_20201119_095209.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="1536" height="640" src="https://1.bp.blogspot.com/-sTmHbRaoIKU/X7tbwT20yWI/AAAAAAAAC8A/hm1Xbkict98oduyRM0DlWpHJpZH2_jw9QCNcBGAsYHQ/w480-h640/IMG_20201119_095209.jpg" width="480" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">島津家のもの思われる家紋です。<br /></td></tr></tbody></table><span style="font-size: large;"><br /></span><p><u><b><span style="font-size: large;">鹿児島県の整備やインフラについて</span></b></u></p><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-yvydnCRCDcg/X79HwFBkgkI/AAAAAAAAC-A/CiU6TMB1wnc3rLjt-3CCxBXERtQPi8yPwCNcBGAsYHQ/s2048/IMG_20201105_121910.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="1536" data-original-width="2048" height="480" src="https://1.bp.blogspot.com/-yvydnCRCDcg/X79HwFBkgkI/AAAAAAAAC-A/CiU6TMB1wnc3rLjt-3CCxBXERtQPi8yPwCNcBGAsYHQ/w640-h480/IMG_20201105_121910.jpg" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">市内から眺めることができる桜島です。良くも悪くも桜島。<br /></td></tr></tbody></table><br /><p> 鹿児島県の全域にかかることだと思いますが、鹿児島県の中心には桜島があり、風に舞って桜島の火山灰が広く堆積することから、道のあちこちで火山灰を集めている様子がうかがえました(下記写真のような火山灰を集めた黄色い袋が道のいたるところにおいてある)。</p><p> 年中火山灰が飛散することにより街の方が頻繁に道路を掃除しているためか、あるいは火山灰が道の劣化を防いでいるからなのかわかりませんが、他県の道と比べて作られている年数の割に綺麗な感想を持ちました。加えて距離に対して大きい公園の多い印象を持ったことから、建築などのインフラ整備を強くあろうとしていて、だからこそ例えば鹿児島高専には化学の学科はないのかも知れないなと思いました(本来高専は大学卒業者より早く実践力に強い若者を社会に送る目的で設立されたと言われています。ですので鹿児島県は建設業が強いからこそ建築の学科はあっても化学の学科がないのかもしれないと予想しました。)。</p><br /><table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-QCoPLc9ie14/X784Nkc6KwI/AAAAAAAAC8s/zuLp_2opo9U_VmJZCAr5fyXkPo7Sbp8jACPcBGAYYCw/s2048/IMG_20201105_103916289.jpg" style="clear: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="1536" data-original-width="2048" height="480" src="https://1.bp.blogspot.com/-QCoPLc9ie14/X784Nkc6KwI/AAAAAAAAC8s/zuLp_2opo9U_VmJZCAr5fyXkPo7Sbp8jACPcBGAYYCw/w640-h480/IMG_20201105_103916289.jpg" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">桜島の火山灰を集めた袋です。火山灰は触るとサラサラしてます<br /></td></tr></tbody></table><p><br /></p><p> 鹿児島の地元にある国立鹿児島大学に行くと、鹿児島県の特徴としてこの桜島のことを熱心に研究していることが伺えました、特に鹿児島大学内の博物館に行くと鹿児島の特徴が書かれた資料を見ることができました。地質や気候などを研究している人が多いのでしょうか。現象究明はもちろん必要なのかもしれませんが、それから一歩進んで「自然現象をどう使うか」という発想があったら更に自然を良く活かせそうな気がします。</p><p> 例えば下記の写真にもありますが、鹿児島は桜島のマグマの影響で温泉が多くの場所で取れるらしく、それで商売をしている方も多く見られます。桜島など活火山のない一般的な銭湯ですと水やお湯を加熱などする関係で光熱費がかかるため恐らく銭湯代も一回辺り500円弱でおおよそ夕方から営業するところが多いのですが、鹿児島の桜島近くの温泉は自然に年中温められているため営業時間も早朝から値段も200円や300円で入ることができます。そうした意味で僕のような温泉好きな人にはコストパフォーマンスがよく温泉に浸かれるので良いと思いました。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-PZhBhTV3doI/X79I3Dj21lI/AAAAAAAAC-U/iXoeGv-smCUdkEgqRGukL-UAGyfE0YpgQCNcBGAsYHQ/s2048/IMG_20201104_110705.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="1536" data-original-width="2048" height="480" src="https://1.bp.blogspot.com/-PZhBhTV3doI/X79I3Dj21lI/AAAAAAAAC-U/iXoeGv-smCUdkEgqRGukL-UAGyfE0YpgQCNcBGAsYHQ/w640-h480/IMG_20201104_110705.jpg" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">鹿児島の桜島付近はマグマによって温泉が沸きやすくなっているそうです。<br /></td></tr></tbody></table><br /><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-3mZIGH0cFHk/X784Rbziq_I/AAAAAAAAC88/Yq9QDw1TsbYHl6u4lcjnsgFr3jZC-MylgCPcBGAYYCw/s2048/IMG_20201121_062748303.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="1536" height="640" src="https://1.bp.blogspot.com/-3mZIGH0cFHk/X784Rbziq_I/AAAAAAAAC88/Yq9QDw1TsbYHl6u4lcjnsgFr3jZC-MylgCPcBGAYYCw/w480-h640/IMG_20201121_062748303.jpg" width="480" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;"> 霧島の温泉:早朝6時から250円で温泉が入れるのは嬉しいです。<br /></td></tr></tbody></table><p><br /></p><p><u><b><span style="font-size: large;">鹿児島市内の移動 </span></b></u><br /></p><p> 鹿児島市内の移動には市の<a href="https://www.kys-cycle.jp/kagorin/">レンタサイクル(かごりん)</a>を使いました。初日は市内を歩いていたのですが名古屋ほどではないものの市内で人がいたり栄えたりしたりする場所を見て回るにはなかなかの距離がありました。ですからそれを危惧して路面電車やバスの他、市が管轄しているレンタサイクルがある程度設置されています。</p><p> 特にレンタサイクルの決済には現金のほかカードやwaon、nanacoが使え、料金は24時間ごとに200円かかる仕様で便利だと思います。もちろん市内にはバスや路面電車も走ってるので早く移動することを考えるにはそれらを使った方が良いかもしれないです。しかしそれらを利用するにはどうしても交通機関が来る都合に自分が合わせて動かなくてはなりません。それはめんどくさいです。ですので時間を気にせず市内を回るにはレンタサイクルを使った方が効率的だと思いました。 </p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-IdyEZUmKCQg/X7tN2DZFfLI/AAAAAAAAC7I/IRGtwT4ZedcYQR-qenXFNUBfpEF7iH4PwCNcBGAsYHQ/s4160/IMG_20201104_100720.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3120" data-original-width="4160" height="480" src="https://1.bp.blogspot.com/-IdyEZUmKCQg/X7tN2DZFfLI/AAAAAAAAC7I/IRGtwT4ZedcYQR-qenXFNUBfpEF7iH4PwCNcBGAsYHQ/w640-h480/IMG_20201104_100720.jpg" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">レンタサイクルの貸しポート(一例:鹿児島大学)です。<br /></td></tr></tbody></table><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-apChi3W1hMU/X7tNzQMUvaI/AAAAAAAAC7U/MbKcC3mLCrcKl56rjO4dma7B49hbht13wCPcBGAYYCw/s4160/IMG_20201104_100742.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3120" data-original-width="4160" height="480" src="https://1.bp.blogspot.com/-apChi3W1hMU/X7tNzQMUvaI/AAAAAAAAC7U/MbKcC3mLCrcKl56rjO4dma7B49hbht13wCPcBGAYYCw/w640-h480/IMG_20201104_100742.jpg" width="640" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">機械が剥き出しでカード使えますよと表示されているのは新鮮に感じました。</td></tr></tbody></table><p><br /></p><p>自転車を使う方法は</p><ol style="text-align: left;"><li> 携帯電話とnanacoやwaonを使ってnanacoやwaonを鍵として登録する</li><li> 現金、nanaco、waon、クレジットカードで決済する</li></ol><p>ことで24時間まで一回当たり30分間自転車を借りられます。借りた自転車は返却するポートに刺せば返却完了でした。 これが東京都内や他の県でも横展開できればいいのになと思いました。</p><p></p><p></p><p> </p><p><u><b><span style="font-size: large;">鹿児島にいる人々の特徴</span></b></u></p><p> 一言でいうと保守的な気がします。良くも悪くも固いということです。</p><p> 特に仲間内と仲間外との境界線がかなり厳密で、例えば観光に来た仲間外の人たちには観光客として接してくれるものの現地の人とは扱いが違うような気がしました。仲間外から仲間内に入るには非常に大きなコストがかかる気がしました。そして仲間外向けの人にとって仲間内向けの良い点を簡単に受けることはできないことも考えられました。それだけ仲間外向けに厳しく仲間内向けにやさしい土地柄のような気がします。仲間外向けの対応をされる人が仲間内向けの人になる場合には、おそらく相手の考え方を根本的に変えられるほどの大きなショックを与えられればチャンス自体はあるかもしれません。ですが、そうした突飛な考えは一般的に排除される傾向にあるため、既に同じような考えの排除したい人数が多いと数の論理で突飛な人が潰されることもあろうと思います。</p><p> 特にそれぞれの土地で観光客の対応を受けると人々のリアルさを感じられない問題がありました。確かに観光客向けの対応をされるともてなされる意味で一時的には楽しいと思います。しかしリアルさがない状況では交渉は勿論、商売もすることが難しいように感じます。もっとも他の人の家に行く場合にはたいていそれぞれの文化が違ってくるので同じ文化を持っていることはほぼないのですが、言語の特殊性があるのかあるいは見た目でわかるのか、今回行った僕のような他県や仲間外の人としては住民の人たちと仲良く接するには敷居が高く感じてしまいます。</p><p> ただそうは書くものの今回接した人は凄く素直な方が多い気がしていました。ですのでそうした素直な方と接していくには何らかのアクションを起こして一時的に反発される覚悟で内輪の中に入っていくか、あるいは長く住んで相手の違和感をなあなあで受け入れていくかをすることで仲間内に入りやすいかもしれないと思います。</p><p> </p><p>次は長崎佐世保について書きたいと思います <br /></p>幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0日本、鹿児島県鹿児島市31.5968539 130.55713923.2866200638211538 95.4008892 59.907087736178845 165.7133892tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-69587289776254724182020-11-29T11:47:00.001+09:002020-12-14T13:41:33.217+09:00おっさんの九州旅(概要)<p> このたび2020年11月3日から2020年11月21日まで九州3県(鹿児島、福岡、長崎佐世保)に行き、九州の地が関西や関東と違ってどのような土地なのか、ここで暮らすには何が必要か、九州で暮らす人たちはどんな方か、などを体感しました。</p><p> また今後台湾に行こうと考えていますが、その際自分の知っている文化圏とは異なる文化圏に入り込むにはどうするか、といったことの練習をする目的として、九州で生きるにはどうするのか、交渉などをするにあたり何が必要かといったことを調べました。以上のことについてここでは書きたいと思っています。 <br /></p><p> </p><p> <span style="font-size: large;"><u><b>必要だったもの</b></u></span></p><ul style="text-align: left;"><li> 氷点下まで耐えられるマミー型の寝袋</li><li> タオル2枚くらい</li><li> 数日分の着替え </li><li> 体洗う用、衣類洗う用の洗剤</li><li> 歯磨きセット</li><li> 移動を缶便にする小分けのバッグ <br /></li></ul><p> 持って行ったけどいらなかったもの</p><p></p><ul style="text-align: left;"><li>暇になったら読もうと思った5冊の本</li><li>過剰なタオル</li></ul><p></p><p><br /></p><p> <u><b><span style="font-size: large;">荷物</span></b></u></p><p> 上記の必要だったものと持って行ったけどいらなかったもの、すべてをロスコの大きなリュックバッグに入れ持って行きました。</p><p> 荷物の大きさは飛行機の手荷物に乗るぎりぎりの大きさだったので、行きは預け荷物帰りは手荷物で乗せ移動しました。今回飛行機は国内便でしたのでまだ荷物の大きさが厳しく取り締まられることはなかったですが、海外へLCCで行くとしたら荷物の大きさが引っかかって輸送するのに追加料金がかかりそうな気がします。大は小を兼ねると思って大きなバッグの荷物を持ってゆきましたが、使わないものを持ち歩くことは苦痛でしかなく、それだったら使わないものは使わないものとして持ってゆかない勇気を持つ必要性を感じました。</p><p> 荷物の総重量は合計でおよそ10キロ近くあったので、日中は都度大きな荷物と小さな荷物に小分けにし、大きな荷物をコインロッカーに入れました。コインロッカーは主要の駅にももちろんありますが、それ以外にも特に主要駅の近くに百貨店や商店街がある場合にはそこにもコインロッカーがあり、百貨店や商店街の空いてる時間に荷物を預けて移動することを考えるならどちらかというと割安でした。なお</p><ul style="text-align: left;"><li>鹿児島では駅のロッカー(400円/24hr)に対してイオンのロッカー(200円/day)</li><li>博多では駅のロッカー(400円/24hr)に対してヨドバシのロッカー(200円/day)</li><li>佐世保では駅のロッカー(400円/24hr)に対して五番街のロッカー(100円/day)</li></ul><p>がそれぞれありました。上記の百貨店や商店街にある安いコインロッカーは駅のあるものと比べて大きさは若干小さかったです。</p><p> <br /></p><p> <u><b><span style="font-size: large;">気を付けたこと衛生面など</span></b></u></p><p> お金を使って毎日宿泊所に泊っても良かったのですが、それぞれの地を知る意味では現地での地を直接足で回る必要があると思いました。それゆえ野宿と宿泊施設を5:5くらいの割合で行いました。</p><p> 野宿をするにあたって幸い日本には至るところに公園があり、その公園ではたいてい水道とトイレが設置してあります。ですので公園の水道で無料で口をゆすいだり水を飲んだり用を足したりできたのは非常にありがたかったです。また日本にはどこの場所にも銭湯があり、特に鹿児島は桜島が活火山であることから県内のいたるところで格安の温泉があります。ですので衛生面を考えて日々銭湯や現地の温泉を利用し身を清めました。なぜそのようなことをしたかというと、恐らく一般的な人は汚い人と話や交渉をしたいとは思わないだろうと思ったからです。</p><p> なお僕も現地に行ってから知ったことなのですが、今の武漢肺炎の蔓延に伴い、国がGOTOという事業をしているだけでなく、実は地方自治体も宿泊や食事について助成事業をしています。それらをうまく組み合わせ利用することで格安で泊まったり食べたりすることができました。このようなものをもつけられること自体が実に運がいいです。</p><p><br /></p><p> <u><b><span style="font-size: large;">全体的な特徴</span></b></u> 地産地消ができるため食べ物がおいしい</p><p> 基本的に九州にはどの県にも港があります。ですから、近場の港でとれた魚を新鮮な状態で捌くことができるようです。それゆえ店などで出される魚はおいしいと思われます。またお野菜も九州内でとれたものを回すことができるので、近場のおいしい野菜を食べることができます。</p><p></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-RKXa10l7As4/X78_pf40agI/AAAAAAAAC9k/rAwpcjQ0xEw9-YzmFMfn3LcL7qrL4cJegCPcBGAYYCw/s2048/IMG_20201107_174711.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="1536" height="640" src="https://1.bp.blogspot.com/-RKXa10l7As4/X78_pf40agI/AAAAAAAAC9k/rAwpcjQ0xEw9-YzmFMfn3LcL7qrL4cJegCPcBGAYYCw/w480-h640/IMG_20201107_174711.jpg" width="480" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">佐世保の港です。港近くには市場がありました。<br /></td></tr></tbody></table><br /> <p></p><p> 東京や大阪などでは流通量が多いので自分の土地とは異なった様々な土地のものを食べることができますが、魚も野菜も生き物なので、それらが取れられて死んでからすぐ食べる方がおいしいと思われます。その意味で九州の食べ物は他の県で食べる場合と比べておそらく美味しいのでしょう。</p><p><br /></p><p> <u><b><span style="font-size: large;">仕事に対する考え方</span></b></u></p><p> 九州に生きている方と接してみて、どちらかというと生きるための仕事をしている人が多い印象を持ちました。ですので仕事に関して基本的に「遊びの要素が少ない」かもしれないと思っています。</p><p> また素直で真面目な人が多いためか、例えば歓楽街で呼び込みをしている人であっても東京などのように強引に呼び込もうとしたり人を騙そうとしたり傷つけたりしようとする人が少ないイメージを持ちました。全体的に中庸な人々が多数を占めているように感じられ、変に尖っている人や変に外れているような人は少ないような気がしています。もしかしたらそのような尖った人や変に外れている人は大阪や東京などの都会に出て行ってしまうのかもしれません。</p><p> </p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://1.bp.blogspot.com/-lDspaLhmP94/X79MyMTlAtI/AAAAAAAAC-8/6qkNyiSjIioCzgR2J_L078Ue-yeHJVndQCPcBGAYYCw/s2048/IMG_20201105_011043.jpg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="1536" height="640" src="https://1.bp.blogspot.com/-lDspaLhmP94/X79MyMTlAtI/AAAAAAAAC-8/6qkNyiSjIioCzgR2J_L078Ue-yeHJVndQCPcBGAYYCw/w480-h640/IMG_20201105_011043.jpg" width="480" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">鹿児島市歓楽街 呼び込みは強引でないです。<br /></td></tr></tbody></table><p><br /></p><p> 今回行った土地はあくまで一つのケースでしかありませんが、少なくとも食べ物がおいしく、また中庸な生活を目指す人でしたら九州に住むのはありだと思います。</p><p> <a href="https://19jin.blogspot.com/2020/12/blog-post.html">次回</a>以降はそれぞれ行った場所の記録を書きたいと思います。</p>幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-76635867897609675602020-10-28T12:47:00.003+09:002020-10-28T12:47:58.933+09:00文化(言葉と体験)問題への対処<p> 今までそしてこれからも多くの人と接する機会が増えるにつれ、他者の文化を知ることは重要になってゆきます。そうした他者の文化を知る場合にはいくつか方法があり、その文化の代表的なものに「言葉」と「体験」があります。今回は文化の枝葉に当たる「言葉」と「体験」についてそれぞれどのようなことかを考え、どうしたら言葉や体験から生ずる「異文化の問題」へ対処することができるか、また僕の体験例から異文化間への問題への対処法を示します。</p><p><br /><br /><br /><b><u><span style="font-size: large;">言葉の問題</span></u></b><br /><br /> 文化には言葉があり、普段我々が使っている言葉についてあまり意識していないかもしれませんが、言葉の中には言語だけでなく人の感情を乗せることができ(言葉=言語+感情とします)ます。<br /><br /> そして言葉の中の言語はあくまで文字や記号といったものでしかなく、その場にある言葉に乗っている感情は言語で正確に表現できない問題があります。確かに言語自体は翻訳なり勉強するなりすれば習得できることがあるかもしれません。しかし実際その言葉を発した人がどういう気持ちであるかとか、言葉を発した人がどのような背景からその言葉を発しているか、などといったことは言葉の発された場面で言語だけでは把握しきれません。<br /><br /> そもそも他者との交流で使われる言葉の中に感情があること自体を知らない可能性があります。言葉を交わしていても感情がお互い通い合っていないと、お互いに話している言語だけやり取りをしていても「なんか違うんだよな」と思われることがあると思います。</p><p><br /> 例えば最近のニュースで日本の茂木外務大臣が外国人記者を慮って言っている言葉でも外国人記者はそれを攻撃と思ったことがありました。このような一場面、すなわち限られた時間内において言語だけで言葉の全てを表現するのはなかなか難儀です。</p><p> </p><p></p><p></p><p><u><span style="font-size: large;"><b><br />体感の問題</b></span></u><br /><br /> 文化には言葉だけでなく体験することもあります。身を持って他文化を体感を得るには「他文化を理解する必要がある」と思っています。</p><p><br /></p><p> それには捨てる必要はないにしても少なくとも一度は「自文化を捨てる覚悟が必要」だと思っています。なぜなら自文化に凝り固まっていしまうと他文化を理解することができず、自文化で他文化を裁いてしまう恐れがあるからです。本来他者を理解すること・他文化を理解することが目的なのにそれを自文化の土俵で裁いてしまっては、得たい目的のものも得られなくなります。</p><p> <br /></p><p> また自文化でも他文化でも良いところもあれば悪いところもあります。例えば日本人だったら相手が嫌な気分を抱くだろう時には「相手を思いやって言葉にしない」文化があるでしょう。これは空気を読むことと同じですが、これも日本人特有で感じることのできる良くもあり悪くもある文化だと思っています。<br /><br /> どの文化にも良くも悪くも特徴があるので、すべての文化を理解することはあっても受け入れる必要はないと感じています。特に自分が良く生きることを考えるのならば、得られた文化を良い形で取捨選択する必要がある気がしています。一般的に「良い」や「悪い」という価値観はあくまで自分が感じている限定的なものです。それは他者が言ったからとか権威のある人が示したからと言って自分には何の関係もありません。「良い悪い」はご自分で選ぶことのできるものです。ですから僕は自分が良いように幸せに生きようとするのならば、自分の心にたがって、良いを選択をし続けることが大事なのではないかと思っています。 </p><p> </p><p><u><b><span style="font-size: large;"> 文化を知る方法 </span></b></u><br /></p><p> 言葉や体験などの文化を知るにはその地に住むのが一番です。通常ある場所に行って人と接する場合には「観光する場合」と「住む場合」とがあります。これらは内容が大きく違っています。</p><p> 観光の場合には一見さんの相手に外敵ではないことを思ってもらうため愛想よく振る舞うことが多いです。見ず知らずの相手からも信用されたいといった気持ちや、一見さんの人に「いいように見られたい」もしくは「悪いところは見せたくない」と思っていることのあらわれだと思っています。<br /> 一方住みだす場合はいい面ばかりを出しません。付き合い続けなくてはなりませんから、どうしても悪いところも出てきてしまいます。その人間の素の知れることが僕は面白いのですが、特に行った先で住む感覚を知るためには相手の観光仕様のベールをはがす必要があります。観光仕様のベールをはがす一番早い方法は相手の感情を揺さぶることです。相手の感情を揺さぶることができれば、相手のジャッジラインがわかるからです。</p><p><br /> なお一般的に生活様式には多く宗教が関与していることがあります。我々日本人の多くは多神教だと思いますが、特に仕事の場面では考え方の違いから喧嘩になることを避けるために常識として宗教の話題を出すことはないと言われます。<br /> しかし多くの人は宗教的なことを話したがらないものの、宗教的な内容から特有な行動をとることがあります。ですのでわざわざ相手の宗教を直接聞く必要がなくとも、相手の行動を逆算して推察していけば、完全にはないにしてもおおよそ相手の宗教や是としていることがわかります。もちろん直接聞いてもいいと思います。いずれにしても宗教を知ることは相手の価値判断を知れる意味で大変便利な道具だと僕は思っています。<br /><br /><u><b><span style="font-size: large;"><br />日本国内でも異文化はある</span></b></u><br /><br /> 僕は幼少期を関東で転々と暮らし、関東の高専入学とともに寮に入り、さらに高専卒業後は関西に行きました。<br /><br /> 関東間の文化では特に大きな差はないように感じましたが、特に関東から関西に行った際、凄く大きな文化の違いに驚きました。普段使っている言葉の違うことは勿論ですがそれだけでなく、考え方や言い回し、また是とする文化なども関西は関東のものとは違っていて、同じ日本語をしゃべる日本なのに外国にいるような感覚がありました。<br /><br /> それまで当然だと思っていたものが別の地域に行くとそれが当然ではなかった時の感覚がありました。確かにそれを理解できない部分がある方もいるのはわかりますし、場合によっては伝えたいことが伝わらない意味ではショックな部分もあるのですが、逆に文化が違うからこそ興味深い部分でもある気が僕はしています。</p><p> そしてその時の経験があったからこそ現在他者の考え方に違いのあることを理解することができましたし、自分の気持ちを表現する必要のあった際にもある程度相手の文化に合うような余裕をもって接することができるようになっています。<br /><br /> このことから違う文化は世界は勿論、我々の身近にもあることがわかります。そしてその文化の違いを知っておくとその「文化の差を道具として使える」場面があるように思います。その意味では重要です。</p><p> そうした意味で他者の文化を知るには「他者の文化を知りたいと思う意欲が必要」かもしれないと僕は考えています。文化の違いからカルチャーショックを受ける場合に、「自分が受け入れられずにきつい」と思うよりも「選択肢の増えるチャンスだ」と思うことができれば、それを生かすための考え方も生まれるかもしれないと考えるからです。</p>幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-3179200071001394192019-10-16T12:21:00.001+09:002019-10-16T12:21:36.320+09:00幸せになるには「受け取」り「与える」。 幸せになることを考える場合には何が必要でしょうか、一つに「受け取ること」と「与えること」とのバランスを調整することが大切であるように思います。それら二つは人への不信感が前提にあると適切にできません。そうした人への不信感は相手だけでなく自分を傷つける意味で修羅の道への生き方になると思うし不幸になっている気がします。だとしたならば問題です。そこでここでは「受け取ること」と「与えること」とはどのようなことかを示し、一つの方法として特に受け取る場合において何をどうしたらよいか書きます。<br />
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受け取ったり与えて幸せになる</h2>
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物事はまわりまわっています。日本のことわざや言葉でも例えば「金は天下の回り物」であるとか、あるいは「風が吹けば桶屋が儲かる」といったものがあります。通常生きている自分という人間はできることの限界はあるのですが、それはもちろんのことそれ以上に周りへの影響によって自分が受け取るもの、及び与えるものとが存在します。<br />
ところで「幸せになる」ことを前提とした場合には、それら「受け取ること」と「与えること」とのバランスを調整して平衡にすることで「幸せにつながる何か」の得られることがあります。それらバランス調整することを考える場合、一方だけ強くてもあるいは一方だけ弱くても流れに滞留が起きて本来得られるものでさえも得られないことがあります。ですからきれいな形で「循環」を回すことが幸せになるためには大切であると考えられるのです。<br />
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それを考えるにあたって受け取ることとはその文字の通りで<br />
<blockquote class="tr_bq">
<a class="crosslink" href="https://www.weblio.jp/content/%E8%87%AA%E5%88%86" title="自分の意味">自分</a>の<a class="crosslink" href="https://www.weblio.jp/content/%E6%89%80%E3%81%B8" title="所への意味">所へ</a>来たものを手で<a class="crosslink" href="https://www.weblio.jp/content/%E5%8F%96%E3%81%A3%E3%81%A6" title="取っての意味">取って</a>持つ。 「<a class="crosslink" href="https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%A3%E9%87%91" title="代金の意味">代金</a>を-・る」</blockquote>
とあります。<br />
<br />
<br />
<h2>
受け取るとは</h2>
<br />
多くの大人は小さいころに母親からは通常無条件の愛情を受けて育っていきますが、この「愛の受け取り」に何かしらの悪影響があると大人になって他者からの愛を受け取ることができにくくなる性格になると思われます。またそれだけでなく生育過程で他人からの裏切り行為を学習してしまうと、大人になっても人から好意で出されたモノを受け取ることができない性格になることも考えられます。すると本来純粋な気持ちで接してきている人を必要以上に疑ったり常に考えの邪推をしたりする人間になってしまうのではないでしょうか。https://www.nhscafe.net/blog/1386<br />
もちろんそうした歪んだ考え方を持っていても生きていけるかもしれません。もしくはひょっとしたら「相手への疑い」が社会に評価されてそれなりの金銭なり地位なりを築いて次の世代に世代交代のできる可能性もあるかもしれないし、もしくは死ぬまで気づかないことがあるかもしれません。<br />
が、僕にとして見たらそれは常に相手を疑がわなければならない状況にあって自分にとって嬉しくないと思うし、その状況下では自分や他人の強さや弱さも認識することができない意味で「修羅の道・わけのわからない生き方」をわざわざ選択しているように思えます。修羅の道やわけのわからない生き方を実現するために必死になって努力したり工数を使ったりすることは非常に生きにくいのだろうなあと個人的には思います。<br />
そうした意味では自分の考え方が歪んでいるおかげでわざわざ「不幸を選択している」人のいることが残念でならないです。ただし僕を一支援者として考える場合にはあくまでその不幸を選択していることを指摘することはできても、相手に強制的に幸せを選択させることはできません。なぜなら不幸を選択しているのは「相手」だからです。<br />
<br />
<br />
<h2>
受け取れない人へは何ができるか</h2>
<br />
受け取れない人に対して何ができるかというと、一支援者としてでしたら<br />
<blockquote class="tr_bq">
①受け取れていないことを認識してもらい<br />
②相手に考えて変化するまで「待つ」</blockquote>
ことが大切であるように思います。<br />
<br />
僕の場合特に接する時間が少ない時には少々強めに接しますが最終的な部分までは関与しません。通常受け取ることを拒んでいることを認識し、変える必要があるのは「相手」です。ですので相手にとっての外部である僕が最初から最後まで働きかけることはできません。<br />
つまり事実の指摘はすることはもちろんあるでしょうが、事実への認識から一歩を踏み出すのは相手ですから、相手の踏み出しを支援する意味では相手が成長して事実からの変化をつかみ取ることを待つことが必要です。<br />
<br />
その際変化をつかみ取ることへの大切さを認識するキーポイントは「自分の感情を認識すること」です。加藤諦三さんの本で「感情を出した方が好かれる」という本がありますが、それには感情を思い出すための方法が書かれています。<br />
感情を認識するにはどなたかが話を聞いてくれるのが一番手っ取り早いと思いますが、それだけでなくこうした本を読んで自省し行動を変えていくことが自分にとっては幸せになれる可能性があると思います。生きている自分の感情を認識せずして変化することはできないし、現状不幸であったり幸せでも不幸でもない状況であるとするならば変化を拒めば幸せになれないでしょう。<br />
<br />
<br />
<h2>
与えるとは</h2>
<br />
さらに「受け取れること」と逆のことが「与えること」です。「与える」というと上記の歪んだ考え方を有している人は「見返りを求めること」として認識していることがあるようですが、必ずしも「見返り」は発生しません。<br />
また歪んだ考えの方にはなかなか理解することができないでしょうが、「与える」ことは「与える側」に幸福感をもたらします。損得勘定で物事を考える場合「受け取る側」の「受け取ること」その瞬間こそが「受け取る側」にとっての「得」と思われることもあるとは思いますが、それはあくまで短期的で物理的な利益なだけで、感情的な意味でいうならば「与える側」が「満足し」ます。もちろん素直で純粋な気持ちで与えていることが前提ですが、通常「与える側」は「受け取る側」に「いいな」と思っていることを与えていることがあるからです。与えている側が与えていて、それに見返りがなかったとしても「与えていること」その「行為」で「与えている側」は「満足する」のです。<br />
もちろん与えている側が与えることで受け取る側が何かしら変化したり、いいようになってくれたらいいと思いますが、結果がどうであろうと関係ないものなのです。となると当然与えることによる反応もいらないです。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-18772002873196494992019-10-16T12:09:00.001+09:002019-10-16T12:09:51.926+09:00恋と愛との違い、愛への昇華方法<br />
現段階でのたたき台として文章を書いています。変だったらコメントください。<br />
世の中には「恋愛関係」というものを多くの人が持っていて、それが転じて子供とを作ったり結婚したりして複数人で生活します。その他者との関係を作る場合において「恋すること」と「愛すること」とがありますが、これらは違うことを知ることは重要と思われ、特に「恋」から「愛」に昇華する方法はあまり書かれている文章はないのでここではそれを書いてみました。<br />
<br />
<br />
<h2>
恋と愛の違い</h2>
まず、「愛すること」と「恋すること」とは同じようなものであると認識している人がこの世の中には非常に多いですが、実は恋と愛とは違うものであることは認識したほうがいいです。<br />
<br />
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<h3>
愛することとは</h3>
<br />
「愛すること」とは「相手を認める」ことです。故マザーテレサが「<a href="https://www.borderless-japan.com/members/anti_nuclear/1069/">愛の反対は嫌いではなく無関心である</a>」と言っているように、これを論理的に解釈すると「無関心であること=無視すること=存在を認識しないこと」の反対が「愛」であるといえます。いうなればそれ(無視することの反対)は「存在すること・認めること」であることが考えられます。この「存在すること」や「認めること」というのは「相手がどうあってもそのままを受け入れること」です。もちろん他人と自分とは違う部分があるので、特に価値観や考え方の違う部分は一般的に発生しますが、それらが「大きく違ったとしても受け入れられること」、「違っていてもゆるすことができること」を「愛すること」と言い換えることができます。これすなわち「相手が自分とは違うことを知ること」、あるいは「何が違うのかを明らかにすること」でもあると言えます。<br />
例えば恋愛だけでなく子供を育てようとする親は「子がどんなであっても認める=愛する」 ことがあります。もちろん親である自分の思い通りに子供が動いてくれたらそれ以上に楽しい部分はあるかもしれませんが、親として子供が育つにあたっては社会的に好ましくない非行に走ろうともあるいは犯罪者になろうとも無条件で子供の存在を認めることができるのではないでしょうか。逆に子供の存在が親である自分にとって認められない、もしくは子供は自分の一部のものであると主張するような親がいるとするならば、その親は子供にとって血のつながりはあるかもしれませんが子を育てる意味での親ではないと言えます。<br />
<br />
<br />
<h3>
恋することとは</h3>
<br />
一方「恋すること」とは「手に入れたくて仕方がないこと」と言えます。主に「嫉妬すること」「自分が勝つこと」と言い換えることができます。<br />
「嫉妬すること」とは執念のようなもので、自分にないものを相手が持っていることを妬む、嫉むことで、字の通りです。これは相手と自分とを心の奥底で比べている部分があって、相手と「本来自分が持つ権利のあるはずものを相手が持っていて憎い」といった感情です。つまり心の奥底で「相手と自分との違いがわかっていない」ことが考えられます。これは主に小さいころから自分と親との分離ができていないことが原因として考えられます。なぜなら人間が社会性を有するためには通常一番最初に親との関係がなされていることが言われているからで、親との関係形成につまずくと以後の他人と自分との関係もつまずき続き、結果的には嫉妬心が生まれると思われるためです。ちなみに僕にとっての親は別個体であると認識しているので、あくまで「<a href="https://p-dress.jp/articles/6532">自分のルーツに最も近い他人</a>」であると認識しています。ですから嫉妬心は生まれにくいです(生まれないとは言えないです。なぜなら今後生まれないことを証明するのは悪魔の証明だからです)。<br />
また恋することとは「相手に勝つこと」でもあります。特に重要なのが「自分が勝って相手を負けさせる」 ことが重要とみていて、人生においての「最高」(≠最良)と同じような意味です。「自分が勝って相手を負けさせる」とした考えは最終的に自分に返ってくることが言えます。因果応報という言葉が日本語にもあるように、自分のしたことが最終的には自分に返ってきて負けるでしょう。一般的に勝負はその瞬間だけにを見ることがあるかもしれませんが、これはあくまでその瞬間の勝負なだけであって、それが自分が死ぬまでの長い人生の中でどれだけ意味のあるものなのか、必ずしも短期的な部分の勝負に勝ったからと言って「どうせ最終的には死ぬ」ことを考えるに「相手を負けさせて自分が無理やり勝つこと」自体にはあまり価値を見いだせないのではないかと個人的には考えます。世の成功者やお金持ちの中には勝負を勝ち続けて相手を負けさせ資産を保持する人もいるにはいますが、そうした人は必ずしも自分が幸せではないのではないでしょうか。いやむしろそのような方は相手を負けさせてお金持ちになったことで他人からの反感も同時に買う部分があるので、お金や資産を持っていても心の貧しい人が世の中にはたくさんいる気がします。変に勝負を勝ち続けて一時的には財産を手に入れられたとしても、同時に他人の恨みのような感情も手に入れるのだとすれば、あえて勝負に負けて貧しくても心の平穏を保つ方が人生としての幸せ度は高いかもしれません。むしろ貧しいくらいの方がそうした他者からの恨みを買うことがなく、「生きること」や「存在すること」といったことに集中できることから多くの先に示した不幸な金持ちの人より幸せ度は高いと思います。<br />
<br />
以上のことから基本的に恋することは奪うニュアンスが強いと考えていて、相手を傷つけ自分を傷つけて最終的には誰も得しない、全体としてマイナスに作用することがあると考えています。 一方愛することは相手も自分も得をすることで全体としてプラスに作用することがあると考えています。<br />
<br />
<br />
<h2>
恋する相手から愛する相手に変わるには</h2>
<br />
先の「嫉妬すること」と「勝つこと」とが「恋する」ことと考えられる場合、それを「愛すること」へと昇華させるにはどうしたらよいでしょうか。<br />
<br />
嫉妬することへは自分と相手との違いを認識することが大事だと考えています。先にも示しましたが人間関係の最初の在り方は親との関係にあるとと思われるため、あくまで親とは血はつながっているかもしれませんが、別個体であることを認識することが大事と思います。そのためには親から独立して親以外の価値観を手に入れることが重要かもしれません。相手との分離を考える場合には一般的にカウンセラーの立場ではよくあることなのですが、相手とは感情面で薄皮一枚隔てていると認識することで解決することができます。これは相手の感情を理解することはできたとしても相手の感情を自分の中に取り込まないようにすることであって、相手に自分の人生を巻き込ませないようにするための技術でもあります。つまり相手と自分とは別物であることを前提として考え、相手よりはまずは自分があっての人間関係であることを認識することが重要です。自分を大切にすることから相手を大切にすることがはじまります。僕は仕事であっても基本的に好きでもない人とはしませんが、これも自分と相手とをともに尊重する意味では重要なことと考えます。<br />
また、勝つことへの対処方法として相手を自分として認識した場合に相手にとって気分の悪いことを基本的にしないことが重要です。逆に言い換えると相手が好ましいと思われることは積極的にすることが重要かもしれません。ただし相手が何を望んでいるのかといったことは相手さえも認識していないことが世の中には多いです。確かに態度や言葉で認識することができることがあるかもしれませんが、それもあくまで推察の域を出ない予想です。推察から一歩先をゆき言葉にせよ態度にせよ、ありのままを観察できるようにするためには相手が本音を引き出しやすい関係を作ることが大切かもしれないと僕は考えます。そして自分のことを自分の言葉で表現できるようにすることが大切なのかもしれないとも考えます。そもそも言葉を適切に表現できていない人がこと「関東」に多く住んでいると思います。関西のように漫才文化が発展していないことも一つに言えるのかもしれませんが、それは残念でなりません。僕は大学生の頃に関西に行って言葉の大切さを教えてもらったことがあり、どちらかというと関西の言葉をそのまま表現できる文化は好きです(ただし京都は思ってもいないようなことを平気で言うことがあるため除きます)。<br />
<br />
いずれもこれらのことをするためには相手だけでなく自分自身をも信じることができるのかといったこと、自己肯定感を持つことが重要になる気がします。それには自分や相手の言っていることや感じていることをストレート・ありのままに認識あるいは納得することが大事かもしれません。常にひねくれて認識しているような状況においては相手の状況や感情も、そして自分の状況や感情も認識することができないでしょう。すると例えば相手の感情も自分勝手に解釈して真実を自分勝手に認識してしまうことがあると思います。これは相手を相手の通りに認識できない意味で問題です。確かにおなじような文化で生きている相手であるならば自分勝手に相手の感情を解釈することで似通ったような反応を推察・認識できることがあるかもしれません。しかし、根本的に相手と自分とは違う人間である以上、相手のことを自分勝手に認識することは間違いも発生しうります。そうした意味で真実を認識する意味では二つ以上の独立したソースから導き出すことが必要であると考えられ、自分の感情と後は全く第三者の感情とをもって本当の真実を見極めることが大切なのかもしれません。 そうした意味では一つでも多くの信頼できる人間関係を構築することが大切であるように思います。よっぽどの価値観転換が起こって一人で二つ以上の価値観を有していけるような状況であるならば別ですが、基本的に一人で悩み続けていては問題解決はしません。ですので心を許せるような人を身近に起きましょう。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-89661112993230935302019-10-10T11:03:00.001+09:002019-10-10T11:03:48.050+09:00人づくりと野菜作りの似た点・共通点 僕はかつて福祉事業所で野菜を作っていたのですが、今思い返すとあれは人づくりと似ている点があると思いました。そうした「人の成長」と「野菜の成長」とを共通点として書いた文章は少ないと思います。そこでここでは人の成長・自立について野菜作りで例えれば多少は理解しやすいのではないかと考え文章にしました。この文章を読んで一人でも多くの人が自立してほしいと思っています。<br />
<br />
<br />
<br />
<blockquote class="twitter-tweet">
<div dir="ltr" lang="ja">
人を育てるのは野菜を育てるのと同様<br />
<br />
①誰が対象か見極めて(野菜の植える土地を選定して)<br />
②気持ち伝えて(種植えて)<br />
③言葉で相手を認めて(水と肥料あげて)<br />
④育つのを楽しみに待つ(育つのを楽しみに待つ)<br />
<br />
ことが重要なのだと思うよ。<br />
<br />
特に④の「楽しみに待つこと」は会得が難しい。</div>
— 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) <a href="https://twitter.com/KT_socialworker/status/1181774202140913664?ref_src=twsrc%5Etfw">October 9, 2019</a></blockquote>
<br />
<br />
<h2>
野菜作りが人づくりと似ていると思ったきっかけ</h2>
<br />
かつて僕の所属していた福祉事業所では畑で野菜を作っていました。その時のことを何年かぶりにたまたま思い出して、人と野菜といずれも成長をするにあたっては似た点や共通点があるかもしれないと考えました。<br />
「似たようなところ」とは、野菜作りも人の成長も基本的に「自分一人で影響を及ぼすことのできることは少ない」ところです。人も野菜も他者や日光などの外的要因が成長には必要だと思います。加えて人の成長や自立というものは目に見えません。ですからこのなんとも表現しきれない人の成長や自立といったものを、目に見える「野菜作り」に例えることでもしかしら人の成長や自立を理解することへの手助けができるかもしれないと考えています。そこでここでは試しに文章を書いてみました。<br />
ちなみに私が考える野菜作りにおいて大事だと思われる点は四点あります。上のつぶやきでも示していますがその四点とは「土地」と「種」、「水分や栄養分」と「待つ時間や待てる心」です。詳しい内容を以下に記します。<br />
<br />
<br />
<h3>
あってもいいのは素質(土質、土壌環境)</h3>
<br />
そもそも人が成長したり自立したりする場合においては「素質」が大切と思われます。以前の記事でも記していますが、私の考える「いい素質」というものは「<a href="https://19jin.blogspot.com/2018/09/seijitsu.html">誠実な人</a>」や「素直な人」です。そのような人が僕は好きです。<br />
素直さや誠実さが備わっている人は土でいうとよく耕されていたり日が当たったりすることで、野菜の育ちやすい土地だと思っています。この地質や環境がよくなければいくらいい種や栄養・水分を与えても野菜はよく育たないと思います。ただしこれが必ずしもなくてはならないというわけではありません。たとえ野菜の育成に劣悪な環境であったとしても、土壌改良をすることで「野菜の育つ可能性」はあります。つまり人でいうところの誠実さや素直さといったものは時間経過に対して変化をすることで得られる可能性があるということです。<br />
なお私が京都の福祉事業所で野菜作りをしていた時は、最初稲作用の土地に野菜を作っていたことがありあまり野菜がよく育たなかったと言います。しかし土の入れ替えなどを通して年単位で土壌改良をすることで最終的には野菜が育つようになりました。これと同様人の成長や自立においても、今はひねくれていたり言葉が理解できない状況であったとしても時間経過に対する変化によって誠実であったり素直であったりする人に変われると思います。<br />
<br />
<br />
<h4>
最初に必要なものは気持ち(種)</h4>
<br />
次に大事なのは「気持ち」です。ここからは「野菜作り」「人が成長や自立する場合」において必須なものです。多くが「相手を思いやる心」であったり、「いつくしむ心」「楽しさ」です。ただし気持ちの中には嫉妬心や憎しみの心のようなものもありますがそれらはいりません。嫉妬心や憎しみといった気持から発露したものは後々にあまりよろしくないものを生む気がします。あるいは自分を傷つけてしまうこともあるでしょう。ですからあらかじめ嫉妬心や憎しみの心は自分の中で昇華させておく必要があるように思われます。自分一人でも考えることももちろんできますがそれだけでなく第三者の影響を受けることで自分の中に気持ちが植えられます。<br />
野菜でいうところの「気持ち」は「種」に当たると思います。「気持ち」は「種」のように成長や自立するための源泉にあると思いますし、そもそもこれ(種)がなくては野菜作りははじまりません。野菜を作ろうとしているのに野菜の種を植えなくては野菜はできないと思います。ですからそのための野菜の種を植えるのです。もちろん果物や葉物を品種改良させて種から野菜を植える必要はないかもしれませんが、純粋に野菜を育てようと考えるならば種から育てられれば一番いいと思います。<br />
種を植えるにあたって注意することは、「純度の高さ」や「新しさ」(気持ちの素直さや真新しさ)が必要になるように思います。純度の低い(素直でない)種を植えても発芽しない可能性がありますし、また昔の古すぎる(遠い昔の気持ち)種を使っても発芽率の低いことは野菜の種も一緒です。気持ちにも種にも旬があると考えています。<br />
<br />
<br />
<h4>
そして水分・栄養(認めること・褒めること)</h4>
<br />
いい素質に気持ちが植わったとしたら、次に大事なのは「認める言葉・褒める言葉」です。「認める」とは「相手のありのままを認識すること」で、「褒める」とはその「認めたことを強化すること」です。すなわち人と人とは違うことを認識してもらい、その違いを知って自信を持ってもらうことが大切なのだと思います。<br />
野菜でいうと、これは土に植えられた種に対して栄養分や水分を与えることであると思います。適度な量とタイミングを適切に当てることが大切です。<br />
人が成長や自立する場合にしても野菜作りをする場合にしても、栄養や水分・認める言葉や褒める言葉においても少なすぎても育つことはないし、あるいは多すぎても気持ちや種を腐らせてしまうという危険性があります。ですからそうした意味ではこれらは「適量」を与えて観察することが大切であるように思われます。 適量とはいったいどれくらいだと言われると、人によっても異なるしタイミングによっても異なるので明言することはできません。しかし少しづつ与えていって反応を観察することができれば適量を判断することができるのではないでしょうか。いずれも「覆水盆に返らず」なので、「過ぎたるは及ばざるがごとし」なことを認識して僕の場合は少しずつ与えてみています。<br />
<br />
<br />
<h4>
最後は育つのを楽しみに待つこと</h4>
<br />
最後の段階においては野菜作りも人づくりも共通する部分として、「野菜や人が育つのを楽しみに待つこと」が必要だと思います。要は「相手の気持ちや野菜の成長することを待つ時間が必要」だということです。野菜も人も成長は他人が関与することはできません。これは書きようによったら「勝手に育ってゆくもの」だと認識することができます。言い換えると「お天道様の采配に任せる」といったところでしょうか。<br />
ですから人に対して成長していないのに成長をせかしたり、あるいは野菜であったら芽も育っていないのに土を掘り返したりしては、せっかく放っておけば芽吹くものも芽吹かなくなってしまいます。 現代は数十年前と比べて非常に便利な世の中になってきています。より早く、より生産的にものが作ろられている社会において、どんどん「待てない」世の中になってきているように思われます。そのような変化の激しい社会の中では逆にゆっくり待つ時間を持つこと、待つことを楽しめるだけの心の余裕を持つことがより大事になってくるように思います。<br />
なお上記のように多大なリスク(気持ち、言葉、時間)を負ったとしても残念ながら何らかの不具合によって発芽したり成長・自立できないこともあります。こと人の心の場合にはそのことが顕著であり、自分一人ではどうしようもできないです。ですから「相手が自立したり種が発芽することを期待しない」方がいいかもしれません。なぜなら発芽しなかったり成長・自立することを期待してそうならなかったらがっかりするからです。ですから種を撒いたり相手の自立にかかわる場合には発芽したり自立や成長しない可能性も念頭に置いて、「種をまいて栄養や水分与えて芽吹いたらラッキーくらいの気楽さ」「ダメでもともと精神」を持つことで気分よく待てるのではないでしょうか。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-85011052606840300442019-08-05T12:21:00.000+09:002019-08-05T12:21:20.589+09:00思い込みの使い方 齢36歳になってようやくつい最近ものと言葉の使い方を知った豊島です。思い込みはものによって増幅されるし場合によっては大きな影響を及ぼすことのできるものでもあります。ですから有効に使いたいです。思い込みは有効に使えると幸せになれることのある一方、使い方によっては大変不幸になるものとすることもできます。そこここでは「思い込み」の使い方を書きたいと思います。<br />
<br />
<br />
<h2>
知らず知らずに持っている「お金の常識」 </h2>
<br />
ものとしての「お金」があります。多くの方が「お金が欲しい」と思っている社会の常識があります。しかし、そうした思い込みがあるからこそ、そこに感情が乗っているとお金を得ることで感情が倍増してしまうといった特徴があります。それを考えるとお金と感情はお互いに影響しあっていることで利点でもあり欠点でもあります。<br />
一般的に「金は天下の回り物」と言われています。これはつまり基本的にお金を投げたらそのまま世の中を回っていくものなのですが、そうした流通があるからこそ、そこに感情がつくと爆発的にお金と感情が増えてゆくといった特徴があります。正式には「金」は多くの人がほしいものだからそれを介して「感情」が「増幅」するといったことが起こりうる、ということです。<br />
<br />
<br />
<h2>
お金を使った思い込みの使い方</h2>
<br />
例えば「これであなたが幸せになって欲しい」と言って10円硬貨のあげる場面を考えてみます。相手は10円を貰ったおかげで自分が幸せになったと思います。あるいはそうされたことによって相手は自分が幸せになるために10円を使うとします。すると「10円」というただの硬貨が「幸せの道具」と思い込むことが可能なのです。気持ちは満たされるとそれ以上の価値を生み出すことがありえて、以後10円以上のお金を与えたくなる。といった特徴があります。すると最終的に戻ってくる金額は10円以上の価値となります。<br />
これは悪い風に、すなわち「呪い」としても左右させることができます。例えば「これをあげると私が死んでしまう」と言って10円あげるとしましょう。すると相手は10円を貰ったおかげで相手が死んでしまったと思いこみます。すると10円が命の値段と思い込む部分がどこかにできます。すると以後10円以上のお金を受け取るのが怖くなるといった現象が起きます。(10円×人数分を自分が殺したと錯覚する)最終的には人の命を絶つ金額が10円以下となることがあるかもしれません。そうした意味ですごく少ないお金でも恨みや呪いの増幅ができます。<br />
<br />
<br />
<h2>
お金を使った指導の仕方</h2>
<br />
特に幸せの増幅についてもっと言うと、例えば10円をあげて、「これをあなただけでなくほかの人の幸せに使って欲しい」と言って渡し、その明細を次回会ったときに確認します。すると相手があげた10円をどのように使ったかチェックすることが出来ますし、改善点があればそれを言うことで指導することが可能です。<br />
また次に会ったときに追い銭して10円あげることで、更なる相手へ幸せの感情強化を図ることが可能だと考えています。こうした良い意味での感情強化を繰り返すことで相手を投資家として育てることが可能です。<br />
<br />
<br />
<h2>
逆に無価値な物を価値ある物と出来る</h2>
<br />
思い込みを応用する方法としてすでに保有しきれないほど持っているものを売るとして、たとえば「空気」も売れます。<br />
「満足になれる空気」として5000円で売るとしましょう。これを吸ったり身近に感じさえすれば自分も満足と思います。満足がその空気と思いこみます。すると次から次へと買おうとする現象に遭遇します。空気の元値はほぼ0円でしょうから、空気が売れれば売れるほど稼げます。<br />
確かにそれで健康になれるとかお金持ちになれるといったら実際になれなかった場合に「詐欺」として思われるわけですが、逆に相手に「満足」として認識してもらえば詐欺ではないともいえるでしょう。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-59565727765160239042019-07-10T15:50:00.000+09:002019-07-10T15:50:17.751+09:00運を良くする方法=命をかけることから=<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 多くの人が考える「運」は普段何気なしに生きている状況では良くも悪くも「引き寄せる」ことや「影響を及ぼす」ことは出来ない。しかし一つにリスクをとることで「自分の行動」から運を引き寄せることが出来る。ここではリスクの中で最大と思われる「自分の命」を使った場合について考え、それを「どう生かすか」例を交えて書きたい。なお、人間死ぬ気で行動すればたいていのことはかなう、とよく言われるが、それは概ね正しい(かなうと言うよりは良くなると言ったほうが近い)ことをここでは書きたい。</span><br />
<br />
<br />
<h2>
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">多くの人から見た運とさだめ </span></h2>
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 一般的に運はどうしようもない。それは当然のことで、なぜなら人間にはできることの限界があるし、自分のできること以上のことをしようとしても無理だからである。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> そのようなどう頑張っても限界がある世の中で、特に我々が考える普段の「満たされた状態」では決して運を左右することが出来ないわけだが、一方でその「運」と言うものはある「自分の考え方と行動」を通して引き寄せることが出来る。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> そのような引き寄せ、即ち「運を良くする」、若しくは「運が良くなるようなチャンスをつかむ」ときには通常「自分の中でリスクを負うこと」が大切である。リスクとはすなわち「価値のあるもの」や「唯一のもの」を指す。例えば「お金」や「財産」はもちろん、究極の例で言うならば「自分の命、人の命」などもそうである。「失敗したらなくなってしまうもの」は価値が高い。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 「失敗したらなくなってしまうものの価値は高い」ことを考えると、通常「お金」や「財産から交換したもの」は多く替えが効く。替えが効く意味では価値の低いものとも考えることが出来る。またお金や財産自体もかけて失ったとしてもまた稼げば手に入れることが出来る。そうした意味で「お金は凄く大事なものとは言えない」のかもしれない。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<br />
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<h2>
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">大事なもの=例えば命 </span></h2>
</div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 一方先にも示したが最も典型的で大事な物として「人の命」がある。「命をリスクの対象にする」と言うことは行動を起こしたときに失敗すれば「死ぬ」と言うことだ。殆どの人は自分の命がなくなることに直面すると(普段は考えることはないだろうけど)惜しいと思う。例えすぐに病気で死ぬ人であってもだ(あくまで一般的な話でサイコパスのような飛びぬけた考えを持っている人は除く)。誰しも最終的には自分の身がかわいいからこそ、それをリスクの対象としてかけることは抵抗を感じる。しかしそれを差し出すと得られる報酬は絶大なものとなる。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> もちろん命をかけることをリスクの対象として考えてしまうことで下手をしたら死んでしまう恐れはある。しかし自分が自分として認識しうる機能をリスクとして負える対象物として考えることが出来るならば、例えば死ななかった場合、「生きている」ことが改めて認識できるだろうし、また「生きていて運が良かった」と考えられるのではないか。それに命をリスクとしたかけの対象で負けて死んでしまっても、それはそれで諦めがつく部分もあるのではないかと考える。 </span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> そのような「命」をリスクの対象としなくとも、それに相対するほどの大きなリスクを負うことで、「生きる」「死ぬ」と言う現実的な問題から「生きるための本能的・感覚的な鋭さ」から「運の良さ」を認識することが出来ると考える。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<br />
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<h2>
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;">試しに断食をしてみる</span></h2>
</div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 例えばの身近な例として「断食=ファスティング」がある。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 断食とは命に直接的な「食べ物」を制限して「死ぬかもしれない」と言ったリスクを自分に課すことだ。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> そのような行為をすることで自分の体が飢餓状態に陥り、一時的には体調が不安定になる。食べ物を食べないため体力的には落ちて動くことが出来ない場合も人によってはあるものの、多く断食を続けていると、あるときに「自分の動物的な感覚」を取り戻す。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> すると断食の最中若しくは回復食に復帰するときに、今まで味わったことのないような少ない食物の量で満足感を維持することが出来る。多くの断食から復帰した人が往々にして「美味しい食べ物が食べられて良かった」と思う。これは自分の生物としての生きる感覚を改めて研ぎ澄まし、また生物としての不満足感が満たされることによって、心からの幸せを感じているものと考えることが出来る。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> それを考えると断食をすると「命の危険と引き換えに幸せを得ている」と考えることが出来るのかもしれない。 </span></div>
<div class="MsoNormal">
<br />
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<h2>
削った命の先に見えるもの</h2>
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 特に命をリスクの対象とした場合で、かつ生き残った場合に関しての話になるが、そうした行為から得られた報酬として最終的な結論としては結局「生きていれば何でも良いではないか」、ということになる。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> 普段誰かから与えられたご飯を食べ、誰かから与えられた住居に住み、公共団体が作った道を歩いている分にはまったく考えることはないかもしれないが、生き方のスタンスとして自分の命をリスクの対象として考えることで、改めてその「生きていること」や「自分が生きていることは良いことであること」を認識できるようになる可能性がある。</span><br />
<span style="font-family: "ms 明朝"; mso-ascii-font-family: Century; mso-hansi-font-family: Century;"> そしてそのように考えが転換できると、生きていることに対して感謝したり満足することが出来る。満足することが出来れば最終的には運もめぐってくるし、自分自身が幸せなを認識することが出来るのではないかと考えている。それを考えると一言、「誰しも運の悪い人なんて居な」く、自分の考え方と行動しだいで運も幸せも引き寄せることが可能と考えるのである。</span><!--[if gte mso 9]><xml>
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幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-56469715930355820542019-04-11T13:09:00.000+09:002019-04-11T13:09:33.751+09:00地に足をつけた考え方や行動のおすすめ 最近メーカーに勤める知り合いと話す機会がありました。発言の内容から彼は凄く絵空事のようなことを言っているなと感じました。そのような絵空事を言うこと自体は問題ではなく、私個人としては何も言いません。しかし近年そのような絵空事を言う人が活動の幅を広げて多くの人を巻き込むようになってきています。多くの人を絵空事のような考え方で巻き込むようになると個人が幸せにはなることは難しいと思います。だとするなら問題です。そこでここでは皆さん個々人がどのような考えを持って行動したらよいかを書きます。結論としては地に足をつけた考え方や行動をすることが大事だということです。<br />
<br />
<br />
<h2>
障碍者障碍者言う知り合い</h2>
<br />
最近私の近くにものづくりのメーカーに勤める知り合いができ、話をする機会がありました。彼はメーカーに何年も勤めており、やたら「障碍者が、障碍者が」と熱く語っている様子がありました。<br />
話をするに今まで彼は特段障碍者に興味があったわけではなく、身近にそのような人が居たわけでもありません。確かに人と接する上で障碍者向けのエンジニア製品を提供している人と接する機会はあるようですが、それゆえそのような方と話をして感化されたような感じがします。<br />
障碍者に対して物を売ること自体は決して悪いことではないですし、「協力してくれる人が居たらいいね」くらいにしか思っては居なかったのです。ですが最近はどうも彼がその障害者をネタにした活動の幅を広げてきたそうなのです。このままでは多くの人が「良しと思っていないのに声の大きな人に流されてしまう」危険があるなと考えました。<br />
<br />
<br />
<h2>
恐らく一般的な人と彼らの動きの違い</h2>
<br />
私はこれまでメーカーで研究者として働いてきた経験から、会社の中でも「はみ出しもの」な部分や自覚はありましたし、良くも悪くも異常者という意味では正直精神障害に近い基質を持ち合わせていると思います。<br />
ですからこそ僕と同じような人に対しても仲間が居るということ、いててもいいということ、生かせる場所があるかもしれないということをそれぞれ啓蒙していきたいと思い、精神保健福祉士として活動してきました。<br />
そして恐らく障碍者向けにサービス製品を作っている人も恐らく、僕と同じように自分自身の経験や身近な人の経験から「なんとかせなあかんな」と思ってそうした不具合を対処できるようなものを作ったのだと思います。<br />
<br />
しかしそれをあかの他人がやいやいってその会自体のことを広げることに私は問題があるような気がするのです。まだ「市場開拓を目的としてそのようなお客さんを求めたい」などといった真の目的を出すのだったらいさぎ良いと思いますし、協力者も出てくるかもしれません。<br />
得てしてそのようなあかの他人な人は目的を隠します。恐らく障碍者障碍者言っている人は「一般市場では太刀打ちできない」から「障碍者市場に活路を見出したい」のだと思いますが、きっとそのようなことは認めません。なぜならメーカーとして「誰にでもいい物を作っている」というプライドがあるからです。<br />
<br />
そもそも障碍者事業では通常の市場原理が働きません。障碍者市場では政府が湯水のごとくコネがあったり自分の利をもたらしてくれる場面にお金を使います。それを知っていて意図して市場を開拓し輪を広げようとしているのだとしたらそれこそメーカーとしての活動辞めたら?とも思います。 <br />
<br />
<br />
<h2>
ひょっとして自分に酔ってる?</h2>
<br />
いきなり障碍者の市場に参入しなくてもよいと私は思うのです。というよりわざわそこに参入する必要は無いのではないかと思います。<br />
<br />
研究や開発のもととなる一般的な「発明」と呼ばれるものは、基本的に過去の産物の延長線上にあります。若しくは行き詰まった際の逆の位置に存在していることが多いのです。実際に発明したことのない学生はわからないかもしれませんが、何段も飛ばして発明することなんて世の中では殆どありません。何故なら何段飛ばしの発明では一般の人が発明だと理解できる土壌に無いからです。当然理解できない事柄は「発明」ではなく「失敗」と映ります。私は障碍者事業に参入しようとしている彼がこの失敗と同じようなことをしているような気がしています。<br />
<br />
ものづくりをしているとどうしても自分の作っているものが相手のベストだと思いがちです。しかし必ずしもそのようなことはなく、また不具合を解消してこそ意義があるなどと思っていることがあるのかもしれませんが、逆に不具合があるからこそわれわれの生活にとって役立っていることを知る必要もあると私は思います。<br />
もしくは普段(一般市場)自分のしていることが悪いことと思っているからせめて普段以外の場所(障碍者市場)ではいいことをしている姿を見せたいと思っているとか。 だとするならそうした姿は完全に”酔っている”としか思えません。<br />
<br />
<br />
<h2>
他の問題点 </h2>
<br />
彼はもともと高専の出で私もそうですが、高専という同じくくりで見てみますと効率的以外を見出すことが難しいという意味で問題があるように思います。<br />
確かに目先の課題を解決する意味では高専はものづくりの業界でなくてはならない存在だと僕自身は思います。しかしどうしても無駄を排除するという意味で偏った考えになりがちですし、専門性は大学生と劣らないともいえない部分はあるかもしれませんが、教養は一般大学生と比べると劣る部分があると私個人的には考えます(無駄だと思って排除したところにこそ本当の答えのある場合があるから)。<br />
とすると、専門分野に突っ走る意味では大変重要ではありますが、「そもそも突っ走ろうという道はその道で良いのか」と考える場合には多くの可能性を「吟味し」たり「最善ではなく最良の選択」を選ぶ意味では教養的な部分が必要になってきます。それを考えると「突っ走ること」と同時に若しくはそれ以上に「考えること」が必要になってくると思います。<br />
<br />
またその輪を与えるものだけで勝手に広げようとしていることにも問題があります。そもそもなぜ彼らは障害者支援の輪を広げようとしているのでしょうか。私は「売り上げを上げるため」に障碍者を利用しようとしているようにしか見えません。何故ならそれに関わっている人の多くがメーカーの人だからです。どうも私には一般消費者に売ることが難しいから障碍者向けの市場に手を伸ばそうと考えているように思えてなりません。<br />
<br />
加えて、安全地帯に身を置きながら危険地帯を観察しているようなさまも問題のある気がします。経営者に対する多くのコンサルタント、大学教員、一般会社員などもそうですが、「お前らは分析が好きなようだけど自分が死ぬかもしれない経営の現場や実践の現場で実際に戦ったことがあるのか?」問いたくなります。そうした意味ではリスクを負わないで障碍者市場を観察しているような人は私個人として思い上がりもはなはだしいと思ってしまいます。<br />
<br />
<br />
<h2>
問題点を解決するための手法 </h2>
<br />
ですからいきなりガバッと何段飛ばしの見識を広げるではなくて、徐々に見識を広げていく必要があると思いますし、自分の実践してきたことだけを淡々と語る場を持つことだけでも、持つことは良いことだと私は思います。<br />
もしくは地に足の生えた泥臭いDIYから技術力で人を集めてみても決して悪いものにはなりえないと思うのです。お客さんの意見を無視した会主導で人を集めたとしても会の発展をしていかないことは過去の企業の発展具合を見てもわかると思います、し、「何か出来るかもしれない雰囲気」で人が集まったとしてもそれだけは決し何も出来ないと思います。<br />
そうした意味では出来ることからこつこつと自分のできることをすることが次世代への発展を促すことのできることなのではないでしょうか。死ぬまでの期間はまだ長いのでしょうからこつこつしたいことをしていけばいずれ必要となる場所に必要となるものが行き渡ることはある思います。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-13532920156096998162019-03-11T13:52:00.000+09:002019-03-11T13:52:08.256+09:00選択や行動する人に失敗は無い 選択をする人しない人、行動する人しない人が居ます。幸せになるには選択をすることや行動をすることが不可欠ですが、選択や行動する人にとって失敗することはあるのでしょうか。私は無いのではないかと考えます。そこでここでは選択や行動を起こせないのはどこから来ていて、また失敗がどういう気持ちからきているのか、最終的には選択したり行動をするにはどうしたらよいかを書きます。<br />
<br />
<br />
<h2>
行動をしない人は何を恐れている?</h2>
<br />
何事も生きているうちは選択をしながら生きています。もちろん「選択をしない」といったものもありますが、それも「選択をしない」という選択を取っていることと同じです。<br />
そうした「選択をしない」という選択を積極的にする人にとっては、どこかに「失敗をしたくない」考えであったり、あるいはそうなることを想定し失敗を極度に恐れていることがあるかもしれません。<br />
しかしそれが決して悪いといっているわけではありません。ただよりよく生きるためには選択や行動を起こしたほうが良いかもしれませんね、という提案をここではしています。<br />
<br />
<br />
<h2>
未来はわからない </h2>
<br />
そうした選択や行動を起こせない考え方のもともとはひょっとすると学校教育における授業によって培われた可能性があります。 学校教育では通常失敗は無く、さも「未来がわかっている」、あるいは「未来が決まっている」ことを生徒さんや学生さんに教えたりすることがあります。<br />
しかし現実的な問題として、現在と過去以外は誰にもわかりません。ですから学校教育や偉い先生が言う「未来予想図」は、あくまで「未来予想図」なだけで、いうなれば「絵に描いた餅」です。確かに確率的には「そうなる」可能性が高いかもしれませんが、確率が高いだけで「そうならない」ことも十分ありえます。こんな確率論を考えていること自体が無駄だと思います。<br />
つまり今は今だけなのです。将来に同じようなことが毎日が起こるとも限りません。確かに「同じような毎日」は起きていることがあるかもしれませんが、厳密には「まったく同じ毎日」は起きていません。何故なら自分以外の人や環境には同じように影響を及ぼすことは出来ないからです。自分の認知しうる限界というものが誰しもあります(これを一般的に宗教では「神」といいます)。<br />
<br />
<br />
<h2>
行動する場合にリスクが伴う</h2>
<br />
未来がわからないような状況即ち学校でない状況において生きるためには失敗を想定して選択し続けなければならないです。選択していくこと、そして行動をすることには通常失敗をするリスクを伴います。<br />
例えば好きな子に告白をする場合や会社の立ち上げをする場合など、行動を起こすには「振られるかもしれない」「一文無しになる可能性もある」危険が常に付きまとっています。そしてそう(悪く)なる確立はきわめて高いです。何故なら自分が行動で変えられることはごくごくわずかだからです。<br />
しかし行動をしないとその先の未来もどうなるかはわかりません。先の例で言うなら告白をしたから付き合えるようになったり、あるいは起業したからある程度の資産を蓄えることが出来たりします。即ち宝くじを買わない人が宝くじで当たらないのと同じように、何かの変化を期待するならばどこかで自分が行動する必要のある気がしています。<br />
特に現状に不満があるのなら失敗をするリスクをもってでも行動する必要があります。失敗が怖い人は行動しなくてもいいと思います。しかし行動を起こさないことによって不満は時間経過に伴って変わらないかあるいは大きくなってゆく可能性は十分ありえます。ですから現状に対する不満(動かない)と未来に対する不安(動く)とで天秤にかけて選択する必要があるかもしれません。<br />
<br />
<br />
<h2>
失敗はチャンス</h2>
<br />
そもそも失敗とは何なのでしょうか。三省堂国語辞典七では<br />
<blockquote class="tr_bq">
やりかたがまずくて、思ったとおりにならないこと。しくじること。</blockquote>
とあります。あくまで(自分の)思ったとおりにならないことを一般的には言うようです。即ち自分の考え方でどうとでも変えられるものと考えられます。<br />
<br />
もちろん行動を起こして失敗することしくじることもあるとは思います。しかし逆に言うとそうした失敗したことによって得られるチャンスがめぐって来る、即ち自分で考えるチャンスが得られるとも考えられます。<br />
先の告白の例の話ならば振られたとして、その経験から「次回は告白前に振られないよう気持ちをこちらに惹き付けようとする」とか、起業の例であれば「次回はあらかじめ小さな事業からはじめて本当にお客さんが必要としているのか考える」だとか。<br />
通常行動をしないと行動した結果は得られないですから、行動して失敗したとしても次回に繋がる新たな発見がなされる可能性は十分ありえます。<br />
<br />
また失敗したことだけに注目するとそれで気持ちが落ち込んだりするかも知れませんが、他にも行動をすることで変化のあったことがあるかもしれません。それを注意深く観察し、いいところを伸ばせる可能性があります。<br />
通常ソーシャルワークの現場ではリフレーミングと言って一つの結果から通常とはまったく別の見方を見出す方法があります。ですのでそれを使うことによって新たな活路が見出せることがあります。<br />
先の告白の例で言うならば「相手に自分の気持ちを伝えることが出来た」と考えることが出来たり、 起業の例で言うならば「誰よりも早くお客さんの立場に立ってサービスを提供しようとした」などと考えることが可能です。<br />
<br />
つまり失敗した場合でも見方を変えていけば何かしら得られるものはあるものだ、と私は思います。自分が投じたリスク(行動)に応じた何かしらの特典が、です。そうした見方を自分ひとりで変えるのが難しいならば多くの視点を持てるための材料として書物や人があります。<br />
そうした本や人を「役に立てる」ためには、一つの事実を多くの視点で見るために「本」を読んだり、あるいは自分の考えや行動を聞いて新たな視点をくれるような「他人」=(知り合いや友達など)とかかわりを持って話をしたりすることが大切な気がします。<br />
<br />
<br />
<h2>
さらに…どうせ何もしないと変わらないと考える </h2>
<br />
さらにどうせ「何も行動しなければ悪い結果は変わらないのだ」と考えることが行動を起こすためには重要になるかもしれません。哲学者の中島義道さんは小さいころから「どうせ死んでしまうんだから」と考えておられることがあるようです。<br />
私はその考えからもう一歩進めて「どうせ死んでしまうのだから、結果はどうあろうと気にせず、好きな行動をすれば良いじゃない。他人の被る迷惑なんてまったく考えなくても良い」と思っています。そのような考えを持つと、ある程度大胆な行動でもリスクとして取ることが可能と思われます。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-36867559151125866822019-02-28T15:21:00.000+09:002019-02-28T15:40:39.289+09:00上司の「立ち位置」と「正義」とを考える 上司がまとめ役としての立ち位置を誤って認識していたり、正義としての考え方が一方的だったりすると、相手を押し付けてしまいがちになります。学校や軍隊ならば従わせることが目的なのでそれでも良いかもしれませんが、特に会社組織などにおいて売り上げを上げることが第一目的になっている場合、そのような押し付けは部下など立場の弱いものにとっては非常に厄介なもので、また売り上げの面でも上がらず問題となります。そこでそうした問題を起こさないためあるいは起きないようにするためにはどのような考えを持つのが良いか、一例を書きます。<br />
<br />
<br />
<h2>
自分の姿にこだわるリーダーの例</h2>
<br />
先日、上司が部下にどうやって売り上げを上げているのかといったことを説いてる場面に出くわしました。その途中でリーダーらしき人が割って入って「売り上げのことなんてまだ部下には関係ない」などと言ってさえぎる場面がありました。<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
上司が現状組織の売り上げ方とかを部下に説明してるのに、割って入ったリーダーが「そんなことを説明する必要ない」などということがあった。<br />
それ見てて思うけど言うなりゃそのリーダーって組織力を削ぎ落とそうとするマイナス人間なんじゃあないかなあと僕は思う。</div>
— 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) <a href="https://twitter.com/KT_socialworker/status/1098221964139712512?ref_src=twsrc%5Etfw">2019年2月20日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
なぜリーダーである彼(彼女)はそのようなことをするのか。<br />
私は<u><b>①まとめ役として今ある上司と部下の立ち位置が見えていなく</b></u><u><b>、②自分の正義や会社というものはこういうものだ、と、あらかじめ彼の中にある上司としての姿にとらわれすぎていている</b></u>ものと考えます。<br />
このような方が居ると組織の中でも 本来こうしたら売り上げが上がるだろうなあ場面に遭遇しても、リーダーの機嫌次第でどうするかが左右されてしまい、結果的には上がる売り上げが上がらなくなってしまいます。だとするならばこれは問題です。<br />
ではそこでどのような問題にならないようにするには上司としてどうしたらよいのでしょうか、ここでは一つの方法を示します。<br />
<br />
<br />
<h2>
誤ったまとめ役としての立ち位置</h2>
<br />
生まれてこの方、特に<u><b>学校を卒業してからすぐに社会人になった場合においては、その人にとっては上司のモデルが「親」や「学校の先生」であっ</b></u>たりします。<br />
<br />
親は自分が何も出来ないときから面倒を見てくれていて、非常にありがたい存在だとは思います。しかし時に自他分離の出来ていない完ぺき主義で神経質な親御さんから育てられた場合においては、親の目に見えない価値観で子である自分の価値観を縛られてしまい、それが常識として自分に埋まることで他人に見えない価値観を押し付けてしまう場合があります。<br />
<br />
また学校の先生は多くの場合、「最大公約数を押し付ける人」であり、それゆえに学校や国などにおいては「少数や異端を認めない」という状況になりがちです。ですからどうしても命令形の口調になったりします。軍隊などでも同じです。 この学校や軍隊の命令形を知らず知らずの間に学習してしまい、本来聞いたほうが良いであろう「違う生徒」や「飛び出た部下」に自分の最大公約数的な価値観を押し付けてしまうものと思われます。これは相手の状況や気持ちを無視して自分の良さを一方的に相手に押し付けてしまうものと思われます。具体的には以下の前半のケースです。<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
『正論じゃ後輩は動かないとその電話で教えられた』-人生かっぽ <a href="https://t.co/ABisIb3YV3">https://t.co/ABisIb3YV3</a></div>
— 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) <a href="https://twitter.com/KT_socialworker/status/1100572879278624769?ref_src=twsrc%5Etfw">2019年2月27日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
別に会社にいる間だけであったり、あるいは会社が潰れるまでの間だけであったりするならば、その恐ろしいさま厳しいさまを限定的な場面において使っても良しとして許されることがあるかもしれません。しかしそうした方は会社だけでなくプライベートでも同じようなことをしているのではないでしょうか。恐ろしいさま厳しいさまを認識してさえいない可能性も高いと思いますしね。<br />
そうした恐ろしいさま厳しいさまを示すことはその瞬間としてはいいかもしれませんが、長期的に見ると相手に恨みを買われ、最終的には相手から邪険に扱われます。すると自分が惨めになるのではないでしょうか。本当は惨めを人一倍恐れている癖に将来的に人一倍惨めになる行動を取っていたらそらそうなるでしょう、と第三者的には思います。ですからそれを変えたいのでしたら自らが変わる必要があります。<br />
<br />
そこでこれらの問題を改善するには、あるいは自分が変わるには「もっと多くのまとめ役の姿」を見ること、そしてそれを”真似る”必要性があるのではないかなと僕は思っています。即ち威厳を持ったり恐怖で相手を脅かさずとも、「安らぎのようなもの」でまとめ役としている人の「居ることを知り」「実践する」必要があるのではないかなと思います。そもそもまずはそうした人の居ることを「知りたい、学びたい」と思わない限り、そうした安らぎの人(北風と太陽で言うところの太陽のような人)をになることは出来ないのではないかと考えます。…と言っても結局は人の価値観はそれぞれですからしたくない人に無理してしなさいとはいえませんけどね。<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
「北風と太陽」から学ぶ・・・理想のマネジメントとは。 <a href="https://t.co/zbYQSnex8b">https://t.co/zbYQSnex8b</a> <a href="https://twitter.com/motitech_mika?ref_src=twsrc%5Etfw">@motitech_mika</a>さんから</div>
— 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) <a href="https://twitter.com/KT_socialworker/status/1100687826201456640?ref_src=twsrc%5Etfw">2019年2月27日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<br />
<br />
<h2>
そもそも正義=正しさは立場によって変わる</h2>
<br />
それに正義や正しさというものは多くの場合立場によって変わります。<br />
極端な例で言うならば銀行強盗と警察の居る現場に出くわした際、一般的には警察のほうが「正義」だと思われがちですが、銀行強盗側にしてみれば銀行強盗するほうが「正義」だといえます。つまり<u><b>正義というものは立場によって変わるゆえに「形」が無い</b></u>のです。<br />
ですから一方だけの立場から見て正義を押し付けるということは実は非常に自分勝手だと思っています。<br />
となると上司として自分が部下と話をしているならば、自分の正義を主張して相手をねじ伏せるだけではなく、自分の正義とその限界を認識して相手の正義も認識して解決策を考える必要があるかもしれません。<br />
<br />
<br />
<h2>
上司は何を恐れようか </h2>
<br />
例え上記のような立ち位置がわかり正義の問題がクリアになったとして、次に部下に負けるのが怖い、相手の言うことに従うのが怖い、ならばどうすれば良いのでしょうか。<br />
僕の考えとしては”<u><b>たかが仕事”だし「負け続ければ良いのではないか」「相手の気持ちの良くなるようにしてみてはどうか」</b></u>と考えます。<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
まさかこんなことを知らない上司は居ないよな。<br />
<br />
『部下を勝たせるということ』<br />
⇒ <a href="https://t.co/uHJh7EzKWr">https://t.co/uHJh7EzKWr</a> <a href="https://twitter.com/hashtag/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%96%E3%83%AD?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#アメブロ</a> <a href="https://twitter.com/ameba_official?ref_src=twsrc%5Etfw">@ameba_official</a>さんから</div>
— 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) <a href="https://twitter.com/KT_socialworker/status/1100681660809469952?ref_src=twsrc%5Etfw">2019年2月27日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<u><b>自分より相手のほうが能力が高ければ相手に道を譲るのが特に先に生きた者としての本来の役割</b></u>だと思います。それが出来ないのなら、すなわち<u><b>上司としているにも関わらず上司としての役割を果たせないのならばさっさと組織を去るべき</b></u>なのかもしれないとも私は考えます。<u><b>若しくは上司としての役を解いてもらう</b></u>か。<br />
何も自分が上司だからと言って部下より優れている必要は無いと思います(<u><b>上司としての役割は部下がやる気を持って成果を出し次にステップアップしてもらうことのハズ</b></u>)し、変に上司の立場に執着するから「相手より優れていないといけない」だとか「上司は負けてはならない」と思っているのではないかなと思います。だとするなら上司としてのプライドはいったん横においておいて <u><b>部下に対していい負け方が出来る上司や部下に対していい勝たせ方の出来る上司こそ組織として必要な存在</b></u>だと私は思います。<br />
それを踏まえると先のつぶやきにおけるリーダーが上司と部下の間に立つならば、例えば部下の立場に立って「売り上げが上がる案が出たらええなあ」だとか、部下に向かって「いい案が出来たら君の良さとしてアピールするよ」だとか言えれば何かしら次のステップに進めたかもしれないなあと思うばかりです。 幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-87727967165357635782019-01-14T11:50:00.000+09:002019-01-14T11:50:40.464+09:00相手に伝える場合はシンプルにすべし。 物事を伝えようとする場合にはシンプルにするのが良いです。相手には余計なことを想像させないほうが何事も相手に伝わる可能性が高くなります。しかし日本社会ではシンプルに書くことよりもより長い文章を書くほうが重要視されます。それはなぜなのでしょうか。そしてそうした状況を打開するには何をどうしたらよいかといったことを書きます。 <br />
<br />
<br />
<h2>
私の身近な伝えること</h2>
<br />
私が小学生の頃は夏休みの宿題として読書感想文が出されていました。私自身それはあまり好きでもないし得意でもありませんでした。また国語の文章問題では「小説の本人になりきったらよいのか」「小説を書いた著者の感覚でとらえたらよいのか」「小説の著者を扱っている作題者の意図に沿ったら良いのか」などと考えながら読んでいたら結局誰の立場になってよんだら良いのか良くわからなくなり、わけのわからぬまま答えて結局間違った解答をしていた思い出があります。ですから国語の授業は最も嫌いな教科でした。<br />
幸い国語を重要視しない学校「高専」に進学し、在学時には卒業論文を書いてはいました、が、その時にしていたことほぼデータ整理だけでした。ですので実質的に論文や文章を書くようになったのは大学生のころだったと思います。その時研究室の先生に文章作成のノウハウを教えてもらいました。「短文で」「変な誤解を与えないように」「独立した二つ以上のソースを元に」といったことをはじめて教わりました。<br />
このときの経験が社会人になってから生き、改めて大学生のころに伝えることの大事さを経験しておいて「よかった」と痛感します。職場の上司との会話ではよく「上司の質問には結論から言うよう」などといわれますが、これに関しても大学生のときに教わった「伝えること」を綿密に実行していたら、上司がよっぽど変な人で無い限りトラブルになることはまず無かったです。<br />
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一般的な伝えること </h2>
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日本では多く義務教育の段階で読書感想文を書かされます。本を読んで好き勝手に感想を書いてよいよといわれるものです。好き勝手書いてよいので文書校正や論理構成はむちゃくちゃでもかまいません。<br />
こうしたことがまかり通る原因は樋口裕一さんが数々の本で書かれていますが、日本では諸外国のように「論理学を教える場面」が残念ながら「ない」ためです。ですので「伝わる」文章の書き方をろくに教わらないまま大人になったり、あるいは死ぬまでそうした「伝える」経験を持たないで生きている方がいらっしゃるのだと思います。「伝える」ことを考える場合には多く「校正」が大事になり、自分の伝えたいことを「そぎ落とす」必要があります。 <br />
確かにこれまでの日本のように多く書くことで論理が展開され、考え方が深められる可能性はあると思います。文字を起こす出版社や印刷会社なども文字を多く示してくれたらその分自分の食い扶持が増えるため、<u>「意味が無くてもより長い文章を」「意味に到達するまでにくどく難解に」伝えることが「良いことであるかのように」を</u>後押しするのでしょう。<br />
しかしこれでは「伝えること」を考える場合には問題だと思っています。伝えたいことを短い言葉で伝えないと<u><b>①相手が意味到達まで読むまでに飽きたらそれ以上読んでもらえない危険性と、②言葉が多いことで相手が間違って解釈してしまう危険性と</b></u>、がそれぞれあるためです。<br />
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なぜ長い文章を好むのか </h2>
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なぜ日本では長い文章が好まれるか、というと日本が女性的な文化が強いことは土居健郎さんの「甘えの構造」でも書かれていますが、そのこともあってか民族的に<u><b>「幼い傾向がある」ためだと</b></u>考えています。幼い傾向即ち「相手が自分の文化をわかってくれるはずだ」「同じ日本人だしわかって当然だ」などといった<u><b>「甘え」が存在しているから</b></u>といっても良いかもしれません。何故ならそうした甘えが存在しないと「わかってくれないことが前提」で「伝える言葉」も意味を多く含めず基本的にシンプルなものを選ぶはずだからです。英語がいい例です。<br />
別の言い方をすると多くの人が「つまらなかったら読んでもらえない可能性を考えない=長いからこそ価値のあるものである可能性がある=苦しいことをすることは良いことだ」といった「間違った論理のすり替え」を当然と思っている可能性がある、といったことが心の奥底にあるような気がしています。<br />
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こうした「ねばならない=苦行を良しとする」考え方とは普通「神経症」といわれます。日本では神経症の代表的なものとして森田正馬さんの研究なされた「森田神経症」がありますが、「日本人であるからにはこうあらねばならない」といった空気があるといえます。即ちどこか日本人として<u><b>先祖代々から引き継いでいると思い込んでいる「思い込み」が自らの行動を形作っている</b></u>のではないでしょうか。 <br />
「苦行を良し」とする傾向は会社の仕事でもあります。「石の上にも3年」などと言って時間のかけることを価値の解釈だと思っているのが良い例です。学術機関に長く研究の場面に身を置いて教授の召使として丁稚奉公をすることが「偉い」などと考えています(本当はそんなこと無く優れた業績を残した人が優れた能力を有しているだけ)。そしてそれが影響して学術論文でも短い文章であるよりは苦しく長い文章をかけるほうが知的だとされます。特に文学部や社会学部の論文では顕著ですが、多く文章を書いたほうが優れているとされています(卒業論文の用件に何千字以上と規定があるのはそのためだと思われます。内容のいい論文だったら少ない分少量でも言いたいことは言えるはず)。<br />
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問題への解決方法</h2>
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こうした状況を防ぐための方法は一つに心理的に「自分自身が自立する」こと。即ちわかってくれるはずだといった「甘え」や「先祖代々から伝わる思い込み」などといったものを一切捨てることだと思われます。<br />
<u><b>相手は自分とは違う人間なんだと認識する</b></u>ことはもちろん、同じ日本人でも関東人と関西人では文化がまったく違うように、見た目だけで判断しないことが「よく生きる」意味では大切であるような気がしています。<br />
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また「日ごろから伝えるための文章を書くことを意識する」ことも大事だと思います。即ち<u><b>何が大切で何が大切でないかを「自分の価値観のもと取捨選択する」</b></u>ということを考えることです。<br />
物事を伝えようとするならば情報量は少ないほうがいいですし、伝えることが多ければ多いほど相手に誤解を与える元となってしまいます。もっとも少ない文章でも間違ったことを伝えた場合には相手に迷惑になってしまいますが、それにしても間違った文章を書いて誤解を与えるものと、あまりに長ったらしい文章で誤解を与えるものとでは「誤解の与え方」、即ち「誤解の種類」が異なります。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-40679602704714953512018-12-11T14:38:00.001+09:002018-12-11T14:38:54.797+09:00仕事ではコミュニケーションが大切 よく仕事場に居て「これはどうなのかな」などと思うことがあります。それは「作業自体としては問題ない」ものの、そこで「<a href="http://www.bijikora.com/ori/ori57.html">働く周囲の人々との気持ちの関係うまく取れていない</a>」ことのあることです。確かにそれでも「ある程度の業績」は確保することは出来るかもしれません。しかしそれだけでは「長期的な仕事場の効率向上」を考えることは出来ないと思います。そこでここでは仕事を行う場合における関係性や気持ちの大切さ、とりわけコミュニケーションの大切さを書きたいと思います。 <br />
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多くの組織構造は官僚型</h2>
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多くのグループは「トップが少数で手足を動かす実働部隊に近づくほど多い」といった「官僚型の組織構造」をとっています。グループの長がそのグループを統括し命令していくスタイルです。<br />
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長はグループを束ねて売り上げの上げることが望まれます。そのためにグループメンバーに命令することはありますが、得てしてそうした場合において重要なのが「グループメンバーの気持ち」です。これを考えてまで行動している方がいったいどれだけ居るでしょうか、実はあまり考えている人は多く無いのではないかと私は考えています。<br />
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長の命令なら聞くには聞くが </h2>
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自分がそのグループに所属していて、人間関係のあまり無いグループの長から突然何か命令された場合には「そりゃあなたがグループの長やから「やれ」と言われればやるにはやるけれど」と言ったり思ったりすることがあるかもしれません。 少なくとも私はそう思います。<br />
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そうした場合にグループメンバーとの関係性があまり出来ていずに、あるいは納得するのを待たずにグループの長が「あれしろこれしろ」などと言ってグループメンバーに行動を移させることは「物理的には」可能だと思います。しかし言うだけ言って以後関係性の構築に対するフォローが無かったり、あるいは放って置かれたりするならばグループのメンバーの士気が落ちることもあるでしょうし、一時的には業績を維持することは出来ても、長期的な視点で見た場合には売り上げアップさせることも仕事場としての雰囲気も実りあるものにすることはできえないと私個人的には思います。<br />
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これは多くの組織構造を持つものの欠陥として、グループの長が「組織の形」を認めるも、 その組織にいる人の「一人一人の固有さや気持ちあるいは考え方などといったものを認めていない」ことが原因としてあるのではないかと考えています。あるいはグループの長がそうしたグループメンバーのことを重要だと思っていること自体が少ないことも問題点として考えられます。要はグループの長が「末端を見ずに形を維持することに躍起になっている」ということです。これでは本当にグループの長に心からついてくるグループメンバーはいません。<br />
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なぜ組織内の人を考えないのだろう </h2>
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公務員であったり本当に超巨大企業などに働いているのならば、そうした長期的な視野を考え無くても数年で入れ替わることもあるでしょうし、「自分ひとりが責任を負わなくても後任の人が責任は取ってくれる」などと思っているであろうことから「グループメンバーの気持ちなどを考える必要が無い」と思われる場面もあるのかもしれません。<br />
そもそも「グループメンバーなんていわばコマなのだから彼らの気持ちなどを考える必要が無い」と思われている部分もひょっとすると心の中にはあるのかもしれないです。<br />
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しかしそうした考え方を有していますと長に立つ人にとって人望はもちろん、その他仕事を通じて関わる人とも良好な人間関係を作ることは難しいと考えます。<br />
特に昨今は業績評価で容易に他人と上下関係がひっくり返ることがあります。入社当時は一番下っ端の後輩の方でも、時間をかけ業績をあげるに連れて、その後輩が上司になる可能性だってあります。そうなったならばかつて気持ちを考えない行動をとった後輩から自分が気持ちを考えてもらえない行動を取られても致し方ないと思われます。<br />
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こうしたことの起こる結局の問題の元としては「自分が相手の立場にたって物事を考えることが出来ない」といったことが心の奥底に横たわっているかもしれません。そうしたことに対しての対策は「自分の心の素直なところを丁寧に観察」したり、「他人との会話や本などを通して他の人との考え方のズレを修正していく」ことで対処は可能です。<br />
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ホーソン実験から学ぶグループ内に大切なもの</h2>
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では何が重要かと考えますと、「グループの人たちとのコミュニケーション」が大切だと考えます。かつて作業効率改善を目的とした<a href="https://www.hrpro.co.jp/glossary_detail.php?id=36">ホーソン実験</a>がありましたが、これは「グループ内のコミュニケーションが円滑に図ることが出来れば、光量を増すことが無くてもより高効率で仕事を進めることも出来る」といったもので、これは大事なことであると私も思います。<br />
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そもそもどんな仕事であってもある程度の熟練者が居れば作業自体はこなすことは可能だと思います。慎重に進めるべき作業であってもマニュアルを作ってそれを忠実に実行していけば仕事をすること自体はぜんぜん問題なく、極端なことを言えば「誰であっても良い」ものです。<br />
一方そのグループ内で働いている人の個人的な生き方であったり考え方であったりするものはまさにそのグループに居るからしか得られないものではないかと思います。これは即ち「その仕事場における固有なもの」であると考えられます。<br />
前者は普遍的なものであり後者は固有のものです。どちらを大切にしたら良いかというと後者であることは明らかです(何故なら取替えが効かないから)。<br />
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コミュニケーションがいまいちだと</h2>
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また、先に私の場合でしたら関係性の無いグループの長から命令された場合でも一応は「上司なので言われたらそりゃしますけど」と思いながら作業をすると書かせていただきましたが、一般的にはそうしたコミュニケーションが健全になされないと、部下と上司の場合で上司発信の言葉は部下に「言葉の内容」が入っていかなくなります。<br />
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なぜなら意外と人間は人との言葉のやり取りを感情で左右させているところがあり、例えばどんなに正しい言葉の内容であっても相手との関係性がないと、あるいは良い関係性でないと相手や自分の心に言葉の内容が入っていかないことがあるためです。<br />
するとグループの長がどんなに売り上げアップに繋がる方法を提案したとしても、あるいはどんなにグループの維持発展を期待できる方法を言ったとしても、そのとおりにメンバーが行動を起こしてくれなくなります。最終的にはグループメンバー間でも疑心暗鬼な状態となり、コミュニケーションが無くなり、一歩ずつ組織崩壊のすることが考えられます。<br />
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例えば現在でもよく言われる「学級崩壊」などというのはこれが原因だと考えられます。学級崩壊ときくと生徒が暴走して生徒が先生の言うことを聞かなくなってしまう現象だといわれていますが、その背景には先生と生徒との人間関係の関係性不足のような部分が原因としてある気がしています。うまいこと関係性が構築されていたら先生としては生徒がある程度暴走していたとしても許せるでしょうし、生徒としても「畜生でなければ」先生という人が管理する立場にある以上、必要以上に暴走したりはしなくなるような気がするからです。<br />
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コミュニケートする上でのポイント </h2>
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ではどんなことをコミュニケートしていけばよいかというと<u><b>「相手の特異」な部分であったり「その人らしさを見出せる」</b></u>ような会話を進めることが大事だと思っています。<br />
この世には一人として同じ人は居ません。そして<u><b>「同じ人が居ないということはそれぞれの人によってそれぞれ異なるいいところがある」</b></u>と考えることも出来ます。こうした部分を見出せるような支援をすることが上司として望ましいと思います。<br />
そしてその<u><b>「良さ」を見出せるようならばその「良さ」にあわせて仕事を与えていけばよいのでは</b></u>ないかと思います。それぞれの人にとって良い仕事を割り振ることが出来ればグループメンバーはますます仕事に対して意欲的になると思います。今までの形でそれぞれのグループメンバーの人にやるべきことが決まっていて「嫌でも仕事をしなければならない」などといったことは会社員になると良く聴きますが、私はここではそうした<u><b>仕事の</b><b>形にこだわる必要は無いのではないか</b></u>と考えます。<br />
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自分の得意なところを伸ばしていけばあるいはそうした仕事を割り振っていけばその分野に対してどんどん専門的になってゆきますし、場合によってはその専門的なところから派生してもっと広い目線で物事を考えることが出来る可能性もあると考えるからです。<br />
例えば3人で同じ3する仕事がある場合において、それぞれ1の仕事であっても、仕事の内容で0.333ずつに分け一人一人の得意な場面に合わせてしていけば3人で3する仕事が3人で4にも5にもなる可能性があります。こうした仕事の形を柔軟に変えていくことも仕事を効率よくもっと楽しく生きていくようにする上では重要になってゆく気がします。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-103182624768696512018-12-10T13:07:00.002+09:002018-12-10T13:07:29.443+09:00千三つの割合から考える挑戦の大切さ 「千三つ」ということばが日本にはありよく使われます。1000の言葉の中に存在する真は3つしかない(裏を返せば997の殆どは嘘)ことのたとえで、建築業界はもちろん、それだけでなく製品開発や新規事業の立ち上げでも使われます。建築業界以外の場面では成功する確率はそれくらいの割合(0.3%)だといわれています。 今回はこの千三つという言葉を通じて、行動を起こすときにそれくらいの成功確立だと思えば失敗することも別に普通のことだよ恐れることは無いよということを書きたいと思います。<br />
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なぜその割合が重要と思ったか</h2>
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千三つとは<a href="https://dictionary.goo.ne.jp/jn/127563/meaning/m0u/">Goo国語辞典</a>によると<br />
<blockquote class="tr_bq">
<div class="text">
<b>1</b> 《千のうち本当のことは三つしか言わない意》うそつき。</div>
<b>2</b> 《千に三つくらいしか話がまとまらない意》土地・家屋の売買や貸金などを斡旋 (あっせん) する職業。また、その人。「千三つ屋」<b> </b><br />
<b>3</b> 《千品目出しても当たるのは三品目くらいの意》食品業界で、新商品の開発の難しさをいう言葉。
</blockquote>
なのだそうです。<br />
なぜ千三つなどという成功確立を見出そうと思ったかというと、特に私が「誠実な人」を見極め接していこうと考える場合、不誠実な人が多く居る中でどれだけの人を母数と接したらよいかを考える必要があると思ったからです。<br />
本田健さんの本にもその割合は書かれていますが、おおよそ同じくらいの割合で、誠実な人は1000人に2~3人くらいの割合で居ると考えられています。1000人居て2~3人が誠実な人なら、ありえなくはない割合だと思っています。<br />
そこで実験をしてみました。日本人人口の1%の人たちを無作為に20人にとって実験してみました。するとおおよそ4~5人は誠実な反応を得ることが出来ました。即ち一般の割合に直すと0.01(抽出割合)*0.2(4(結果)/20(実験対象))=0.002となりました。割合としては千三つで間違いないと思います。<br />
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実験から考えられること</h2>
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この結果から実験してみたところ多くの人は不誠実であるものの、大変少ない割合ですが誠実な人も「居る」には「居る」ことが考えられます。また一回の実験で「居ない」ことがわかったとしても、その実験結果を虚心坦懐に見つめて、何が原因でそうなったのかを調べた後に改良に向けて対策を打った後に再度実験を続けていくことで、確実に「居る」結果を導いたり増やしたりすることができるのではないかと考えています。<br />
そもそも誠実と思われる人なんて世の中にめったにいるはずはないのです。断られることなんて大多数だと思っています。それは組織の中の人間において2:6:2に分かれるパレートの変法が起こるように、見極める対処し続けることが大切だと思われます。<br />
そして一時的には誠実でなかったとしても人は時間がたつにつれて成長することが出来ます。ですから今この時点では誠実ではないと考えられたとしても、近い将来誠実になる可能性があるのだとしたら、今は不誠実であったとしても早い時期から接しておくことで他の方に先を越されることなく誠実な人と接することが出来ます。 <br />
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失敗を恐れてしないことは問題だ</h2>
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そうした失敗してもしょうがないといった考え方や将来的に良くなる可能性があるなといった考え方を醸成することが出来るようになると、間違ったことや失敗することも言うほど苦ではなくなります。<br />
特に人間関係において、自分が信念を持って行動をしていて、相手が拒否した場合などにおいても、自分は自分の哲学なりに「したことをした」と思うようになることが出来れば、相手が拒否したとしてもそれはそれで仕方がない、と執着することなく離れることが出来ると思うのです。もちろん残念だなと思うことはありますが。 <br />
そしてそうした間違うリスク、失敗するリスク、拒否されるリスクを常にもちながら行動をすることが出来れば、行動する場合に際しリスク管理という面では十分果たしていると思います。なぜならそうした「最悪な状況」をあらかじめ想定しておくことで、それ以上の悪いことは起こり得ないと考えることが出来るからです。 <br />
ただ、多くの人がそれほど一瞬一瞬を適正に、かつ重要視して生きる必要もないのかもしれません。そうしたことを考えると常に疲れてしまいますから。強制されてすることなく自発的に考え行動できる機会を持つことが出来れば素晴らしいのかなと考えています。<br />
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何よりリスクを恐れて行動をしないことのほうが問題だと思ってしまいます。人間をはじめ多くの動物は変化をすることで生きています。つまり行動をしないことはこれ即ち「変わらないこと」であり、見方によっては「死んでいるのと同等」と考えることが出来ます。<br />
今生きている状態、「この世の中に生きている」のならば、そうした失敗するリスクを積極的に負って行動をしてもらいたいと思っています。もっともリスクを負って常に行動する習慣の癖をつければ「ここに労力や時間もしくは金を費やして良いかどうか」といった「目利き」も鍛えることが出来ると思います。一方でそうしたリスクを負っても目利きを鍛えられないならリスクの大きさが小さいか、あるいは自分自身の物事の見方に歪みのあることが考えられます。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-47165879260150552002018-10-29T14:26:00.001+09:002018-10-29T14:51:17.526+09:00皆したい仕事をしたら良いかも 嫌な仕事を丸抱えして苦しんでいる方が居る一方、楽しい仕事しかせずにそれなりに楽しく生きている人も居ます。そうした前者のような人が後者のような人に変わるには何をどうしたらよいのでしょうか、ここでは仕事の仕方についてどうすれば嫌な仕事をせずにすむかといった小手先の方法を書きたいと思います。しかし結局は自分の心持次第な部分もありますから、小手先の方法だけでなく自分自身の心に問い直す必要があるような気がします。 <br />
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「仕事は完結させる」幻想?</h2>
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仕事を丸抱えで苦しんでしまう人の中にはどこか「仕事を完成させなければならない」といった執着があるのかもしれません。もしくは「相手をがっかりさせてはならない」といった思い込みも影響しているのかもしれないと考えます。<br />
確かに与えられた仕事はする以上完成するのが望ましいです。ですが得意でなく低いクオリティで仕事をこなしたとしても相手はあまり嬉しくないです。そして完成させてしまった場合には次回以降同じ仕事が来る可能性があります。嫌な仕事が何回も舞い込む場合、確かに慣れ的な部分である程度は最初よりは仕事が早くクオリティが高くなる可能性はありますが、あまり楽しいとはいえないでしょうし、そもそもそれを好きでしている人に対しては着眼点も異なり全く適わないことが考えられます。<br />
というよりそもそも「嫌な仕事なら完成させる必要も無い」のかもしれないです。与えてくれた人も結果として仕事が完成できなかったりクオリティが低いようならば以後その仕事を積極的に与えてこなくなることも考えられます。その場合、何もせずに拒否するだけなら「してから言え」という話になりますが、実際にやれるだけはやったけれどもこの程度しか出来なかったということならば他人はどうしようもない部分があるのではないかと考えます。<br />
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一方興味深い=好きを追求する利点</h2>
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好きな仕事あるいは興味深い仕事をしていたらその周辺の部分についても知りたくなると思うのは自然ですし、仕事自体の専門性的な部分も繰り返すことで目が肥えだんだんと深く大きなものになっていく気がします。<br />
選択を迫られた場面では嫌だと思っていたり拒否されたりして遠ざかっていたとしても、後々自分の専門性が磨かれることとなってだんだんと広く目が見えるようになるにつれ、好きだったり興味深かったりなることは考えられます。ですから今現在では悪いことだと思っていても将来的には良くなる可能性は持っていて損は無いと思います。 <br />
何も好きや興味深いことがない人、得意なことがない人にとってはあまり居心地の良い職場とはいえ無くないですが、だとしたら自分が何が好きや興味深い部分があるかを根本的に考え直したり、それによってどのような職場を探したらよいか、を最初からやり直したらよいのではないかとも思います。<br />
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好きでない=興味深くないことへの対処</h2>
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つまり自分が好きな仕事をすれば極められるし社会貢献も出来ます。場合によっては給料や報酬アップも見込めるでしょう。ですからこれは社会にとって非常に有効なことなのではないかと考えます。その上で自分のしたくない仕事が舞い込んだ場合にはどうするのが良いのでしょうか。<br />
私は<u><b>仕事を取るなりお金を支払うなりをして相手に自分の得意を譲ってもらい、不得意な部分を相手にしてもらうといった方法が良いのでは</b></u>ないかと考えます。自分の得意が相手にとっての不得意だったりする場合、喜んで相手は引き受けてくれるでしょうし、その代わり自分にとっての弱い部分も相手に引き取ってもらえる可能性が大きくなります。自分から相手の仕事の中で自分が積極的に持っていけそうな部分を先に言って取ることで相手への印象がだいぶ良くなるものとなる可能性があります。<br />
どちらにしても<u><b>「相手に利があるような交渉をする」必要があり</b></u>ます。それが出来ないのでしたらそれだけの交渉能力が無いことを認識して、嫌々嫌な仕事をしていくのがよいのではないでしょうか。文字通り「死んでもしたくない仕事」が舞い込んだ場合には「死ぬ覚悟」で他人に交渉する心持が必要になる気がします。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-34815052233286132322018-10-29T13:30:00.000+09:002018-10-29T13:30:36.544+09:00多くの学生は市場にならない一考察 知り合いでかつて自分が学生だったことから学生を支援したいと思う人がいます。しかしそれはどうなのでしょうか、ひょっとしたら学生や幼児向け対象の市場はないのではないか、あるいはあっても市場は拡大していかないのではないかと考えます。そうした学生向けの支援をすることについて、例えば学生支援向けの団体を個人で作ろうとしている方に対して、ちょっとやそっとの生半可な気持ちでサービスは出来ないのではないかなといったことをここでは書こうと思います。<br />
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市場の原理とお金</h2>
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一般的な市場は社会に望まれているものを、資源のあるものAが加工して望む人Bにあげて、そのお返しとしてBが次回加工に対する応援をAに送って成り立っています。<br />
当然そのAB両者間では「信用」があってのもので、基本的に加工品をもらったお客さんであるBは応援としてAに「お金」といった形を渡します。お金は加工したもの自体を得るためには必要ですがそれだけでなく、労働力や人を動かすためのものなど、パワーがあるものです。<br />
一般的にお金の価値は国が認定しています。ですから国としての信用が無くなったりするとお金の価値が紙くずになったり超高級なものとなったりします。われわれの使っている身近な<a href="https://manetatsu.com/2016/07/70745/">日本「円」は世界的に見てもかなり「信用の高い」もの</a>といわれてます。<br />
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国家間はもちろんですがそれだけでなく他の人との取引でもこの「信用」が大事なことは言えます。信用が低くなったら単位あたりの価値が下がり同じような労働をしても必要なお金の量が増えます。例えば今まで1000円で一時間労働していても、その信用価値が下がると同じ労働をしていても2000円も3000円も必要になります。 そうした意味でお金を約束を反故された場合に対しての担保として使うことが可能です。<br />
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学生が無責任となりうる理由</h2>
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一方市場外には上記の一般的な性質を知る社会人だけでなく幼児や小中高校生、大学生などが居ます。彼ら生徒さんや学生さんの多くは基本的に親の管轄下で社会に出ている身分です。運転免許ならいわば仮免状態で社会に出ているといって間違いないでしょう。その上で、彼ら学生さんは学生でない人と比べて何が違うか三つ考えてみました。<br />
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①学生さんは基本的に「親がお金を払って学校に通わせてもらっている身分」です。所属組織に対して責任を負っていないことから帰属意識も薄く、約束を破っても責任は問われません。当然担保も持てないケースが多いですから責任を負って仕事は出来ません。<br />
②お金についても自分で稼いでいるケースは日本では少ないと思います。もちろんバイトをしている生徒さんや学生は多いと思いますが、多くはあくまで「自分の遊びのためのお金」であり、<a href="https://gakumado.mynavi.jp/freshers/articles/36188">生活を支えるほどの切羽詰った状況で働いている人は少ない</a>と思います。ですから「お金に対し」てその価値がわからないまま生活をすることになっているのです。そうしたお金を使っているのにその価値がわからない学生と本気で価値をわかって使っている社会人や経営者とは価値観が違います。<br />
③また法律的にも20歳までもしくは大学を卒業するまでは少年法や社会的にも親から守られています。ですからたとえ相手に迷惑をかける行為をしていたとしても社会的な責任を負わずに好き勝手することが出来ます。<br />
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これらのことがすべてクリアできる若しくはクリアできる覚悟がある学生さんがいるのならば信用に値する人と言えなくはないですが、そのような人は社会人に比べると高校生や大学生の中でも本当にごくごく一握りなのではないかと考えます。 特に”子供を容易に大学卒業させられるくらい資産を持った裕福な家庭が多い現代にとっては”ですね。言い換えると学生さんの多くが無責任で信用に値しないのではないかと考えます。<br />
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社会のルールを学生には適用できないのでは</h2>
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そうした多くの信用に値しない無責任な生徒さんや学生さんに対して、信用で成り立つ社会のルールを適用して守ってもらうことが出来るのか、といった疑問を私は感じます。というよりきっと約束を守ってもらうことは出来ないでしょう。なぜなら子供や学生サイドが約束を破ったところで組織もお金も法律も責任を負うのは本人ではなく学校や親や社会などの他人だからです。 <br />
相手にした行為や費やした時間や労働に関してもそうです。自分で社会的な責任や金銭的な責任を負っていない学生さんに対して投資をしたとして、何かの天変地異が起こりさえすればひょっとすると価値が何十倍何千倍といった倍率に膨れ上がることはあるかも知れません。<br />
ですが一般的に社会的、金銭的、法律的な責任を負っている社会人に比べると、個人で時間やお金を費やす効果のようなものは社会人のそれより幾分か効果が薄い(お金や時間の重要性を理解していないのでそれらの使い方が下手)、あるいは効果の発動するまでに時間がかかる(まずは学生を終えてからその後に社会人となって効果が発動するまでに数年規模でかかる)可能性があります。若しくはもともと約束を破るつもりで近づいてくる学生さんも居るでしょう。そうだとしたら学生に関わる価値は小さいです。<br />
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それでも可能性を信じたいならば</h2>
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ですが文字通り腐るほどの、例えば国家転覆を目論めるほどの非常に多くの資産を持っていて、それを根こそぎあげたいお気持ちであったり、将来的に発展する市場の可能性を考えていなくても良い(そんな場面あるか?)と思っているならば、そしてそうした資産をあげようとしている人自身が死ぬ覚悟があるならば一つの可能性として学生支援をしてみるのも良いのではないかなと思います。<br />
しかしそれにしてもちょっとやそっとの種銭を投じたとして市場が発展することはないでしょうし、本当の意味で生徒や学生の支援をしたいと思っているならば資産の食い潰しをされること以外考えられないと思います。若しくは学生さん自体を自分が信じられなくなってしまうといった問題が生じてくる危険性を感じます。<br />
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そもそも相手はそれを望んでいるか</h2>
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また、いくら外野側が「こうしていきたい」と思っていても学生側が「望んでいない」ケースがあります。そうならばわざわざサービス自体が必要ないものなのかもしれないと考えます。<br />
自分が何らかのアクションを起こしてそれに対する返答が容易に予想できる場合であるとか、反応までリアルに想像し、そしてそのとおりに相手が乗ってきたのでしたらサービスの重要性や説明をしてもいいのかもしれません。<br />
しかしその準備過程で相手が否定してきたとしたらサービスを提供する以前の問題で、相手がサービス提供者の考え方まで達していなかったということが考えられます。だとすると<a href="http://nabekoro.com/201704/3816.html">サービスを作ること自体が無意味</a>です。それならいっそしないほうがましです。<br />
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まだ保護者向け市場なら発展はありそう</h2>
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支援する市場の拡大することを考える場合、まだ学生さん本人ではなく学生さんにお金を出している「保護者向け」でしたら可能性は期待できるかもしれません。しかしそれにしても結局は学生を対象としているものではないので「学生向けサービス」とは異なった形になると思います。<br />
となると前提としての「かつて学生だったから学生向けのサービスをしたいと思う社会人の熱意」はなくなります。となると最初の例でしたら前提からすべて覆ることになります。だとすると「詰み」です。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-26038256106674014692018-10-23T14:12:00.000+09:002018-10-23T14:14:34.211+09:00サービスの価値はお客さんが決める。 テレビタレントや芸人など、大衆の目にさらされるようないわゆる「芸能人」という人々が居ます。人によっては非常に高い値段でオファーしないと仕事を引き受けてくれない場合もあるそうです。ですがそれら無形なもののサービスにかかる値段を決めるのは誰なのでしょうか。多くが主催者側事務所側ですが、よくよく考えてみると結局のところ一番大切なのはお客さんが決めるのだと思います。そうしたお客さんからの値段を決めてもらう姿勢は大事だといったことを書きます。<br />
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芸能人のファンミーティング</h2>
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先日芸能人でありユーチューバーでもある方のミーティングに行ってみました。<br />
イベント自体は課題はあるなあと感じたものの、それはともかくやっぱり芸能人は美人な傾向があると思います。私が見てそう思いました。<br />
とした上で、その芸能人の方が何をしたいのかということは正直見えてこなかった部分があります。<br />
主催者側がどんなに素晴らしい企画を作ったとしても、お客さんの変わりやすい心理にいつも対応することは出来ないのではないかと考えます。<br />
それを考えるならいっそ<u><b>「お客さんが何を望んでいるのか」を十分吟味した後に、それに合わせて企画の内容を変えてゆく</b></u>のが大事なのかもしれないなと感じました。<br />
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宣伝サービスの内訳</h2>
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今回出席した芸能人がしている「宣伝サービス」は他の会社、例えばメーカーなどと違ってはっきりといったサービスの影響力や効果が目に見えません。ですから勝手に、そして余計に値段がつりあがってしまうものなのだろうと思います。<br />
そもそも何に一番お金がかかっているかを考えるに、多くは場所代や食費、間接経費などの固定費と、事務所サイドの人を雇うための変動費です。それらを宣伝されたことによって「期待できる経済効果」から引いた分が売り上げになります。となると同じ箱でし続けるならば経費はほぼ一定額になることが考えられるので、宣伝効果が高ければ高い分だけ売り上げは高くなることは考えられます。<br />
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また、芸能人の人も芸能人の人で、より多くの人と接する必要があるならば、事務所だけでなくお客さんからも多くの監視の目があるもとでそれらに対して「芸能人としての顔」をせねばならぬのだと思います。<br />
つまり少なくともそのイベント中はどこからでも誰からでも注視されることから、休む暇がありません。となると肉体労働としてあるいは感情労働としてかなり気を使わなくてはならなくなります。その意味で苦労費として高く設定されている部分はあるかもしれないなと感じました。<br />
あるいは人気であればあるほど、同じ値段でも他人から出席してくれ依頼が殺到すると思います。ですので、それを考えるとオファーの値段を高くしても依頼があるということは人気がオファーするバロメーターの一つとなっているのかもしれません。<br />
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会に参加している他の人を見て</h2>
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一般向けのイベントにはじめて出てみましたが、来ている人も事務所サイドに多く踊らされていることに少し驚きました。東京でなされたから特にそうだったのかもしれませんが、多くの方が事務所の人に言われたとおり何のトラブルも発生することなく飼いならされているような気がしていました。お客さん自身ももっと自分らしさを前面に押し出してええんやで、ってのが私個人的な感想です。<br />
その上でお客さん自身が興味深いと思っている人がいるならば、<u><b>お金を出した相手(ここで言うなら芸能人の方)が喜ぶことや望んでいることって何だろうと考えることが重要</b></u>かも知れません。<br />
そして<u><b>運営側もお客さんがそのようなことを真剣に考えられていたならば、それを積極的にあげて次回の運営に生かす</b></u>方法が今後のこうした会を発展させていく意味では重要なのではないかと考えています。<br />
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宣伝の価値と値段は誰が決める </h2>
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芸能人の場合、多くはスポンサーさんであるとか広告代理店さんが事務所側と折衝して値段を決めているのでしょうが、特に今回のようなファンミーティングを開いた場合には、<u><b>究極サービスを提供してもらっているお客さんにほんとの値段を聞いて回って次回の値段設定に生かしてみてはどう</b></u>なのかなと思います。 <br />
例えば予想より十分なサービスが提供されたと思うのならば規定の値段より高くなるでしょうし、あるいは不十分なサービスが提供されたと思うのならば規定の値段より下がるのが筋でしょう。<br />
それらお客さんんことを見たり考えたりせずに主催者側が一方的に値段を設定することはどうなのだろうなと感じる部分はあります。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-17264225375520784662018-10-22T16:37:00.000+09:002018-10-23T14:14:00.949+09:00「情け」で売りつける営業はわけわからん メーカーでは世の中の不便をメーカーの財力を使って便利にする「製品」を「作り」、お客さんにあげることでお客さんの満足を満たすことを目的としています。しかしいつからか「営業というもの」が「主力中心」となり、「足で稼ぐもの」と解釈され、客にも「情の押し売り」のような形で製品を売りつける会社組織や営業マンが出てきているようです。これは私の中で問題だと思っていて、それを追求していくと最終的にはわけがわからななると思うのです。だとするとこれは問題だと思っています。そこで「情」に代わる「営業」をするにはどうしたらよいか、営業について必要なものを書きます。<br />
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世である多くの営業スタイル</h2>
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かつて高度経済成長期においては「物を作れば売れた」ことから、とにかく足を使って歩いてお客さんに物を売ることが大事だと思っている会社組織や営業マンが居たことと思います。今でも現場の足からPCというバーチャル空間に変わっていても同じように出来るだけお客さんとの接点を持って粘り強く営業すれば売り上げが上がるはずだと思っている会社もあると思います(私もある時点まではそう思っていました)。<br />
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僕が高専や居るときには研究室配属されてから、あるいは会社に居るときにも近くの商社のお兄さんがルートセールスよろしく、営業マンが何の用もないのにしょっちゅう仕事場に来ていることがありました(大学の研究室では業者に電話して必要なときだけ来てもらっていたスタイルでした)。正直営業マンを見ていて「この人は何のために来ているんだろう」などと思い、正直邪魔だと思っていましたし、不快に思っていた部分のあることは確かです。<br />
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古い営業は「情」を持ち出す</h2>
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上記のような邪魔でうっとおしい営業マンは正直私からすると「情」で営業する古臭い営業マンだと思います。バブルのころで言うならば営業先を確保するためだけに無駄に「接待」をすることを良しとする企業です。接待経費を使って相手との「情」を確立させることでコンペティションでも自分のところに積極的に売り上げを立ててもらえることを大事にしています。<br />
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例えば私が最初に配属された工場では機材を導入しようとするときにそうした営業マンと接する機会があるのですが、そうした場合においても先輩がそのような情にほだされることを良しとする人で、「接待を目的としたゴルフ」に参加していたりしていました。私はゴルフはできませんし、あまりしようという気はないのですが、そうした相手の望んでいないものを無理やりつかませることで「情」を売りつけようとする姿に辟易している部分が私にはありました。<br />
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「情」のほかに何を大事にするか</h2>
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では「情」ではなく「何を大事にするか」を考えると、ひとつに少なくとも扱っている<u><b>「製品についての最低限の知識」と、「相手の必要としているものは何か」という問題発見力や質問力</b></u>だと思っています。またそれらが起こるためには「なぜか」といった論理的な思考と推察力が大切だとも思っています。<br />
そもそも相手は「なぜ」その会社の営業マンについて問い合わせをしているかというと、<u><b>決してその営業マンのことを知りたいのではなくて、あくまで「製品について」知りたいことや、実際に「扱っているサービス」に関心があるから</b></u>です。問い合わせのあった製品について知りたいことがわかったり、扱っているサービスについての関心を解決できたら、製品という担保を持って相手からの信用を確保することが出来ます。<br />
もちろん製品をお客様にあげることによって最終的にはそうした全般的な顧客サービスをしている営業マンの信頼や信用の確保に繋がります。ですが<u><b>本来であるならば製品があっての営業マンの信用であるのにもかかわらず、製品そっちのけにして営業マンの信用だけを売っていては順序があべこべになってしまい</b></u>ます。確かに製品そっちのけで営業マンの信用を確保する分には「騙し屋」や「詐欺師」としての才能は磨かれるかもしれませんが、真の誠実なサービスマンとしての価値は高まりません。<br />
ですので自分が製品を売る営業として活躍するのならば、その製品についてのことを詳しく知った上で、それにかかわる人たちがどのような動きをしているか知ることで何歩か先の「見立て」を行うことが可能です。そうした「将来の見立てを立てることからの現在における対策を立てること」が将来自分が生きるうえで重要になるような気がしています。<br />
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担保として製品を扱う重要性</h2>
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そうした扱っているサービスのものがあるという意味では、特にメーカーの営業では担保としての「製品」があるため、他の「<a href="https://19jin.blogspot.com/2018/10/geinoujin.html">サービス中心のもの</a>」と違って目に見えるものがあることからお客さんへのアプローチはしやすいと思います。<br />
人間は「見えないもの」より「見えるもの」は大変イメージしやすいです。特に「見えないもの」とは時と場合によってその目に見えないものの価値が容易に変化していってしまいます。ですから<u><b>「目に見えないもの」を扱っている場合であっても</b><b>「目に見えるもの」として担保できるものを介することが出来ればより顧客満足の出来るサービスの出来る</b></u>ことが考えられます。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-21295937305461083192018-10-18T13:49:00.000+09:002018-10-29T15:00:25.996+09:00相手との良い関係性維持のために奢る 皆さんはどれだけ多くの方と本気の付き合いをしているでしょうか。一般的に本気の付き合いをしていくには、長く時間をかけて相手の性質を見出すことが重要と思われます。しかし、そうした相手の性質を見出すには時間をかけずともリスクを負うことで判別可能と思います。その負うリスクとは例えば金銭です。そこでここでは特に<a href="https://news.biglobe.ne.jp/trend/0218/mes_170218_6422524249.html">金銭的リスクを負う</a>ことによって相手と関係を良く出来る可能性のあることを書きます。<br />
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おごり</h2>
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私は相手に興味がある場合、基本的にお金を払って相手に「奢っ」て話を聴きます。 ここでの「奢る」こととはすなわち「お金」を使って「相手の情報」を「貰うこと」で、言い換えると「投資」や「応援」と同じものです。<br />
仕事はもちろん恋愛についてもそれが言えて、自分が積極的に「奢ることを言うこと」および実際に「奢る」ことで、相手と自分とが「合う」「合わない」といった判断を「自分が」出来ます。<br />
もちろん「奢る」といったことをしなくても時間をかけてじっくりと相手と合う合わない判断がつけばいいのでしょうが、私の生きている時間は限られています。また判別したほうが良いだろうと思われた特定の出来事について、一度起こったことが再度同じような状況で再現されるとは限りません。ですから一回きりの状況で適切な判断をするため、損をしても良いほどの担保をかけます。私の場合その「担保」は「奢るお金」です。<br />
そうした担保をかけるお金は小額で最大限の効果を得られることが望ましいです。ですので特に私の場合には最初に多くの方に奢ってからその中で今後奢り続けたい人を判断します。あまり付き合いたくないと思う方には一回きりの奢りで、今後ともずっと付き合っていきたいと思う方の場合には担保額をどんどんあげます。<br />
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奢ることを言うタイミング</h2>
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そうした前提の上で私は「奢ること」を言うほうが良いと思っています。そしてそれは食事や会合などを誘った段階で言うのがスマートと判断します。<br />
なぜなら私自身が奢られるのか奢られないのかわからない場合、食事をしながらでもその場の会計をどちらが出すかは不安になることがあるからです。どっちが持つかはっきりしないとご飯ものどを通りませんし緊張して楽しい話も出来ません。<br />
また僕自身がそうですが「奢ってもらえる」といわれると嬉しくなります。私自身がそうした「奢ってもらえると嬉しくなること」を感じるため、同じようなことをすると相手も喜ぶのではないかと考えて実行しています。 <br />
<br />
ですが一般的には「奢ること言わず」に勝手に支払いをしたり、「払っておいたよ」と食事後に言いますし、それを多くの方が望んでいます。しかしそれだとせっかくの「食事会」や「会合」が「価値あるもの」 として認識されなくなってくると思うのです。<br />
即ちその「会合が」「価値あるものとして機能したor機能するか」を考える場合、敢えて会が開催される前に「奢る」といったことを言うことで、楽しい雰囲気になることを期待できますし、相手から有益な情報をくれることもあると思います。<br />
恋愛において特に自分のほうが一方的に好きなら尚更、相手に言って奢ってあげたら良いのではないかと思います。<br />
<br />
また「奢ると言う」だけでなく実際に「奢る」ことで相手の「楽しそうな顔」はもちろん、「楽しい話」や「その人にとっての興味深い話」も貰えます。<br />
「楽しそうな顔」、「楽しい話」や「相手にとっての興味深い話」は「奢る」ことの有言実行したからこそ得られるものだと思います。そして私はそうした「楽しそうな顔」や「興味深い話」がお金を使って得られる「大きな財産」だと思っています。<br />
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多くの方が感じている懸念</h2>
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とはいえ、これまで奢り奢られといったような関わりが一切なかった人にいきなり奢られると「何か下心があるんじゃないか」であるとか、「マウントを取ろうとしているのではないか」などと思ってしまうことはままあると思います。そしてそうした「奢ったこと」を利用して相手の弱みに付け込む「卑怯な人」もいることも事実です。ですので私の場合にはそうした「やましいことはない」ことを言った上で、「純粋な好意」として奢ります。<br />
「純粋な好意」、即ち自分が「楽しいこと」にお金を使っていると思うことで、周りの人も「楽しいこと」が舞い込んできます。例え相手から有益な情報を聞き入れなかったとしても、気に入った相手が「奢られたことで満足した姿」を見ることで自分自身が嬉しくなることはありませんか?あるのだとしたなら「奢ること」で「嬉しい顔をみられるだけ」でも十分お金を出した価値はあるのではないかと私は思います。<br />
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対価要求やマウント取りはNG</h2>
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ただ私はやましいことはないと思って奢っていますが、他人に奢ったほうが良いかもよとお勧めする場合、奢ったからと言って「金銭的な何かや肉体的な何かなどの『対価』を要求」したり「自分が相手よりもえらい立ち居地にあるべきだ」などと勘違いしてしまっては相手に怖さや恐れを抱かせる結果になるため、良い関係を作ることは出来ないことは認識しておいていただきたいです。なぜなら相手は対価をあげるためやマウントを取らせるために奢ってもらってきているわけではありませんからね。<br />
<br />
つまり皆何かしら「楽しくなること」を想像した上で、あくまで「相手のために自分がしてあげたい」ことを「言って」「する」ことが大切なのだと思います。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-55811369971220524002018-09-21T08:22:00.000+09:002018-09-21T08:22:20.968+09:00仕事に求めるものとはなにか 人生80年といわれています。年金の支給額も最近5年後押しになり、余計に働く人々が増えている状況です。そうした働く時間が多い人生の中で、仕事の役割として何を大事にすれば心穏やかに生きることが出来るでしょうか、ここでは何を大事にして仕事人としてどう生きていけばよいかといったことを書きたいと思います。<br />
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人生80年</h2>
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人生80年といわれています。明治や戦後のころと比べ医療技術が高まっていて、こと日本に住んでいる人々は世界の中でも割かし長寿な民族です。<br />
そのなかで最近では年金の支給額が5年後押しになることが言われ、定年後も限定職で働く人も多くなりました。すなわちこれまでより5年長く働き続ける必要があるということです。<br />
せっかく長く働き続けるのならより効率的に、かつ生産性高く生きて生きたいと思っています。高校や大学ををつ行して18~21の子達が65歳の定年までおよそ4~50年を職場で過ごすわけですから、人生の大半を仕事していることを考えるとその働きかける効果は例え小さくても累計してみると大きいと思われます。<br />
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<h2>
多くの人が思っている「仕事」とは</h2>
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そのような非常に働く時間の多い中で「仕事とは」と書いても結局はその人それぞれのとらえ方によって異なる部分はあると思います。ですのでこれといった大きなことをいうことはできないのですが、一つの考え方として示したいと思います。<br />
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多くの一般的な方が思っていることは「時間の切り売りをしている」ということです。確かに求人票を見ると、職場や職種のほかにすぐそばの場所に「給料」が書かれています。ネットを使った求人情報誌でも、ハローワークの求人案内でもそうです。<br />
最低限生きるための家賃と食費を稼ぐため、そして娯楽として時間やお金を「消費」するための<u><b>「ライスワーク」で</b><b>す</b></u>。<br />
お金を生きるよりどころにし、常に同期や同年代との給料を自分と比べ、給料がよければあっちにふらふら、こっちにふらふらしています。これはいうなればお金の奴隷になっているといえます。心持が非常に悪いです。<br />
<br />
一方ごくごくわずか(割合不明ですがきわめて少ない)ではありますが、お金に左右されない仕事を選択している方もいます。仕事をするためにしていてお金は二の次といった考え方を持っている方です。これは<u><b>「ライフワーク」といいます</b></u>。<br />
「ワクワク」や「興味のあること」をよりどころにして、それほどお金を多く稼ごうとも思っていません。<br />
こうした働き方はお金に奴隷になっていることもないですが、悪い付き合い方ではないと思います。 こちらは心持が非常に安心です。<br />
<br />
<br />
<h2>
なぜ仕事やお金の奴隷になる </h2>
<br />
<u><b>多く問題になるのは前者(ライスワーク)の考え方</b></u>です。これはお金との付き合い方にもよると思うのですが、常に他の人と比べられてきたことから自分を自分として認識していない部分があったからだと思うのです。ですのでそれを考えなおすための方法を以下に示したいと思います。<br />
そもそも人はそれぞれ成長も違えば考え方も違います。学校を出たからと言って18や20の子らが自分のあり方を十分認識し本当に「正しい」選択をしているかというと疑問があります。仕事やお金に対する考え方についてもそうです。<br />
<br />
<br />
<h3>
1.行動療法的工学的な考え </h3>
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自分がしっかり認識できていない段階で仕事を探そうとしていても雲をつかむような状況で何も見つからない可能性の高いことも考えられます。しかし仕事を続けていくことによって何らかの興味深さやワクワクのようなものを見つけられるかもしれません。<br />
武道の練習においては良く「守破離」が大事だということを言われていますが、先輩や上司から言われていることを守り、言われていることを破り、最終的には自分なりの道を見つけて離れていくということが大事だといわれています。<br />
精神療法で言うところの仕事をしながら見つけていくという意味で行動療法、理系の学問で言うならば工学的な考え方になります。 労力も後者の物と比べてラクですが、根本的な考え方として根治させることは難しいような気もします。<br />
<br />
<br />
<h3>
2.精神分析的理学的な考え</h3>
<br />
あるいはいったん現在居る仕事ーお金サイクルから離れて、自分個人として落ち着いて、見つめなおしてから確実に自分の言えることを固めた後に自分の本当の発見をしてみると言うことです。過去の自分の興味深さやワクワクから類推して自分を見つめなおします。<br />
これは精神療法で言うところの「なぜなぜ」を考えていくことから認知療法や精神分析的な考え方です。理系での学問で言うならば根本を考え直すという意味で理学的な考え方になります。<br />
後の行動を考え直す意味では非常に重要だと思いますが、ある程度行動した結果を踏まえて改めて根本から考え直すという意味では非常に強い労力と苦難が強いられます。<br />
<br />
<br />
<h2>
大切な客観的な視点と仲間 </h2>
<br />
上記二点においてどちらがどれだけ正しいかということはないと思いますが、その<u><b>現場の状況や環境によってどのような行動を取るかを考える必要があるかも</b></u>しれません。また<u><b>大いに経験を繰り返し失敗をしてもよい</b></u>と思います。 <br />
そうした改善する必要のある状況を自分ひとりで解決できればそれに越したことはありません。しかし私を含め多くの方はそのようなことはできないのではないかと考えています。なぜなら問題に対して客観的な視点を持つことはなかなか難しいからです。ですのでそうした<u><b>仕事に対して考える際には支えてくれる第三者の居たほうが良い</b></u>と思います。例えば恋人や婚姻している方などの伴侶の方が手伝ってくださるのであればそれはそれでいいと思います。もしくは血縁関係の方やお友達、あるいは話を聴くプロに頼ってみても良いのかもしれません。<br />
われわれ<u><b>ソーシャルワーカーやカウンセラーでも自分の考えを偏りなく行動するために「スーパーバイザー」なるものを持っている方が多い</b></u>です。プロでもそのような方を持っているため、素人である私たちが持っていてまったく問題ないと思っています。そしてそうした偏りを正す人とのかかわりが今後より混沌とする社会の荒波で生きるためには必須になるのではないでしょうか。<br />
幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-86701098761949921872018-09-10T12:15:00.000+09:002018-09-10T12:15:49.096+09:00商売を勝負と考えている奴はアホ ニュースを見ていると毎日毎日大きな会社が不祥事を繰り返し、場合によっては新聞などの報道機関に報道されること無く今日も多くの企業がつぶれています。そうしたつぶれてゆく企業の中で、特に商売において勘違いしているところは無いか、考える必要があります。その例をここでは記し、同じ轍を踏まないようにするにはどうするか、商売において必要なことは何で、それを達成するためには何が必要かといったことを書きます。<br />
<br />
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かつて日本に存在した悪徳企業と商売</h2>
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" class="YOUTUBE-iframe-video" data-thumbnail-src="https://i.ytimg.com/vi/Xve-elAj5iQ/0.jpg" frameborder="0" height="266" src="https://www.youtube.com/embed/Xve-elAj5iQ?feature=player_embedded" width="320"></iframe></div>
<br />
「豊田商事」と言う会社をご存じでしょうか。上の動画で示している通り、かつて存在した企業です。既にこの世には存在していない会社ですが、この動画を見ていて気になっていたことがあります。それは「商売を勝負事と勘違いしていること」です。<br />
商売を勝負と考えること自体はひょっとすると勝負を勝つ意味では重要なのかもしれません。しかしあくまでそれは短期的な決戦の勝ち負けなだけで、勝負事に勝ったからといって必ずしも商売ができる訳ではありません。商売を勝負事と考えている時点で相手を打ち負かすことしか考えることができず、その先にある大事なものを見落とすことになります。<br />
これは現在豊田商事だけでなく多くの日本の会社が見落としているところですが、「本来<u><b>商</b><b>売とはお客さんに満足を提供するもの</b></u>で、特に商品を提供したあとに<u><b>お客さんが本当に満足したか」を確認すること</b></u>が大事と考えます。<br />
<br />
また商売を勝負事と考えると長期的に応援してくれる人の数が少なくなると思います。なぜなら商売を勝負事と考えることで「誰か」が傷つくからです。たとえば自分が勝負事に勝ったとしても勝負した相手が負けます。するとそれ以後自分とお客さん以外に応援してくれる人は居ません。すると業界事態の発展はしていかないと考えられます。<br />
ですので<u><b>商売を考える場合には誰かを傷つけて勝ち上がることを考えるのではなく、みな幸せになれる選択肢を考える必要があり</b></u>ます。そうした「幸せ」を考えるに当たって一番大切なものは、商売を「お客様を満足させるもの」として考えることです。そうした選択を考え付くことで、自分も相手もお客さんも皆嬉しくなることが可能ですし、場合によっては競合した相手企業も勝負に勝った負けたをした後だとしても、応援してくれる場合もあります。すると業界自体の発展も望めます。では、そうした選択を見つけるためには何を大事にする必要があるのか考えてみましょう。<br />
<br />
<br />
<h2>
もっとも大事なものは会話</h2>
<br />
根本的な部分として大事なものは相手の熱意を引き出すコミュニケーションです。基本的な商売の考えとしては、お客様が望んでいること(熱意)をその通りにかなえてあげること<もちろん自分のできる範囲内で>が大事と思われます。即ち、売り手としては<u><b>相手が何を望んでいるのか、その本当のところを詰める</b></u>必要があると思います。<br />
<br />
そもそもなぜこのような商売を勝負事とを考えているのでしょうか。ひとつに<u><b>「確実なことを不確実に認識している」部分がある</b></u>のだと思います。そして<u><b>自分自身があまり言葉について誠実に扱っていない部分があるのでは</b></u>ないかとも考えています。即ち多くの人が実は人と人との交流をそれほど重要視していないと考えられるのです。プログラマーと営業、お客さんの望んでいることの違うことは次の図で示していますが、<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
今日、これを教えてもらったのだけど面白すぎて保存してしまった。<br />
--<a href="https://twitter.com/hashtag/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A7%BF?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#プロジェクトの姿</a> <a href="https://twitter.com/hashtag/%E9%A1%A7%E5%AE%A2%E3%81%8C%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#顧客が本当に必要だったもの</a> <a href="https://t.co/NbkQJlsNGx">pic.twitter.com/NbkQJlsNGx</a></div>
— そでこ (@c152a) <a href="https://twitter.com/c152a/status/1029708876592033794?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年8月15日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script>
このように知らず知らずのうちに<u><b>「こうなるはずだ」などといった考えに支配されている</b></u>部分があるのだと思います。これでは<u><b>現実を直視できるはずも無く、会社も社会も発展を期待することは不可能</b></u>です。<br />
<br />
<br />
<h2>
自身の気をつける点と商売の肝</h2>
<br />
こうした問題点をなくすためには、<u><b>まずは自身が誠実にあることが重要</b></u>なのではないかと思われます。この場面でもやはり<a href="http://19jin.blogspot.com/2018/09/seijitsu.html">不誠実な人は嫌われます</a>。なぜなら不誠実ですと相手の言っていることが理解できていない、もしくは理解しようとしていない部分がでてくるからです。客としては言いたいことがあると思っていても、それをうまく引き出せない部分があるとしたならば、それは営業としての瑕疵になります。<br />
誠実にあるに当たって必ずしも辞書通りの言葉を使えと言うことはないと思います、私自身が辞書どおりの素晴らしい言葉を使っていると言う自信もさらさら無いのですが、<u><b>少なくとも商売をする場合においては、自分の使っている言葉やニュアンスは相手と合っているかを詰める</b></u>必要があるかもしれません。<br />
物を売ること自体はただ「商品を望んでいる人に渡す」と言った単純明快なやり取りだと思うのですが、それを超える戦略として私は<u><b>商売は勝負事ではなく、お互いに満足する可能性を見いだす場</b></u>だと考えています。そうした心身的な余裕が持てると今後は「勝った負けた」を考えることなくよい交渉ができるのではないかと考えています。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-24986979520725537372018-09-09T12:28:00.000+09:002018-09-09T12:28:41.931+09:00不誠実な人とは付き合う価値がない 世の中には非常に多くの「不誠実なことを良しとする」人が居ます。不誠実な人同士が騙しあって文句を言い合う分には心地が好い部分があるのかもしれません。しかし世の中には「誠実なことを良しとする」人も居て、そうした人にとっては不誠実なことを良しとする人は非常に厄介な存在です。なぜなら約束を平気で守られなかったり、それを破るにしても謝られることなく悲しい思いをするからです。これは私は問題だと思っています。そこでここでは「誠実であること」が良いことであることを述べるとともに、不誠実からどうして脱却するかということを書きたいと思います。不誠実な人は後々損をすることがあると思うので無自覚ならば気をつけたほうがいいかもしれません。<br />
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<br />
<h2>
なぜ不誠実を良しとする人が居るのか</h2>
<br />
日本に限らないと思いますが、多くが騙しあって生きている人の多い社会です。そうした「人の信用が出来ない社会」であるとか、「約束を破っても構わない」などと思っている人、そもそも「言葉を丁寧に扱えなかったりする」人が多い現状が、こうした社会を形作る原因として私はあると考えています。<br />
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ちなみに私個人としては多くの方が「皆と同じならいい」や「赤信号みんなでわたれば怖くない」と考えられていることがあるのだと思います。そうした考え方があるのだとしたら、それはそれで構わないと思いますし、どうぞそうした不誠実な人同士で徒党を組んで騙しあって生きてくれれば良いと思います。その限られたコミュニティで負け犬の遠吠えよろしく「だましただまされただ」文句を言い続けるのは、そのコミュニティの質が落ちていく意味である意味滑稽ですし、それを批判するつもりはありません。<br />
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そうした「不誠実をよし」とする考え方はどこから来ているのでしょうか。小さいころからそういう教育がなされているからでしょうか。私は中学校や小学校だけでなく、もっと小さなころ、すなわち幼少期の「男らしさ」や「女らしさ」を「人間らしさ」の前に押し付けることが原因ではないかと考えています。「自分」が「自分」ではなく「第三者」であることを当然と思っている部分があるのではないかと考えます。これはいうなれば「自分が自分であること」を差し置いて、「借り物の自分」を持ってそれで良しとする、いささか不健康な考え方な気がしています。<br />
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誠実な人とは誠実とは </h2>
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不誠実であること自体は問題あるわけではなく、そうした人が居ること、そして非常に多くの方がそうした「不誠実な人である」ことを知ることは非常に興味深いことだと思っています(この間私が個人的に実験をしたところ不誠実な人は概ね95%くらいいました)。<br />
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そもそも誠実とはどういう意味でしょうか、私は「言葉を丁寧に扱うこと」「約束を守ること」「間違ったときに謝れること」だと思っています。ちなみに小学館の辞書に「誠実」とは<br />
<blockquote class="tr_bq">
まごころのあるようす。まじめ。</blockquote>
と書かれていて、さらにこの文中の「まごころ」とは<br />
<blockquote class="tr_bq">
相手を思う、いつわりのないほんとうの気持ち</blockquote>
とあります。概ね同じ意味なのではないかと思います。<br />
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不誠実な人との付き合いは、不誠実な人同士では騙し騙され、約束も体裁のために平気で破り、破られても一切謝る事をしないどうしようもない人々だと思っています。しかしそうした人々と接していて「その場限り」の楽しい気持ちを持っているのだとしたら、それはそれでそれが良いと思っている人にとっては「良いこと」なのではないかと考えます。ですからそれを否定するつもりは毛頭ございません。<br />
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稀な「誠実な人」は見つかりにくい</h2>
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一方世の中に非常に少ないながらも「誠実を良し」とする人がいます(先の実験では5%いました)。そうした誠実な人にとっては不誠実な人の行動が非常に嫌になると思います。 もっとも、そうした不誠実な人とは接さないようにすることが出来れば一番良いのですが、先に示したととおり、殆どが不誠実な人なので、殆ど不誠実な人の中から誠実な人を探すことは難しいと思われます。<br />
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私個人的な考えからすると、不誠実な人との関わる価値は殆どありません。なぜなら約束は守られないし、さらに約束を破っても謝る事を一切しない、さらには本人は謝っているつもりでもおかしな解釈をしているため謝っていない、といったことがあるからです。そうした不誠実な人とは約束が出来ません。すなわち「信用がない」といったことにもなります。<br />
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稀に「不誠実を良しとする人」から「誠実を良しとする人」に変われる人も居ますが、そうした成長できる可能性のある人にはあらかじめ成長したときに接してもらえるような配慮を私はしています。そうした成長しうる方の場合は、自分が自分であることを認識する<u><b>「挫折」を経験していたり、誠実な人からの働きかけや誠実な人との関わりによって考え方を修正していくことになる</b></u>と思います。そうした意味で現在ご自身が不誠実であるかもしれないと思われるのならば、<u><b>多方面の価値観を仕入れる場面に顔を出されるか、あるいは誠実な人と接するためにお持ちの資産を全投入しても交流を持っておいて損はない</b></u>と思います。<br />
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ちなみにお近くのお友達の中で一人でも誠実な人が居ればその人に頼むことによって誠実な人の知り合いを増やしていくことも作戦としてはあると思います。<br />
なぜなら誠実な人は誠実な人同士で付き合っていくことが多いからです。そうした「誠実な人」を見つけた後にその誠実な人から紹介をしてもらうことによって更なる誠実な人との輪が広がっていくことが期待できます。<br />
そして誠実な人同士でコミュニティが作れれば素晴らしい環境になるのかもしれないなと考えています。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-3775932987041589709.post-57082454985358335702018-09-05T14:22:00.000+09:002018-09-05T14:22:07.266+09:00隠居として投資家の役割 僕は「実生活で潔く隠居できるような人、あるいは若者に次世代の受け渡しの出来るような環境」を作りたいです。<br />
なぜなら皆自分の能力の限界があり、そしてその限界は年々広がり、自分の実力以上のことをできる(特に若い)人については応援する行為をすることが重要なのかもしれないと考えるからです。<br />
近年ではインターネットが盛況で現場第一線で頑張っておられる方の情報は簡単に手に入ります。僕以外の第一線で頑張ってくれる方が居てくれるのは大変嬉しいですが、一方でそうした方は、いつまで一線で働く必要を持っているのか、自分の衰えを否認して無理してイキることに何の価値があるのだろうと考えます。<br />
ですのでそうした「自らの衰え」を実感した時に「隠居」や「他人を立てる仕事として」の役割を考えてゆくことは大変重要だと思っています。ここではそうしたことを実践するためにどうするか何が必要かといったことを書きます。<br />
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技術発達した社会と自身の心・体。</h2>
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インターネットでは多くSNSにて自慢合戦をしています。確かに自慢できる環境のあることは自分がどれだけ素晴らしい人間か、他人と比べて自分の優秀さを誇示できる意味で心地良いです。<br />
また僕の友達でもじゃんじゃかじゃんじゃか投稿して、「何々しませんか」「何々が熱いです」「これだけ結果が出ました、俺偉い」ことを示しています。そうした有意義な情報もインターネットの発達する前と比べると、現在では回線とスマホがあるだけで簡単に手に入るようになりました。<br />
また情報だけでなく物も明治維新、朝鮮戦争特需から始まり現在は当時の状況と比べて発達の一途をたどり、世界の工場であるシナもあることから、終戦時に比べてかなり「品質の高い製品」を「安価」で手に入れることは可能です。<br />
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しかしいくら情報や物があって接する機会があったとしても、それが自分がどう思っているのか、すなわち自分が「本当に興味があるのか」といった心の面や心の発達の面では改めて考える場面のようなものはあられるでしょうか。私はそうした心の面の発達は技術発達に追いついていない部分があるのではないかと考えます。 <br />
一般的な「心」の分析であれば、お医者さんであったり大学の研究室の先生であったりすれば評論家的な視点に立って考察せしめることは出来るのでしょう。しかしほかならぬ自分自身にとっての「心の動き」を普段どれだけ理解している方が世の中に居るのか正直疑問です。大半の人が「自分の心の動きに普段は目を向けない」、あるいは、「考えてもいない」状況なのではないかと考えます。<br />
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また「心」だけでなく「体」についても同じです。医療技術の発達に伴い、二十年前三十年前と比べて寿命も延び続けて多くの時間生活をおくれるようになっています。見た目的には大きく変わっていることはないでしょうが、自身の体は一日一日老化することは当たり前とされています。それは生物として生きている以上致し方ないことであると考えます。<br />
となると時間の経過に伴い自身の「<u><b>老化のあることを認める</b></u>」こと、「<u><b>老人であるのなら無理をしてまで若者のように振舞う必要はない</b></u>」こと、それに伴って「<u><b>社会における自分の役割を考える</b></u>」必要があるのではないかと考えます。<br />
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技術と心の穴埋めをするには挫折する。</h2>
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医療やモノ作りの技術が発達していることと、それに伴って心や体の衰えを認識していることが遅れていることについて、出来れば車輪の両輪のように両者を認識できれば最高とまでは行かなくても自分にとっての最良、あるいは他の人とっても「幸せ」であることは認識できるのではないかと考えています。<br />
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この両者間で差の起きることは、<u><b>自分自身の心の環境と外の心の環境とに差があることが原因</b></u>なのではないかと考えます。その差を埋めるためには今自分の状況がどんな状態であるのかを認識することが必要なのではないかと考えます。<br />
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自分が自分自身である状況を認識する方法としてはたびたびブログでも書かせてもらっていますが<u><b>「挫折」の経験することが大切である気がし</b></u>ています。挫折は通常「大病、投獄、浪人、左遷」という「自分ではどうしようもないような出来事=理不尽」によって現場が立ち行かなくなった状態であり、言うなればこうした理不尽の現場によって「立ち止まり」「点検すること」といえることのような気がしています。<br />
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理不尽を得る意味ではそうした外や現場第一線に積極的に顔を出す必要があるのかもしれません。外や現場第一線ではない家庭や学校では、あらかじめ厳重に管理された環境下にあって、外界からの理不尽といわれる刺激はシャットアウトされがちでしょうし、そうした状況を経験する必要性も感じることがないからです(親の考え方が固いと思ったり学校の校則がむちゃくちゃだと思ったりすると、それはそれで理不尽と考えられなくはないです)。<br />
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現状を知り次に想定されることとは</h2>
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現状を知った上で次に想定されることとしては自分自身の立ち位置と他人への関与の仕方を考える必要のあるような気がしています。それぞれどういうことかを以下に示します。<br />
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自分自身の立ち居地 </h3>
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挫折して自分自身の「ふがいなさ」だとか「ちっぽけさ」だとかを認識した後に、今後をどう生きるか体力が衰えることを認識した上、自分が「どういう死に方をするか」など、生きているうちに考えておかねばならぬことかと思われます。<br />
もちろん「死ぬこと」まで想定する必要はないかもしれないと考えることはあるかもしれません。しかしいつ何時どんな事故が起こって亡くなってしまうかもしれません。明日交通事故であっさり死んでしまうこと、遺伝病で突然認知症になってしまうことも考えられます。そうした意味で<u><b>「出来ること」を「出来るうち」に準備しておくことは必要</b></u>なのではないかと考えます。<br />
これはいうなれば経営で言うところの「リスクヘッジ」です。あらかじめ最悪の事態を想定しておくことでそれ以上に悪くことはないだろうと心の内面でも安定させることが出来ます。<br />
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<h3>
他人への関与の仕方</h3>
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それと同時に他人に関しては第一線で活躍できる人や自分が老いた後を継ぐであろう後輩や後継者をあらかじめ想定しておくことは重要なのかも知れないと考えます。<br />
そうした環境を作る意味では<u><b>応援したり投資をしたりして後の人を「立てる」もしくは「育ててゆく」視点が必要</b></u>かも知れません。 <br />
そのためには後継者や思いを受け取ってくれる人に<u><b>自分の資産というリスクを投じて応援するといった行動を取り</b></u>ます。具体的には自分の心揺さぶられるような楽しいことに全資産を投入してもいいのかもしれません。<br />
どうせ資産なんて死んでしまえばなくなるものなのだし、死んでなくなるくらいならばいっそのこと応援できそうな楽しいことに全資産を突っ込んだほうが応援された人のためにも自分のためにも嬉しいことであるような気がしています。<br />
多くの方は自分の資産が死んでも惜しく、ひたすらためることを是とし、死んで他の人に贈与される過程で国に接収されることを望むのでしょうが、本気で相手を応援したいと思うのならば、国に接収させることなく資産が尽きるまで相手を応援し続けたらいいのではないかと思います。そのほうがよっぽどお金としての使い方は有意義と思います。<br />
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認識できず応援できない不幸</h2>
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一番の不幸は自分の現在の状態を知らず、また応援したいような相手と接することがなくただ毎日をだらだらと過ごしているような状況の場合です。<br />
そうした状況は「自分が自分でわかっていない」意味で寂しいことだと思いますし、「お金はあっても心のつながりを持てていない」という意味で、全盛期にはさぞ非常に悲しいつながりをおもちだったのではないかと私は思います。<br />
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そうした考え方の転換は若ければ若いほどいいと思うので、そうした「リスクを負って人に応援する大切さ」は持っておいてほしいと思っています。 リスクを負って応援する人はもちろん私でもいいですが、どうせならご自身の身近な人で応援したい人に資産を投じて応援してともに幸せを分かち合って欲しいです。幸せになる一考察http://www.blogger.com/profile/05222511140686074141noreply@blogger.com0