文化(言葉と体験)問題への対処
今までそしてこれからも多くの人と接する機会が増えるにつれ、他者の文化を知ることは重要になってゆきます。そうした他者の文化を知る場合にはいくつか方法があり、その文化の代表的なものに「言葉」と「体験」があります。今回は文化の枝葉に当たる「言葉」と「体験」についてそれぞれどのようなことかを考え、どうしたら言葉や体験から生ずる「異文化の問題」へ対処することができるか、また僕の体験例から異文化間への問題への対処法を示します。 言葉の問題 文化には言葉があり、普段我々が使っている言葉についてあまり意識していないかもしれませんが、言葉の中には言語だけでなく人の感情を乗せることができ(言葉=言語+感情とします)ます。 そして言葉の中の言語はあくまで文字や記号といったものでしかなく、その場にある言葉に乗っている感情は言語で正確に表現できない問題があります。確かに言語自体は翻訳なり勉強するなりすれば習得できることがあるかもしれません。しかし実際その言葉を発した人がどういう気持ちであるかとか、言葉を発した人がどのような背景からその言葉を発しているか、などといったことは言葉の発された場面で言語だけでは把握しきれません。 そもそも他者との交流で使われる言葉の中に感情があること自体を知らない可能性があります。言葉を交わしていても感情がお互い通い合っていないと、お互いに話している言語だけやり取りをしていても「なんか違うんだよな」と思われることがあると思います。 例えば最近のニュースで日本の茂木外務大臣が外国人記者を慮って言っている言葉でも外国人記者はそれを攻撃と思ったことがありました。このような一場面、すなわち限られた時間内において言語だけで言葉の全てを表現するのはなかなか難儀です。 体感の問題 文化には言葉だけでなく体験することもあります。身を持って他文化を体感を得るには「他文化を理解する必要がある」と思っています。 それには捨てる必要はないにしても少なくとも一度は「自文化を捨てる覚悟が必要」だと思っています。なぜなら自文化に凝り固まっていしまうと他文化を理解することができず、自文化で他文化を裁いてしまう恐れがあるからです。本来他者を理解すること・他文化を理解することが目的なのにそれを自文化の土俵で裁いてしまっては、得たい目的のものも得られなくなります。 また自文化でも