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「死ねるほど楽しいこと」の「出来る環境を選ぼ」う!

 先日台湾やタイに一人で旅行をし、それら他国を観察してこれから自国や自分にとって幸せになれそうなことを考えました、ポイントは「死ねるほど楽しいことを見つけること」だと思っています、またそれを実現するためには一つに「環境を選び取ること」が大切だと筆者は思いました。そこでここではそれぞれメリットやデメリットを記し、自分なりにより良い生活を実現するために選択・行動しましょうということを書いています。   他国観察から得られるこれから大切そうなこと  先日台湾とタイに一人で行き、それらの国々は下水は細いけれど機能していたこと、屋外に公共的に使えるトイレの数が少ないこと、飲料水を調達するにはなんぼか費用を出して購入する必要があること、がわかり、日本との国力や文化の違いを感じました。 それらの経験から日本の水の充実さや安定性を知る意味で、海外に一人で行くのは有効なことがわかります!  一方台湾やタイに限らず他国で日本の上下水道のようなのを完備できさえすれば、それらの国々は現時点でも既に十分発展していると思いますけど、まだまだ発展できる部分はありそうでしたし、新たな価値も十分産み出せそうな気がしました! ですからもちろん日本国内で事業の種を育てても良いですが、日本国外で事業の種を育てても良さそうな可能性を感じました。  翻って日本の完備された上下水道のように、「公共に貢献できるような状況や人」を日本国内および外国で育てることで、手痛い状況にある日本でもあるいは他の国でも多くの方から信頼されて力をつけられる可能性がありそうです! そのためには自分が死ねるほど(真に)楽しいこと(興味あること)をして、その楽しいことで他人に喜んで貰うことが大切に感じます!   死ねるほど真に楽しいことをするには  死ねるほど楽しいことや死ねるほど興味深いことが何かわからないのでしたら、お友だちに聴いても良いと思いますし、僕に言うてくださればそれを見いだすお手伝いのできる可能性があります! そしてその死ねるほど楽しいことをすることが、わたしの ツイッターのプロフィール に書いてあるような「幸せになること」ですし、それは間違いないと考えます。  勿論自分で他からの資料を読み解いて自分の生き方を自省し実験して改善してくことで見いだせることもありますから、それはそれで良いと思います、その代わり時間はか

自然界で生きるために必要な「思想」

 わたしたちが自然で生きるために必要なものは何でしょうか、わたしは思想が一つのよりどころになるのではないかと考えています。例えば自然の中の一部分を科学という思想で切り取ってそれを扱うことで、より便利に良くなれる可能性があります。また人と人とが密に接する組織という場面では、お互いの思想をかけ合わせることで一人ではできない目標が達成できます。そこでここでは思想の形を三つ取りそれぞれ示し、その中でも特に良くなるかもしれない思想を使った場面を記してみました。   私たちを取り巻く自然環境とは  日本はどちらかというと多神教な国であり日本語で十分生活できる強い国だとわたしは考えています。その背景には過去の江戸時代の思想が大きく影響していると考えられ、特に武士道や近思録などが大きな影響を及ぼしていると思われます。これらの思想は現在でも難題が発生したときなどに問題解決の手段として有効に使える道具です。ですので過去の思想や文化や母語を学び使えるようにしておくと、現在の状況観察から思想と環境を融合させることで対処ができる意味で重要と考えます。   また今日、日本人の多くは恐らく科学をかつての思想のように多くの場面で活用していると思います。もちろん自然を科学で全て解明することは出来ないのですが、ただそうした科学の思想を持って使えるようになると、一部では無暗に動物のように殺し合わずに済みます。そして多くの方が崇拝している「科学」を信じる立場にたちますと、わたしたち人間の身近で重要な化学物質としては水があります。この水は電気分解することで水素と酸素に分解することでき燃やすことができる意味で価値の高いものだと思います。また一方で水に限らず、札幌における歩道信号のひさしや八王子における畑の活性化や絹産業による商業の発展など、現在人間は自然をより暮らしやすい形で使用している現状があります。過去にはこれら自然を味わって利用してきたことがあるように、現代の私たちも既にあるこれら自然を味わい使うことで需要発掘やビジネスチャンスにつながりそうです。  ところで現在自然界で生きるわたしたちにとって視座を広げますと重要なのは組織と思われます。なぜなら人が複数人集まり組織を形成することで、一人ではできないことができるようになるからです。作られた組織では組織の中の人々をお互い違う「仲間」と考えることが重要と思い

桜島が中心にある県鹿児島で暮らす

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西郷隆盛像です。この像に限らず市内に銅像がやたら多い気がします。 鹿児島という土地    鹿児島は本州の中でも最南端にある都道府県です。今回は鹿児島県の中でも中心地として知られる鹿児島市に行きました。ここはかつて江戸時代には島津家が強かったことと西郷隆盛が生まれ育った場所として知られ、特に鹿児島市内には多くのそれらの銅像やモチーフがあります。なぜあんなに銅像が多いのだろうと思ったほどです。 島津家のもの思われる家紋です。 鹿児島県の整備やインフラについて 市内から眺めることができる桜島です。良くも悪くも桜島。   鹿児島県の全域にかかることだと思いますが、鹿児島県の中心には桜島があり、風に舞って桜島の火山灰が広く堆積することから、道のあちこちで火山灰を集めている様子がうかがえました(下記写真のような火山灰を集めた黄色い袋が道のいたるところにおいてある)。  年中火山灰が飛散することにより街の方が頻繁に道路を掃除しているためか、あるいは火山灰が道の劣化を防いでいるからなのかわかりませんが、他県の道と比べて作られている年数の割に綺麗な感想を持ちました。加えて距離に対して大きい公園の多い印象を持ったことから、建築などのインフラ整備を強くあろうとしていて、だからこそ例えば鹿児島高専には化学の学科はないのかも知れないなと思いました(本来高専は大学卒業者より早く実践力に強い若者を社会に送る目的で設立されたと言われています。ですので鹿児島県は建設業が強いからこそ建築の学科はあっても化学の学科がないのかもしれないと予想しました。)。 桜島の火山灰を集めた袋です。火山灰は触るとサラサラしてます  鹿児島の地元にある国立鹿児島大学に行くと、鹿児島県の特徴としてこの桜島のことを熱心に研究していることが伺えました、特に鹿児島大学内の博物館に行くと鹿児島の特徴が書かれた資料を見ることができました。地質や気候などを研究している人が多いのでしょうか。現象究明はもちろん必要なのかもしれませんが、それから一歩進んで「自然現象をどう使うか」という発想があったら更に自然を良く活かせそうな気がします。  例えば下記の写真にもありますが、鹿児島は桜島のマグマの影響で温泉が多くの場所で取れるらしく、それで商売をしている方も多く見られます。桜島など活火山のない一般的な銭湯ですと水やお湯を加熱などする関係で光熱費

おっさんの九州旅(概要)

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  このたび2020年11月3日から2020年11月21日まで九州3県(鹿児島、福岡、長崎佐世保)に行き、九州の地が関西や関東と違ってどのような土地なのか、ここで暮らすには何が必要か、九州で暮らす人たちはどんな方か、などを体感しました。  また今後台湾に行こうと考えていますが、その際自分の知っている文化圏とは異なる文化圏に入り込むにはどうするか、といったことの練習をする目的として、九州で生きるにはどうするのか、交渉などをするにあたり何が必要かといったことを調べました。以上のことについてここでは書きたいと思っています。     必要だったもの  氷点下まで耐えられるマミー型の寝袋  タオル2枚くらい  数日分の着替え   体洗う用、衣類洗う用の洗剤  歯磨きセット  移動を缶便にする小分けのバッグ    持って行ったけどいらなかったもの 暇になったら読もうと思った5冊の本 過剰なタオル   荷物  上記の必要だったものと持って行ったけどいらなかったもの、すべてをロスコの大きなリュックバッグに入れ持って行きました。  荷物の大きさは飛行機の手荷物に乗るぎりぎりの大きさだったので、行きは預け荷物帰りは手荷物で乗せ移動しました。今回飛行機は国内便でしたのでまだ荷物の大きさが厳しく取り締まられることはなかったですが、海外へLCCで行くとしたら荷物の大きさが引っかかって輸送するのに追加料金がかかりそうな気がします。大は小を兼ねると思って大きなバッグの荷物を持ってゆきましたが、使わないものを持ち歩くことは苦痛でしかなく、それだったら使わないものは使わないものとして持ってゆかない勇気を持つ必要性を感じました。  荷物の総重量は合計でおよそ10キロ近くあったので、日中は都度大きな荷物と小さな荷物に小分けにし、大きな荷物をコインロッカーに入れました。コインロッカーは主要の駅にももちろんありますが、それ以外にも特に主要駅の近くに百貨店や商店街がある場合にはそこにもコインロッカーがあり、百貨店や商店街の空いてる時間に荷物を預けて移動することを考えるならどちらかというと割安でした。なお 鹿児島では駅のロッカー(400円/24hr)に対してイオンのロッカー(200円/day) 博多では駅のロッカー(400円/24hr)に対してヨドバシのロッカー(200円/day) 佐世保では駅のロッカー(40

文化(言葉と体験)問題への対処

 今までそしてこれからも多くの人と接する機会が増えるにつれ、他者の文化を知ることは重要になってゆきます。そうした他者の文化を知る場合にはいくつか方法があり、その文化の代表的なものに「言葉」と「体験」があります。今回は文化の枝葉に当たる「言葉」と「体験」についてそれぞれどのようなことかを考え、どうしたら言葉や体験から生ずる「異文化の問題」へ対処することができるか、また僕の体験例から異文化間への問題への対処法を示します。 言葉の問題  文化には言葉があり、普段我々が使っている言葉についてあまり意識していないかもしれませんが、言葉の中には言語だけでなく人の感情を乗せることができ(言葉=言語+感情とします)ます。  そして言葉の中の言語はあくまで文字や記号といったものでしかなく、その場にある言葉に乗っている感情は言語で正確に表現できない問題があります。確かに言語自体は翻訳なり勉強するなりすれば習得できることがあるかもしれません。しかし実際その言葉を発した人がどういう気持ちであるかとか、言葉を発した人がどのような背景からその言葉を発しているか、などといったことは言葉の発された場面で言語だけでは把握しきれません。  そもそも他者との交流で使われる言葉の中に感情があること自体を知らない可能性があります。言葉を交わしていても感情がお互い通い合っていないと、お互いに話している言語だけやり取りをしていても「なんか違うんだよな」と思われることがあると思います。  例えば最近のニュースで日本の茂木外務大臣が外国人記者を慮って言っている言葉でも外国人記者はそれを攻撃と思ったことがありました。このような一場面、すなわち限られた時間内において言語だけで言葉の全てを表現するのはなかなか難儀です。   体感の問題  文化には言葉だけでなく体験することもあります。身を持って他文化を体感を得るには「他文化を理解する必要がある」と思っています。  それには捨てる必要はないにしても少なくとも一度は「自文化を捨てる覚悟が必要」だと思っています。なぜなら自文化に凝り固まっていしまうと他文化を理解することができず、自文化で他文化を裁いてしまう恐れがあるからです。本来他者を理解すること・他文化を理解することが目的なのにそれを自文化の土俵で裁いてしまっては、得たい目的のものも得られなくなります。    また自文化でも

幸せになるには「受け取」り「与える」。

 幸せになることを考える場合には何が必要でしょうか、一つに「受け取ること」と「与えること」とのバランスを調整することが大切であるように思います。それら二つは人への不信感が前提にあると適切にできません。そうした人への不信感は相手だけでなく自分を傷つける意味で修羅の道への生き方になると思うし不幸になっている気がします。だとしたならば問題です。そこでここでは「受け取ること」と「与えること」とはどのようなことかを示し、一つの方法として特に受け取る場合において何をどうしたらよいか書きます。 受け取ったり与えて幸せになる  物事はまわりまわっています。日本のことわざや言葉でも例えば「金は天下の回り物」であるとか、あるいは「風が吹けば桶屋が儲かる」といったものがあります。通常生きている自分という人間はできることの限界はあるのですが、それはもちろんのことそれ以上に周りへの影響によって自分が受け取るもの、及び与えるものとが存在します。  ところで「幸せになる」ことを前提とした場合には、それら「受け取ること」と「与えること」とのバランスを調整して平衡にすることで「幸せにつながる何か」の得られることがあります。それらバランス調整することを考える場合、一方だけ強くてもあるいは一方だけ弱くても流れに滞留が起きて本来得られるものでさえも得られないことがあります。ですからきれいな形で「循環」を回すことが幸せになるためには大切であると考えられるのです。  それを考えるにあたって受け取ることとはその文字の通りで 自分 の 所へ 来たものを手で 取って 持つ。 「 代金 を-・る」   とあります。 受け取るとは  多くの大人は小さいころに母親からは通常無条件の愛情を受けて育っていきますが、この「愛の受け取り」に何かしらの悪影響があると大人になって他者からの愛を受け取ることができにくくなる性格になると思われます。またそれだけでなく生育過程で他人からの裏切り行為を学習してしまうと、大人になっても人から好意で出されたモノを受け取ることができない性格になることも考えられます。すると本来純粋な気持ちで接してきている人を必要以上に疑ったり常に考えの邪推をしたりする人間になってしまうのではないでしょうか。https://www.nhscafe.net/blog/1386  

恋と愛との違い、愛への昇華方法

 現段階でのたたき台として文章を書いています。変だったらコメントください。  世の中には「恋愛関係」というものを多くの人が持っていて、それが転じて子供とを作ったり結婚したりして複数人で生活します。その他者との関係を作る場合において「恋すること」と「愛すること」とがありますが、これらは違うことを知ることは重要と思われ、特に「恋」から「愛」に昇華する方法はあまり書かれている文章はないのでここではそれを書いてみました。 恋と愛の違い   まず、「愛すること」と「恋すること」とは同じようなものであると認識している人がこの世の中には非常に多いですが、実は恋と愛とは違うものであることは認識したほうがいいです。 愛することとは  「愛すること」とは「相手を認める」ことです。故マザーテレサが「 愛の反対は嫌いではなく無関心である 」と言っているように、これを論理的に解釈すると「無関心であること=無視すること=存在を認識しないこと」の反対が「愛」であるといえます。いうなればそれ(無視することの反対)は「存在すること・認めること」であることが考えられます。この「存在すること」や「認めること」というのは「相手がどうあってもそのままを受け入れること」です。もちろん他人と自分とは違う部分があるので、特に価値観や考え方の違う部分は一般的に発生しますが、それらが「大きく違ったとしても受け入れられること」、「違っていてもゆるすことができること」を「愛すること」と言い換えることができます。これすなわち「相手が自分とは違うことを知ること」、あるいは「何が違うのかを明らかにすること」でもあると言えます。  例えば恋愛だけでなく子供を育てようとする親は「子がどんなであっても認める=愛する」 ことがあります。もちろん親である自分の思い通りに子供が動いてくれたらそれ以上に楽しい部分はあるかもしれませんが、親として子供が育つにあたっては社会的に好ましくない非行に走ろうともあるいは犯罪者になろうとも無条件で子供の存在を認めることができるのではないでしょうか。逆に子供の存在が親である自分にとって認められない、もしくは子供は自分の一部のものであると主張するような親がいるとするならば、その親は子供にとって血のつながりはあるかもしれませんが子を育てる意味での親ではないと言えます。 恋す