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6月, 2014の投稿を表示しています

分類できない不安からの精神疾患。分類し安心することで得られる痴呆。

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他人の目は鳥瞰の目!  自分と他人の見方は違います。これが社会の中には混在しています。自分の親子などの近い間柄の関係は自分の見方が適用されますが他人の親子関係は基本的に他人の見方が適用されます。自分、他人のどちらの見方もない、あるいはどちらを選択すればいいのかわからない場合は混乱します。すると不安が増し精神疾患になってしまう場合もあります。一方なんでも短絡的に分類してしまうと、今度は考える機会がなくなり痴呆化してしまいます。それは問題です。そこで、こうした問題が発生しないようにするために、どのようなことに気をつけたらよいのでしょうか、ここではそれを考えました。 自分の見え方と他人見え方は違う  客観的に見ると人の能力は時間の経過に伴い、ある程度の年齢までは上がって、終わりに近づくにつれ下がります。しかし本人は伸び続けている、あるいは能力は落ちていないとを考えられている場合もあります。  そのような方、能力は落ちていない、と考えられている方はもしかすると その人なりの世界が存在しているのかも しれません。これは対人援助をしている場合、よく考えられる話です。  そうした人の世界とは 私たちが見えている現実から離れているため異常だと(一般的に)考えられますが、異常な世界を正常と思われている相手にとっては(一般的に)正常な世界が逆に異常に見えている可能性も有り ます。それは他人が否定できることでは有りません。 他人の目と自分の目  ところで上記のような自分の世界を持つ自分の見方とは異なった、いわゆる一般的な、客観的な見方とはなんでしょうか。それは他人の目でみている、他人の見方のような気がします。これら自分の見方や他人の見方は、ともにどちらが良いというものではなく、何らかの判断でどちらかが無意識的に選択されているだけ、のような気がします。それぞれの特徴を以下に記します。  他人の目で見ることは、言葉や定義という概念に人を当てはめている、それ以上は考えたくない気持ちが見て取れます。例えば人も心は無く、ただのものと認識します。  自分の目で見ることは言葉や定義のような概念以上のものがある気がします。言葉で表現することは出来ませんが、良し悪しなどの感情から人の数だけ自分なりの気持ちがある気が

友達は居なくとも良い。

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お前らの友達は本当の友達か?  世の中友達至上主義がはびこっています。私は正直、友達は居なくてもいいと思っています。なぜなら生き方なんて人それぞれなのだし、最悪友達が居なくても生きていくこと可能だと思うからです。(その代わり友達に変わる何かが必要です。)ただ、友達が居たほうがよい場合も有ります。ですから、友達や彼女(=異性の友達と同義)を作る選択をするにしてもその分のメリットやデメリットを十分知る必要があると思います。そういったことについて書いてみました。 友達は合うか合わないかだけ  どんなに薄い関係でも友達を持っておいたほうがいいと記す書物が有ります。一方で、友達なんて要らないと記している書物も有ります。  これはどちらが良いか、悪いかという問題ではありません。私は友達になるかならないか・いるかいないかということは結局、合うか、合わないか、ただそれだけなのだと思います。  結婚をすると書類上相手とは契約関係になりますが、友達は通常、結婚のような契約を結びません。ですからもしかしたら明日すぐ切れてしまう関係かもしれません。ただ馴れ合っている、つるんでいる部分があることも否めません。 友達にしにくい人  世の中には友達になれる可能性のある多くの人が居ます。その中で相手の言っていることを否定する人がいます。  学術的な関係での知り合った仲ならば、自説の展開をするため、相手の論を否定することが有用な方法なのだと思います。これは確かに正しいのですけれども、これを日常生活まで水平展開すると相手との間に軋轢を生じます。ただ自分の気持ちはすっきりするかもしれません。  相手を否定し続けると最終的に独りにはなり、自分の行動に全責任を負わざるを得ませ。しかし、一方で自由を手に入れられます。トラブルが発生した場合には、友達関係以外の手段で、例えば金で解決せざるを得ない場合もあります。 友達にしやすい人  逆に相手の気持ちのいいことを言う人は、基本的に友達が出来やすいです。相手を受け入れ、自説の展開はしません。自分が無いと思われることもあります。ただ、相手との関係を良くできる可能性を持ち、自分を押し殺します。  最終的にちょっとしたことでも無責任に頼ることができます。人間関係が「がんじがら

きまりを作るもの、きまりを使うもの

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決まりは足かせと考えられなくもない、か。  現在は前年度比停滞、あるいは衰退している社会です。法曹、経済ともに80年代へ回帰し、大盛況だった頃の日本を取り戻したいと考えています。  しかし、なんでも規制を持って制限しようとする国やそれを後押しする放送局が我々の生活の中にあって、その既得権益を利用して癒着をしている者がいます。多少の規制や癒着があっても結果としてよく働けばよいですが、たいていは悪い形で表出します。  すると何者かが意図するところにとって都合の良いことは大々的に出され、都合の悪いことは隠されてしまいます。それに巻き込まれ、槍玉に挙げられたほうはたまりません。  例えば食品偽装と呼ばれる問題に関して、品質的に問題なかったとしても公表したらしたで攻められますし、隠したら隠していることを攻撃されます。どちらにしても良いようにはなりません。こうした外野が騒ぎ、マッチポンプな社会が現状存在しています。これは非常にフェアでない社会で、好ましくないです。  そうした状況にはどのような考えがあって、決まりを作るものとしての考え、決まりを守るものとしての考えからそれぞれどうしていったら快適な生活を迎えられるのでしょうか。ここではその両者についての考え方を書きたいと思います。 縦割り社会の限界  現在日本は縦割り社会です。縦ごとに個別個別で割り振られ決まり(法律)ができ、横のつながりは基本的にありません。ですから複数の縦にまたがる問題が発生した場合は、各縦によって作られた決まりにより結論や見方が変わります。また決まりのできる背景が“過去”を基にしているため“今”との矛盾を生ずることも多いです。  こうした矛盾が拡大解釈、水平展開されるようになると、おかしな結論に達することがあります。  例えば「人間は生きていることが罪」として気に入らない人をむやみやたらにしょっ引き犯罪者に仕立てることも考えられます。こうしたことは、決まりのフェアさより感情が優位にあり問題です。 情報を発信するものとして  こうした決まりと現実との矛盾が発生した場合に対して日本はアメリカのように決まり(法律)がすぐ変えられません。また、決まりや法律が市民社会に根付いていません。ですから決まりを作る方、即ち 法律な

義務を負うものの選択

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選んでいるように見えて、実は選ばされていることもあったりします。  日本は戦後、アメリカによっていろいろな選択の出来る国となりました。そうした選択が出来る国の中でも、義務的な部分があります。例えば教育です。中学校まで行われる義務教育は強制的に課せられるものです。ですから先生などの指導者はついつい、押し付け型の教育になってしまいます。しかし押し付け型の教育をされると、本来伸びる能力を潰してしまいかねません。これでは問題です。そこで、こうした問題を防ぐため、 義務を負わされている、強制させられている(生徒の)側として どのような考えを持ち、モチベーションを保って行動してゆけばよいのでしょうか。ここではその良い生き方をするための、一つの方法を書きます。 義務と権利は表裏  教育のような義務(強制)も権利(選択)も実は循環で表裏一体なものです。ですから義務の裏側には権利を見出すこともできます。 義務と呼ばれる強制への対処  通常、強制的にさせされると断れないことから、せざるを得ぬ気持ちをもちます。するとこうした強制的に断れないことに対して抵抗したい場合も出てきます。そうした場合、最も簡単な対処としてその場で暴力を振りかざすことが考えられます。  しかし、暴力を振りかざして解決することは、結局暴力が暴力を生むこととなり結果痛めつけられることになりえます。私は自分の痛いことは嫌なのでこれは嫌です。ですから暴力を使わずとも義務への対策を考えた場合、私は他の行動をします。  その行動の一例を言うと、例えば相手を気分良く乗せるだけ相手を乗せ、 相手がいい気になっている間に自分の力をつけて(選択し)最終的に見返す。もしくは義務の中にも深みを持たせて自分なりの選択できる部分を見つける。 といった行動をとります。 権利と呼ばれる選択を利用する  また、余裕があるのならば相手と自分との価値観の違いを見つけ、自分の意図した主張や選択を相手に選択してもらいます。するとせざるを得ぬ義務は確かに表面上は義務なのだけれども、その中でも「自分の意図した選択が裏にある義務」を負うことができます。  例えば会社において業務内容について上司の命令に従わざるを得ない場合、 「Aという方法も、Bという方法も、Cという

物事の連続性を考え、社会で生きるには人と話す。

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巻き方はともかく、物事は紐と同じで連続性がある。  ものごとは必ず関連性や連続性が有ります。これまで連続性を無視し突拍子もないことを受け入れてきた場合、理解することや他人に納得してもらう説明をすることは難しいです。こうした難しさを防ぐにはどのようにしたら良いのでしょうか。一つに連続性を考え、関連つけることが重要と思われます。そこでここでは「ものごとの連続性を考えることの重要性」について考え、仕事と社会においてどうしたらよいか書きたいと思います。 受け入れることとアナログ→デジタル変換  日本人はなぜか突拍子も無いものを受け入れるのが好きです。血液型診断をはじめ、 分別することに集中し、考えない 傾向に有ります。加えて最近ではデジタル的なものの見方が流行っています。  本来人間の能力はアナログなものであるのにもかかわらず能力をデジタルと勘違いして蓄積し、デジタルのデータがその人の全てでもあるかのような考え方が出ていることがあります。  そうした考えが前提となる社会では恐らくミスも赦されないでしょうし、見たくないものは見ない、と言った 「臭い物には蓋」な文化 がはびこります。 ミスのゆるされない社会   こうしたミスの赦されない社会とは得ることを前提とした社会 であり、「かくあるべし、せねばならない」といった考え方を持ちます。しんどいです。国で言うならば税収は取ることを前提として考えます。突拍子も無いデータを支配し、それ以上の可能性を破棄します。  例えばケータイの所有率が高ければ犯罪率が高いといったこともあるのでしょうか。こういったことを単純に受け入れていくと、受け入れた対象は考えることを放棄し考える力が衰え、目的を見失います。すると徐々に弱体化することが考えられます。  またこうしたことが繰り返されると突拍子も無い情報を前提とした枠内でしか人間は育ちえません。そして突拍子も無い悪意のある情報をも簡単に受け入れて 、簡単に騙されてしまいます。また相手が納得する説明も出来ません。 ミスのゆるされない社会に対して  それに対して、得られるかどうか解らないがやってみるという考えもあります。 自己の反省から成長し、やりたいことを見つけたり します。  仕事を挫折の中から

情報を疑い、使う。

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ひょっとすると拡声器から流れる情報を疑えってことも無理があるのかしら。  政治家の老人への異常な待遇、世間の若者軽視。多くの情報が流される中、これは明らかにおかしいと思うことが少なくないように思います。そうした場合、情報を上手にネットを使って収集し、自ら考えることで問題の解決が図れる可能性があります。一つの考え方でなく、複数の視点から物事を見て自分なりに最良の道を歩んでいって欲しいと思います。ここではそういったことについて書きました。 臭いものには蓋文化  日本は思想信条として死したり、見たくない物を無かったことのようにする文化があります。加えて、農作物などを天候(即ちどうしようもないことを知ってる)の影響から栽培していたことも有り、天からの恵み、ひいては権力者からの恵みを素直に受け入れる考え方があるようです。 国という組織にも  この考え方が国の巨大組織においても水平展開されてます。保身のために他人を犠牲にしたり、個人的な恨みを組織として対応としていたり、縦割り行政が緊急事態に対応できなかったりし、基本的にフェアではなく、ないないで済まそうとします。 不平等を宣伝するマスコミ  そうしたフェアでない情報をそのまま受け継ぐ宣伝屋のマスコミがいます。彼らは国など大きな組織にべったりで良し悪しで考え、深く考えません。批判のための批判はしますが、基本的に責任を持ちません。虎の威を借りる狐のような存在です。ですがスポンサーには弱いです。 マスコミにいる記者も  そのマスコミに所属する記者も官に取り込まれるものが多く、国の批判記事は書けないようです。すると、伝聞や噂、想像などを平気に新聞に書きます。これは日記です。そうしたメディアの中で報道の専門家というものがいるのでしょうか。 これから変わってゆく社会  こうした役割や立場の存在することが何十年と長い間続いてきました。これに対し、現在ではソーシャルメディアの発達により、個々人に情報を発信するチャンスが有ります。  ただ残念ながらそれほど開放的であるとは言えません。使い方を間違えれば確かに問題ではあるのですが、上手く使うと商社や株屋等、中身も無いものはだんだんと淘汰されるようになります。 変わってゆく社会を生きてゆくた