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9月, 2015の投稿を表示しています

理不尽な人の中身とその対処方法

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 世の中には理不尽なことをいう人はたくさん居ますが、それはどのような人なのでしょうか。そしてそのような人と上手に付き合うにはどのような行動をとればよいのでしょうか。ここでは世にいる理不尽な人はどのような人で、そうした人の心の中を探るとともにそうした人への対処方法を考えました。 理不尽な人=思い込みが先行している人  現在の社会はこれまでの社会とは違って、柔軟で切り替えの早い価値観が求められています。かつての「耐えればいつかは報われる」などといった価値観では対処しきれません。もしかつてのこうした価値観をかたくなに現代でも持ち続けているのならば、場合によってはあこぎな商売に巻き込まれてしまうことがあります。例えば新聞などに記載されている「老いを認めたくない商法」に安易に従ってだまされてしまう場合がそうです。  本来人間は常に変化する意味で必ず年をとり、最終的には死にます。なのにもかかわらず、そうした生物的変化、生物的進化を否定して、自分はこうあるべきと思うことで、上記のような新聞などに記載された「これさえすれば若返る」といった商法に従ってだまされてしまいます。  そのような思い込みが強くなりすぎてしまうと場合によっては自分のみならず、他人を傷つけてしまう場合もあります。こうした 自分の勘違いで他人に迷惑をかけてしまう傷つけてしまうような人を理不尽な人 ということができると思います。  このような状況やこうした方は 、思いが事実よりも先行し新しい情報や考え方を取り入れられ無くなっ ています。するとその現在より先の問題への解決を考えられません。それは問題です。  ですから出来ればこうした理不尽さやわゆる執着は持っていただきたくは無いのですが、ここでいくら理不尽さを持つなといっても持たないことが出来ません。ですからたとえ持っていたとしてもほどほどであることが大切です。 理不尽をかんじている人の心の底にある甘え  上記「こうあるべき」と思う理不尽さや執着心を持っている方の心の奥底には、かつて 認めてもらえなかった不充足感がある 気がします。  ですから 相手に見捨てられまいと思うために変に傲慢になったり、関係維持にやっきになっている のかもしれません。それが理不尽さや執着心にあらわれていると思われます。 傲慢になることから転じて嫉妬

無秩序社会の生き方

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 無秩序な現代社会を楽しく、有意義に生きるためにどのような考え方を持ってどう生きていくのが良いのでしょうか。ここではその方法を過去のいくつかの参考文献をまとめて書きました。 無秩序社会でもたれるもの  ものは何でも秩序のある方向から秩序の無い方向へ移行します。これは科学で言うところの「エントロピー増大の法則」です(TΔS<0)。人間もそれが当てはまり、仕事でいうならばできるラクな仕事へ。ラクで高収入な仕事を選ぶ傾向にあります。  こうした無秩序さを求めることはある程度は必要ですが、行き過ぎると成長することができなくなる意味で危険です。もちろん無秩序の中でも困難や乗り越えポイントなど成長できうるポイントを作り出すことも出来ますが、無目的に無秩序さを求めてしまうのはやはり問題です。    なぜなら無秩序に従ってしまうと、一つに執着すること、即ち独占する考えが大きくなってしまうからです。独占的な考え方が大きくなってしまうと、そのときは良いとしても、以後成長する取っ掛かりがなくなってしまいます。  例えば畑の野菜でも今年の収穫をある程度残す、取らないことで来年以降も収穫することが出来ますが、すべてを取ってしまうとその時期にできた果実を摘むだけでなく、翌年以降に取れるであろう育つ芽(すなわち可能性)まで摘んでしまうことになります。 執着には心の弱さがある  こうした可能性を摘んでしまうこと、言い換えると執着してしまう行動背景には「心の弱さ」が関係しているのだと思います。   自分が思っているほど大きな能力が無いからこそ強がっていようとしている、形で残そうとする 、という部分があるのかもしれません。  ですからそれを防ぐには 実年齢に関係なく精神的に大人になる、脳能力を鍛え続けることが重要 です。そうするためには日々 ①続ける方向 ②継続力 を定めることが必要になります。 続ける方向と継続力とはそれらを得るには  ①の 続ける方向は良くも悪くも考える ことができます。良いことの例として、研究開発者なら論文を定期購読したり文章を発信し続けたりすることがあります。逆に悪いことの例として犯罪をすることがあります。ひとつあたりの規模は小さなことでも、それぞれ良い悪いのあることを認識したいです。  ②

伝達時には型と相手を知りたい気持ちが必要。

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 マクドナルドのマニュアルや工場における手順書もそうですが、何かしらの意図があって作られる「型」があります。これは文章の書き方や受け答えのしかた、伝達の仕方全般にもあり特定の場面において必要な「型」は何か、「型」の目的は何かを見出すことで次への行動へ役立てることが望まれます。そこでここでは「型」を見出すことの重要性、そして「型」だけでなくそれ以前に必要なことを書きました。 作業において重要視される型  作業をする場合において「型」が一般的に用いられます。これがなぜ作られたか、何を目的とするかといったことは通常読み取ることは不可能です。  しかし「型」を実践し、続けることで、作業を洗練したりあるいは失敗からの反省を経ることで、型の出来上がった意図や目的を見出せられる可能性があります。  一般的にはある程度の品質を保証するために「型」の存在していることが多いです。例えばマクドナルドで言うところの「マニュアル」は、お客様にある程度の品質の商品を提供するために使われます。 文章作成や受け答えにもある「型」  「型」と言うと作業、即ち手や道具の使うことを思い浮かべることが多いと思います。しかしそれだけでなく言葉や受けこたえにも存在します。  こうした言葉や受けこたえに使われる「型」は本来、相手を理解するor理解してもらう目的で使われることが多い(相手に理解してもらおうと発する言葉を受け取る)です。しかし、周りを良く見ますと、どうも「型」を軽視している方の多い気がします。  例えば相手の質問をする場合、通常文章が使われますが、それに対して「単語」で答えるような場合があります。この場合の「型」としての正解は「質問に対して応答で返すこと」です。しかし「型」にのっとっていないさきの「単語返し」をすることは、私は「型」を使えていない意味で残念だと思っています。なぜなら単語自体は相手の理解を得ることは出来るものの「型」を上手に使えていないことで、どこか相手に対して機械的な対応となる気がするからです。また単語さえいえばよいだろ、などといった傲慢さや間違った解釈も交わしてしまうことがあるような気もしています。  すると先ほどの例にあるマクドナルドの応対でしたならば、想定外の単語がお客様から発せられる場合に自分が思考停止状態(エラー状態)に陥って

一度の現実を歪ませず生きる方法

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過去、現在、未来は延長線上、超社会化   歴史に「もしも」はないように、 人生はその場限りの結果をどうとらえるかが重要 です。言い換えると 一度きりしかないと考えられる社会で、どうするか、や、どうなるか、が重要 となる気がします。  一般的に現在は過去から成り立っていてまた現在は未来にもつながっていると考えられています。この「現在」が「見えない未来」へつながっている、影響していることを「超社会化」といいます。この「超社会化状態」では特に未来において何が正常で何が異常か、予想はつきません。  しかし超社会化状態では正常異常がわからないながらも今するべき行動によって未来が変わります。ですから 行動を起こすことで失敗しても改善したり、あるいは今なされることをすることが超社会化への「鍵」になる と考えています。そのため、 ものごとを「どうするか」といった解決思考の考え方が重要 です。  例えば現在の社会でも過去の核家族化やインターネットの普及から「個室化」や「情報化」が起こり、それによって人と人との直接対決が避けられていると思われます。それを「個人の自由を得ることができる」、あるいは「多くの情報から自分の生き方を選択できる」、と考えかえることで直接自分から関わって楽しむこととが可能です。 歪まない情報を仕入れる、場は関係なし  そうした ものごとを「 どうするか」といった解決思考の考え方を取り入れるには知識を取り入れることが必要です。一般的にそのような場は「学校」がいえますが、学校でなく地域や職場でも同様の機能を果たせられます 。  その際、歪んだ教育内容を受け継がないため 、本質を見極める目が必要 になる気がします。本質を見極める目が曇り、歪んだ教育内容が間違って受け継がれると、たとえば社蓄文化や、学生の生徒的なまじめさなど内容が間違って伝わるだけでなく、場合によっては歪んだ教育内容を維持することに執着してしまうことがあります。  すると現実と理想との間の境界がなくなり、理想が現実を凌駕してしまうこともありえます。場合によっては「しなければけない」といった神経症的な考えの発生することがあるかもしれません。  たとえば警察官や教員などが教育時に使う言葉も、先の目的を見据えた言葉ではなく、目先の法律やルールで押し付けることがま

限界と可能性を積み重ねて成長する。

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 人間誰しも楽しく生きたいものです。そのためには苦しみながら成長をする必要があります。一方苦しみを避け、ラクを優先した場合にはその場の限りなく短い瞬間は楽しいかもしれませんが、成長せず楽しくないですし、面白くないです。病気にもなることもあるかもしれません。だとしたならば問題です。改善する必要があります。そこでここでは 人が成長をする場合に必要なこと を書きました。   可能性と限界  人間は常に 複数の視点を持ち、それぞれを認識しながら行動している ことがあります。例えば能力、体力、人間関係力などがあり、どれが欠けても問題です。  どれか欠けるのは問題ではありますが、かといって上記に示したそれらを維持するため執着しすぎるのもいけません。執着しすぎると①考え方であったら精神疾患となってしまったり②例えば仕事において不要な主従関係を持ったりしてしまいます。   限界を超える  そこで仮に今執着することなくこれら能力、体力、人間関係力のうち、ひとつを高めて行動しようと考える場合には 限界と可能性を行ったり来たりする必要があり ます。  この 行ったり来たりする状態は常に流動的な可能性を含んだ状態 です。未来が誰にも予測することができないように、あらかじめ結果は固定化できません。もちろんある程度の予測はつくことはあるでしょうが、それでも絶対とはいえません。  そして 続けることで限界を感じられます。 その際、限界に感じた時点で次の一歩を踏み出せない、あるいは別の視点を持つことが出来ないと成長することは出来ません。限界は通路で言うところの袋小路で、その先を進むには戻って脇道を見つけるか、壁でしたら無理やり登る必要があります。  ですからその限界からの一歩を踏み出すため、①あらかじめ行動が苦にならないことや②好きなことをすることが良いのかもしれません。 好きなことや行動が苦にならないことであるならば、たとえ限界があり結果が悪かったとしても続けることが出来ます。また場合によっては別の視点を持てそれにより視野が広がり別の能力のアップ する可能性があります。   具体例とまとめ  例えばこのブログの読書も他者の考えを理解する意味で、カウンセリングと似た部分があります。  そして読書を続けることでさまざまな考え方のあることを知り、身

福祉の組織や従事者に対し、良くなる方法があります。

 最近、福祉は必要ないのではないかといったことを考えます。精神保健福祉士の私がこのようなことを考えることや思う事自体が問題なのかもしれませんが、もしかすると福祉に注力するよりは、寄付文化を啓蒙することであったりあるいは富んだものから貧しいものへの循環を手段で解決するといったことを強化したほうがいいのではないか、と思っています。なぜなら福祉をすることで相手の生きることを阻害している部分があると思うからです。そこでここではそういった①福祉への疑問二点と②本来求められる福祉について③福祉従事者と組織の改善方法をそれぞれ書きたいと思います。 ①福祉業界の専門性がない。  まず福祉が必要ではないと考える理由の一つとして 福祉という言葉から思い浮かぶ「専門性」が明確で無いということがあり ます。  もちろん福祉を長年されてきた方は居ますが、そうした方は多くの場合あくまで書類作成や予算取りがうまいのであってあくまで社会福祉のプロでないと思えるのです。  そもそも福祉の仕事に向く人とはどんな方なのでしょうか。私は、「どこか遠慮がちで、相手からの奴隷を扱うかのような態度や言葉に文句を言わず、一方で他人の生活を引き受ける事自体が恐れ多い」そのような方が望まれていると思っています。  もちろんそういう人ばかりというわけではないですが、どちらかというと何か 積極性にかけるというか、ガッツがないような方が重宝がられているよう な気がしていて、専門性というものが明確に示されるわけではなく自分が生活するためだけに 福祉という仮面を被って、利用者さんの生活を搾取しているように思えます 。 ②具体的方法も問題な場合がある。  次に職員の対応も、具体的には指導という名を持って 「相手に物事を強制させることを良し」としている文化がある、 そういったことが福祉不要を考えるきっかけにあります。  通常福祉の実践にあたっては「障害者の人にサービスを強制しないようにしよう」などと教えられることがありますが、そのようなことを教えられる、と言うことは、逆に言うと実際の現場では「強制がある」ということともいえます。実際にそうした強制が社会問題として メディアで取り上げられたりする ようです。  するとこのような状態では 相手の望んでいることより先取りすることや、相手の望んで

多くの選択肢を持つことと自己洞察でうつ改善

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 私はPSWなので精神疾患を学ぶことはあるのですが、学んでいる過程で精神疾患の原因は①生物学的な要因だけではなく、②社会的な要因でもあるという情報を得ることがあります。それはそれでもちろんそういう部分もあると思いますが精神疾患の中でも特にうつ病において、ひょっとするとこれは強迫症状・強迫行動や不安から引き起こされるいわば二次的な生成物である可能性もあるのではないかと考えています。そこでうつ病が強迫行動や不安から派生したものだとした場合、どのような行動をとると改善することが出来るのか考えることは重要です。そこでここではうつの発生する理由と、うつが強迫行動や不安から発生したと仮定した場合における対処方法を考えました。 新型うつ病と支える人  新型うつ病 というものが最近注目されているようです。これは詐病であるかのような病気であります。しかしこれがたとえ病気であってもそうでなかったとしてもそうした 「うつ病である」と思ったりいうこと自体が病気 だと思っています。通常のうつ病では薬を使うことはありますが、これは薬品を使うと場合によって悪化してしまう場合もあるそうです。  こうしたことが引き起こる原因は性格と病質をはっきり分けられないことによるものだと思います。  人間の性格と病質を分けることは困難であり、本来ならば何ともしえないことを他人があえて病気と断定することですべては解決できると思っている部分があります。すると 思い込みで行動し続けていることから、問題を認識して改めて問題が発生している 気がします。  そうした思い込みから執着した行動をすることは、通常のうつ病の方にも同じようなところがあると思います。通常のうつ病はご存じのようにシナプスの減少から引き起こされる病気と言われ、それを改善するため薬物投与で対処されることは周知のとおりですが、昔の価値観が現実に成り立たないことからストレスが発生し、行き場をなくなっていることが原因の可能性はあります。  だとすると、こうしたことへの対処としては現実と理想ととの差異を経験して、現実にあわせる考え方が必要なのかもしれません。  あるいは安直な解決方法として、アルコールを摂取することで理想と現実との差異を忘れる方法もありますがこれは神経症における甘やかしに似たものでよくない気がします。  なお、

就職活動や転職活動ではじめにすること

 はじめての就職活動や転職活動をする場合何から手をつけていいのかわからないといったことがあります。するともやもやした状態となり不快感を感じることもあると思います。だとするならば問題です。こうした問題への解決が求められます。そこでここでは就職活動や転職活動においてもやもや状態からのはじめの一歩を見出す方法を記しました。   就職活動で必要な考え  本年2015年の就職活動時期はこれまでとは違って遅く、人によっては9月から本格的にスタートさせる場合があります。そうした場合、周りに就職活動をしている方がいたり、あるいは身近な集団においてお聞きできる方が居たりするならばそうした方にどうしたらよいか聞かれるのも方法として良いです。  しかし他人に聞けない場合、あるいは転職活動をする場合などはひとりで行動しなくてはならないこともあります。  そのような場合、最初に何をどうしていいか悩まれることがあるでしょう。悩んでいて行動できないのはもっとも残念なことです。  そこでここでは就職活動、転職活動も含めてヒントとして最初にどうしたらよいかを書きたいと思います。  まず、就職活動をするということは 自分の生き方を決める ということと知る必要があります。つまり言いかえると 良い生き方を選択する ということです。  そのためには 相手に 自分がいかに魅力的な人材であるか、あるいはそのような人間であることをわかってもらい、相手に一緒に働きたいなと思ってもらう ことが求められます。  そこで良い生き方を選択するため、はじめに 【1】自分の中ですることと 【2】他人にすることと をわけ、情報をそれぞれ整理したうえで相手に納得してもらう説明をする 必要があります。 具体的な方法 次に 【1】自分の中ですることと 【2】他人にすることと はそれぞれ何でどうすればよいかを書きます。 【1】は自分の中ですることで自己分析です。 ①これまで生きてきた『たな卸し』をして出来事を表します。つまり 今まで生活してきた自分を知る ということです。そのためには  ・これまで何年間生きてきて考えてきたこと、してきたこと  ・ここ数年で考えてきたこと、してきたこと、  ・今月考えてきたこと、していること  ・今日考えてきたこと、していること

小さな気づきを見出す方法

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 例えば自分の就職先を選ぼう考えた場合業界や会社、職種など、多くの選択肢があります。こうした多くの選択肢がある現代において、誤った選択をすることで悪い結果や悪い生き方となってしまう場合があります。これはあまり良いとは思えないかもしれません。だとするならば問題です。そこでこうした悪い選択や悪い生き方をしないようにするにはどうしたら良いのでしょうか。ここでは選択をする場合に大事にしたほうが良いであろう自分の小さな気づきとその考え方、その考え方を得るための方法を書きました。 求められる柔軟な発想  「病は気から」という言葉があるように、普段と特別な場合における気分の違いから考え方を変えることで行動が変わり、結果として「良い生き方」を選択出来ることがあります。  一方、気分の違いがわからず気づきのない人生ですと成長することが出来ず、悪い生き方を選択してしまうことがあり、結果として悲しい生き方となってしまう場合があります。  そこでそうした悲しい生き方を選択しないようにするには「小さな違いの気づき」が求められると思われます。  加えて相手のために仕方がなく、というより自分から積極的に相手のために尽くす「他利的」な考えが必要です。 柔軟な発想に求められる小さな気づき  「他利」的な考え方は自分で変えることができると思います。  しかし「小さな違いの気づき」を見出すことはなかなか難しいと思われます。こうした「小さな違いの気づき」には人間にはどうしようもないこと、時間を含め化学の業界でいう 可塑性 のあること、元に戻らないこともあることを知ることが重要だからです。  たとえば人間の老化や酸化はどうしても変えられず現在の技術ではコールドスリープを除き、防げません。  そこで可塑性のありうることを認識した上で、何の変哲もない日常から積極的に自ら刺激を見出す必要があります。  そのきっかけには通過儀礼も中には含まれ、日常をどう意味のあることとして「使うか」が重要です。  なおそうした刺激を見出す場合、白黒はっきり極端に分ける考え方は危険です。なぜなら白黒はっきり考え方を分けてしまうとその間を考えることが難しくなるからです。すると本筋から派生した場合における成長の糧となる「遊び」も発見しにくくなります。  極端に分けて考える例として

発想法も守破離から

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 茶道や武道、芸術の世界では「守破離」といった方法を用いて先輩や先生の技術が伝承されます。これは発想する場合でも応用することが出来ます。具体的には情報を取り入れ、洗練することです。こうした行動で発想することが出来ますが、そのなかでもここでは発想の必要な理由と、発想をするための方法を記しました。   これから考えられる未来  江戸時代における日本の文化は保守的であり、自分の将来がわかりやすい、想像しやすい社会でした。そうした時代に比べ、明治期には外国文化が流入し、保守的な文化だけでは立ち行かなくなってしまいました。加えて1970年代からは高度経済成長がなされることで、ひとつの事柄でも複数の選択肢を持つことが考えられました。その結果現在では将来の想像することが容易ではない、すなわちわけのわからない状況になっています。  そうした将来が想像できにくい、わけのわからない状況であると、むしろそうだからこそ新たな発想が望まれ、出来るのだと思います。しかし逆にそうした発想を持つことに執着し過ぎてしまうと、新たな発想は育まれない危険性も考えられます。  そうした意味で発想は非常に「やわ」なものであり、また目に見えないものであことるから証明しにくいです。そしてそれは医学や工学、理学など必要とされる場面も多くなっているような気がします。    一方で近年の機械化技術の発展から目に見えないものも、どんどん見える化わかりやすい化する社会になりつつあります。今後ももっとわかりやすく、そして見えやすい社会になる可能性はありますが、ともすると人間らしさが失われる危険性を含むと私は危惧しています。   発想法を見出す方法  こうしたことを考えた上で人間性をなくすことなく新たな発想が求められています。その発想を作る方法は以下の二段階で考えられると思います。  ①つに取り入れることです。先入観や固定概念をなくし、情報を受け入れるようにしたり、あるいはものごとを逆の視点から受け止めることでさらには物事の「なぜ」を受け止めると考えを深めることがでます。  例えばこれまで定説とされてきた理論でも、本当にすべての場面でその理論が当てはまるのか、あるいはそうした理論の出来た背景はどのようなものなのか、といったことを考えることで、既にある理論を否定的な見方から自分なりのも