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3月, 2014の投稿を表示しています

儒教・官僚的考えから生まれるふわふわな考え。

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学校や大学の卒業も結果として与えているだけで、それ自体が目的ではない。 人間はどうしても楽に生きようとしてしまいます。結果として楽に生きることはかまわないと思いますが、楽になることを目的とすると、どこか地に足が付かず、ふわふわしてしまいます。  そのふわふわを望んでいるのならば良いのですが、望んでいない場合は問題です。特に日本という「国」やお客さんに喜んでもらうといった「会社組織」を考えた場合、ふわふわな状態では組織責任がどこにあるのかわからず困ってしまいます。そして責任が分からない状態が持続すると組織の目的も達成することができず最終的には組織を解散せざるを得なくります。  ですから組織を運営する方にとって、ふわふわしないように考えることは重要です。そのふわふわしない考え方とは、どのようなものなのでしょうか。ここではその考え方の一つを書きたいと思います。 突然訪れる組織の崩壊  組織を生き残るようにするには究極変わり続けなければなりません。いったん「ラク」を覚えてしまうと、ラクをしても回っているのだからいいじゃないか、わざわざ苦労をして変わる必要もない、と考えている方がおられるのが現状です。  そうした考え方が大多数を占めてくると変化を嫌い、何も生み出せなくなります。維持のためといった無駄で余計な経費がかかります。すると 生み出す(+)<経費(-) というパワーバランスになります。  経費増大がすぐに表面化することはありませんが、これまで生み出してきた貯蓄が経費で消費されるといといよいよ組織が崩壊します。  組織が崩壊した場合に「なぜなんだ」「どうしてなんだ」と言っても仕方がありません。そういった兆候があったのにもかかわらず放置していたこと。ラクを覚えた気の緩みが原因の一つであると思います。 儒教的考えと能力主義  この考えの原因は日本組織の場合、根底に「徳のない儒教の考え方」を持っていることがあります。秩序を重んじる官僚的機構で、維持を目的としているため冒険をしません。かくあるべしと言った理想を現実と誤解し、地位や権力、学歴といった過去の実績を基にしたものに群がります。  能力云々よりも お願いすることが大事、会議は内容よりも形だ。変わるよりも保身。などといったどうでもいいこを大事にする文化 です。  で

組織の上に立つ際トップとして必要なもの

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山々にも頂点はあるのです。  私たちは家族や会社、国など、何かしらの組織に属していています。そうした組織で生きる場合、実力が反映される場合や、先代が死去や異動など居なくなった場合に、自分が代わって組織を引っ張っていかねばならない場合があります。究極はなるようにしかならないのですが、そのようなことになった場合、いったいどのようなことを大事にすればよいのでしょうか。ここではその組織を引っ張っていくための必要な物や考えの一つを書きます。 守りの世の中と歴史  守りの世の中です。何かしらを悪と認定して相手をぼろくそに叩いたり根拠もないテキトーなことを言ったりしている人が居ます。悪態をつくだけなら誰でも出来ますし、思いついたテキトーなことを実行に移されたらどうなるのでしょうか。言われた方はたまったものではありません。これが組織の意思決定で行われる時には特に問題です。  それを防ぐためには ①組織の定期的なメンバー入れ替え②強烈な底突体験 をし、責任を持つしかないのかなと思います。それがなされることで現場に即した優先順位付けや、それに伴った具体的な行動が期待できると思います。  またそうした人類のたどってきた誰かの主観であらわしたものに歴史があります。兄の様子を見て弟が育つように、また繰り返される歴史の中で過去を知って手段を見出す、歴史から「どう活かすか」考える必要があるかもしれません。それ自体は意味がないですが、それを使って何かをするそう考えると歴史はPCで言うところのOSのようなところがあります。  これら・行動への責任を持つ意気込みと・歴史という他人の主観に加えてどのような道具をどう使うか、組織を動かすには必要なのだと思います。 どう使うか 武力と政治力に関して  そのためには何を目的としてどう使うか、細かいところだけでなく大きなところを見ます。それには武力と政治力があります。武力と政治力は本来同じものではありません。  武力、即ち力は歴史で言うと鎖国などの押し付けられた状況に対し、外国への羨望や政治への不満、災害への怒りを通して成長の機会と捕らえて動くことが第一に大事です。  政治力とは相手を説得させる力です。こちらが強気に出すぎても相手に要求は呑んでもらえませんし、かといっ

複眼的視点複眼的ものの見方を求める。

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とんぼも複眼視点  1980年代からインターネット(以下ネットと表記)が普及し、今では何でも「使ったもの勝ち」で便利な世の中になっています。また情報が得やすくなるだけでなく、発信もしやすくなっています。これは自然発生的に生じたものなのでしょうか。実はそうでなく、誰かが意図した広がりである場合があります。こうした「誰か」が「意図した」広がりがある、ということは広がりの中で何かしら問題が発生した場合はもちろん、広がりを利用して変化しよう、情報過多になりつつある時代を生きようと考えた場合に、意図を「気づく」必要があります。そうした「気づき」を得るためにはどうしたら良いのでしょうか。ここでは複眼的な視点に気づく見方・考え方のひとつを述べます。 二つの考え方  一般的な考え方には恐らく旧来までの日本的な考え方と、これからのアメリカ的な考え方があると考えています。以下にそれぞれ示します。  日本的な考え方とは省略文化を使用した一極集中型です。 中央集権型 と言いましょうか。例えば政策は国が主導し、それを信じてそれに皆が従います。自分で考えなくて良いためラクで安定と判断のスピードは速い一方、疑いがないことから騙されることにがあり、判断は面白くありません。  一方アメリカ的な考え方とは情報を全て明るみに出し、広げます。 地方分権型 と言いましょうか。例えばこちらの場合ならば政策は皆が自らの意見をぶつけ合い、議論をよしとします。当然決まった型などが無いため不安定で苦痛です。さらに判断のスピードが遅い場合もありますが、一方で各自が納得した形で決定に参加できることから判断は面白いです。   これらの違いは表裏一体 でどちらも正しく、間違っていることはありません。 一方でこれらは それまで常識を思われてきた見方をわずかにずらす ことで発見 することができます。なお、 成長を期待する場合には両方の考え方が必要です 。 これからの考えと問題点   見方をずらすとは具体的にどのようなことなのでしょうか。以下に具体例を示します。 図1.視点Aと視点Bとでの見え方の違い  見方をずらす方法とは実施主体な視点なだけでなく、他から見る視点、 冷めた視点や別の視点 を持つことがポイントです。 こうしたひとつだけではな

民間に求められるものは成長。成長には策作りと策越えを。

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策の先には何が見える    最近の日本人は、大きく官僚的な組織を好みます。官僚的な組織は変化を嫌い、組織を回すことを目的とした組織です。ですから基本的に組織を守ることには長けています。しかし決して攻めることは出来ません。攻める、これは即ち成長することと同義ですが、これが出来ぬ限りは組織が続きません。組織が続かないのは問題です。では反対に「組織を続ける」にはどのようにしたらよいのでしょうか。実際社会に存在する「続ける組織」の一例に「民間企業」があります。そこでここでは民間企業から学ぶことの出来る、組織継続に関して、活かすことのできる点を書きたいと思います。 大組織ほど官僚体質  今株価急上昇中の企業があります。こういった企業は今がピークなだけで、以後の成長は不明確です。大きな企業の場合は人員の保障をせざるを得ぬことから守りに入らざるを得ず「働かなくてはいけない」感が行動と同一に存在しています。またOBの力も強く、過去の栄光にすがりつつある場合もあります。  これらは官僚主義的です。規制でしか動くことが出来ません。石油や太陽電池、建築など官主導の経済政策のとられることはままありますが共通していまいち勢いがないような気がしています。行動を法律遵守の形で縛り、出来ない理由を探す意味で減点主義です。これは、回すことが目的になってしまっている部分があるのだと思います。  これが行過ぎると王道が第一主義で、成長しなくても良い、と考えがちです。最終的には組織として本質的な力を得ることが出来ない危険性があります。   成長を期待する民間体質  これに対して、「変わること」や「成長すること」が続けるのには必要です。 それを取り入れている組織に民間、とりわけ中小企業の経営があります。・ 柔軟な策を作ったり、あるいは・策を越えたりすることを通して成長サイクルを回し ています(下図)。決断を一瞬で、いかに早く動くか、暫定案を作るかが勝負となります。 図1.策の利用方法による成長  ところでどうも日本人の器質としては、年金や家、電気自動車など、投資した資金を長期的に回収するものに騙されてしまう、弱いところがあります。心のどこかで「明日も今日と同じようになる」と考えてい

全体を見据えて都合のいい点を見つける

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かつての私もそうでしたが、多くの若者が大企業の会社員や公務員になりたいようです。これは国や大企業といったある程度資産のある組織にいればつぶれまい、そして会社員という駒になって手っ取り早く「金が欲しい」考えが根底にあるように思います。この考えの裏には選択したくない、選択意欲の減退があるのかもしれません。  こうした考えを作るのには周りの影響も大きいです。親を代表とした大人が、何らかの思惑を持ち、その思惑を隠して子どもに接する場合があります。また「子を一人前にする」よりも、「子に支援すること」に満足する方も居ます。  このような一部の考えに支配され、時間の経過とともにそれが多くを占めるようになると自分の考えがわからず、精神疾患の問題になることがあります。これは問題です。そこでここではその問題の原因と、今後どのような考えで行動していったらよいかを考え、その対策のひとつを記したいと思います。 良くも悪くも情報化社会  かつては、統計学なり何なりのデータを「誰か」が意図的に利用し、普及させ、周りがそれを信用し、周りは「意図された情報を考えずに乗る」ことで安心していました。  しかし昨今情報技術の発展によって、その意図や「誤り・真実性」を容易に入手できるようになっています。すると社会に本来安心・安定が無いことがわかり、より安定を求める傾向にあります。  一方で一つの問題に対して複数の視点を持つことが容易となり、何事も役立たせることが可能だ、という点でいい面でもあります。  勿論強制することは出来ませんが、次の行動へ結びつく有益な視点を容易に持つことが可能です。  例えば社会で良しとされる姿はネアカだと信じられてきました。実はそのようなことはなく、社会には①ネアカ的な面と、②ネクラ的な面とがありそれらがバランスを保って存在しています。  「あの人はネアカだ」と他人がいうことはあっても、そうなりなさい、それが正しいという考え方は間違いになってきているようです。なぜならネクラ的な考え方でもリスクを考える上では重要な役割を果たすからです。 社会的に弱い立場も見方を変える  どうしても人間は放っておくと暗いほう暗いほう(即ち死)へと考えてしまいます。うつ病の場合などが例として挙げられます。  無職やフリーターという言葉をとると悪い意

結果平等から機会平等へ

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 日本では農耕民族の影響もあってか、天皇や幕府などの上や天から権威や食料などの恵みを与えてもらう、等しく分け与えてもらう、といった「結果平等主義」の文化が根付いていて、誰もが信じています。ですからそれが大学や会社への考えでも生き、「結果平等が良し」とされています。  しかし実際は、機会は平等でも結果が平等なことはありません。ですが根強い文化のためか知らず知らずのうちに結果平等を機会平等と勘違いしてしまうようです。  この「機会平等」は「結果平等」と違って視点を「した、させてもらった」と言った過去への考え方ではなく、「どうするか」と言った未来への考え方にかえることだと思っています。  この結果と機会との考えの違いも実害がない場合は放っておいても良いです。しかし問題が起きた場合は根本的に考え直すことが望まれます。そのためにはどうしたらよいのでしょうか。ここではたとえの場のひとつとして「大学」を例にとり、①周りが変わったほうが良いであろう方針と②自分自身の変わったほうが良いであろう方針を書きます。 一般的よさと自分にとってのよさの違い  一般的に偏差値の高い大学に入ることで自分の偏差値や出来が優れていると勘違いしている方がいます。大学の偏差値は”結果として”高いだけです。ですから偏差値の高い大学に入ったからといって、自分の偏差値が高く、優れているわけではありません。人間は常に変化します。試験当事はそら一時賢い部分もあったのかもしれませんが、それからの能力を担保し続けられる保障はありません。  大学の入学目的でもそうです。本来大学では「何を学ぶか」考え、また「研究する場」です。同じ志のもの同士が協力して研究を成し遂げることを学びます。しかし最近では大学教育を中等教育などの学校と勘違いしている方がいます。そのような考え方をされている方はなぜか、本来スタートな地点をゴールとしているのです。これでは目的を手段と取り違えていて、恐らく入学したとたん思考停止してしまいます。すると大学に入学してから新たな目的を探し、卒業までの間は、「遊ぶ場」「友達を作る場」などの薄っぺらい目的を作ります。  国の方針では、大学へ運営金を補助し、ある程度の学力向上を期待しています。そうした意味では、どのような目的の方が大学に行っても良いは思いますが、入学後は目的の違い

変化を生きるために必要なのは学校よりも会社かも。

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 人間は一筋縄では上手くいきません。イノベーションをもって変わり続けることが望まれます。そのため、意外性を常に持つことは重要です。意外性とはリスクとも、エラーとも、想像性、遊びとも言われます。これがあって能力と給料のような現実と理想の差があらわれるのです。その差を埋めるための機関として学校という組織があります。しかし学校は現実とは分けられ、現実とは離れます。そこで現実を教えるという場面に立ったときには「会社の教育」が今後より大きな影響を持つと思います。そこでここでは企業と学校との教育方法の違いについて記します。 現実との差を埋める場所  理想と現実との差を埋めるためには効果の測定しやすい即興性の場、アドリブの場が必要です。教え教えられるといった、エンカウンターから本気で付き合える人材育成をします。この人材育成は見えるものではありません。それゆえ今後の技術革新で目に見える形に出来るかもしれません。  この差は企業と学校との間にもあります。私は現実世界を生きるためには企業の教育が重要だと思います。しかし一方で学校の教育が良いと考えられる人も居るのでしょう、それぞれの違いを以下に記します。 企業と学校の違い  企業は知恵が大事にされ、現実に即した開いた社会です。資本主義社会では必要です。社会貢献がいわゆる利益となっています。職種や業務内容によって重なり合いがあります。  学校は知識が大事にされ、現実とは乖離した閉じた社会です。資本主義では必要ではないかもしれません。官僚主義で、権威が至高です。学問間ではつながりがなく、項目ごとに分断されています。 これらが乖離すると問題が起こる  この差が機能不全を起こしたものとして近年のちょっとした問題があります。たとえばグローバル社会で、日本の常識を世界に適応しようとすること。出過ぎることを悪いと思い、気持ちでも何でもさらけ出さないこと。事実に基づかない経験や人を信用しすぎ、考えないこと。がそうです。  現実な社会との歪みをとるためには現実に即した形の対処、すなわち会社における教育を今後はもっと重要視する必要がある、私はそう思っています。ただ、細かい対処の話は各企業で異なると思います。 それを以下を読んで考えました。 酒井穣 「日本で最も人材を育成する会社」のテキスト 光文社 

good lifeを得る。

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 物事には理由があります。そして①過去から現在、未来へという流れをたどります。②事実と思いとがあります。これらをうまく使えないと、不幸になります。幸福に生きる場合それでは問題です。では、問題を解決するためにはどのような対処法や考え方があるのでしょうか。ここではそのひとつ、私の考え方を書きたいと思います。 接する対象  受験勉強のような、限られたときの合格といった小さな結果や考え方でなく、学問を究めるといった長期的な、終わりのない視点を持って臨んでもらいたいです。  また、思いにとらわれすぎてしまうと思い込みや過信となり結果的に修羅場や死などの「地獄」を見て学ばざるを得なくなると思います。  そこで会社でしたら新人さんをおもてなしの心で迎えたり年下の先輩でも認めたりすることが必要と思います。  そうするには相手と自分との距離があることを認識して、ある程度で線引きをする必要があります。親しいヒトとより深く接し、無理に誘ったり誘われない関係を作ることで関係維持を期待できるかもしれません。  ただその際信頼を得る場合には、あいまいさを排し誠実でないとなりません。そして何からでも学びを感じ取ることが大事だと思います。すると、反抗には理詰めであり、かつ単語だけで発さないようになります。  そしてクレームからの開発やフィードバックをする視点を持つことが出来ます。 接する感情と行動について  接する行動には感情がもとにあり、だめでもともとな気持ちを持つとで吹っ切ることができます。そして変わる意識をもつことで、組織を使って楽しく(≠楽に)生きられます。  日本人の多くはさも知っている:甘えの気持ちを相手に押し付けることがあります。すると責任を放棄し、うじうじ考えてしまうことがあります。そうしたとき、自分が失敗し迷惑を相手にかけた場合、謝りますが言葉として謝っていたとしても気持ちが謝っていないことがあります。  その原因は、①謝る気がない②知らないであると思います。②なら教えればよいです。①は実際地獄や不幸を味わってもらわざるを得ず、厄介です。 悪感情から発せられる悪口とおせっかい  得る感情は良感情と悪感情とがあります。これらを使う場合、味わうことはもちろん、言うことと言わないこととが良くも悪くも大きな影響を持って

組織や小集団による問題解決

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お猿さんも何か目的があって群れになっている可能性は高い  多くの現代人は組織内の人間関係で気付くことが少なく、待ちの姿勢を第一にしたり、規律以上に伸びることことに恐れたり同じだけどちょっとだ優れていたいといった夢を持ち生活しています。これは物と心との需要と供給の曲線が上手く機能していないためと思われます(下図)。 図1.物と心の割合グラフ  あまりに物を得ることに偏りすぎてしまっているため、心が満たされていません。これが行きすぎると社会問題となったり心のに障害を抱えたりし、問題です。そこでここでは問題の解決として、心の充足を図るための小組織エンカウンターグループについて、どのようなものでどういかせるか説明したいと思います。 社会問題は己の中にある  心や社会の問題の多くは、己の中に原因のあることがあります。相手は自分の鏡であることを認識し、積極性を持ち相手と関わることが望ましいです。「いま、ここ」の状態を認識して他者の中にある己を見、肌で感じ、言葉を発します。 組織で解決する  その相手の中で己を感じるための具体的な方法として、エンカウンターという小さな集団を作ることがあります。ひとつの目標を元に15人以内くらいの小さな集団を作ります。集団では怒りを媒介にし、裸の付き合い・本音の付き合いをします。  付き合いは相手と同一化しないよう、「結果であることを」知ります。例の一つは合宿免許をとる場合の合宿所があります。同じ免許取得という目標に沿ってともに歩む仲間です。 小集団における細かいやり取りとは  こうした小集団の中では言葉を使い、意味と事象とを認識します。2日や1週間という決められた短い期間で、他者関係を通してぐちゃぐちゃな仲間関係から序列のある関係へ変えます。場や状況を使う、お互いがまねび、学ぶ、損得勘定のない環境を作ります。  なお私は、エンカウンターグループというものは少し力が強すぎて無理やりに人を動かしてしまう部分があると疑問に思い、積極的に使おうとは思いません。  ただ「働きかけをする」ことには絶大なパワーを有するので使い方しだいなのだろうなとは思います。 それを以下を読んで考えました。 都留春夫 「出会い」の心理学 講談社

ほどほどに自分を見生きることのススメ

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 「自分の理想と社会における現実との差」に対して不満を持つことで、精神疾患になってしまうことがあります。こうした病になってしまうことは社会を生きるわれわれにとって問題です。そこで問題への対策・予防するには、どのような気持ち・考えをもてば良いでしょうか。ここではその持ったほうがよいでろう考えの一つを示したいと思います。 社会問題の発端  動物は満たされるとそれ以上を求めません。成長できません。しかしその中でも人間は満たされると、満たされていることが当たり前、前提と考え、逆に満たされないことに不安や不満を持ちます。  すると心がすさみます。最終的には不安を抱いたり不満から精神疾患になったりします。そう考えると戦後、物理的に満たされた社会は成長を阻害する原因の一つとも考えられます。  しかし現在のように物理的に満たされつつある日本でも、擬似的に満たされない状況を自分の中に設けることで、自立・成長できます。 ルールの限りを決める  そこで満たされない状況を擬似的に設けるには、はじめに問題に対する限界を決める必要があると思います。時間で決めてもいいですし、規模で決めてもいいと思います。この限界を決めないと、矛先をどこまでも広げてよいかわからず、混乱します。  また満たされない状況を自分で決める必要があります。「組織や世間」の常識に状況を合わせると、「組織や世間における常識の状況」は実体がなく、その基準線は時代や環境によって変わり、自分ではコントロールできない場合が多いです。 生物の成長方法  限界を決める場合には、10割全てをとろうとしてはなりません。パレートの法則にあるように、通常、 成長は10中2の余裕やリスクがあってはじめて成り立ち ます。余裕やリスクはヒト、考え方、時代、環境により変化します。  そして、成長は感情をもとに言葉で表し行動することです。・・・行動⇔情動⇔感動⇔行動⇔情動・・・といったサイクルで成長します(下図)。 図1.行動、情動、感動サイクル 完璧とはなりえずほどほどがよい  限界を作る場合、人間はどうしても完璧性や完全性を求めてしまいます。医学でも理学でもそうです。無生物による最適解を求めますが、社会に生きる生物へは適応し切れません。  

学校、会社、楽団など組織の成長方法

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 最近では巨大な組織としてギリシャ政府が破綻(2012)しました。少し前の日本では、バブル崩壊によって山一證券や北海道拓殖銀行などの大企業がなくなり(1996、1997)ました。これら巨大組織の衰退や崩壊が起こる原因の一つは、組織が変化に対応できていないことがあるようです。この変化に対応できず崩壊してしまう組織は「何かを生み出す」組織において「回し続けられない」意味では問題です。ですからそうした問題を防ぐためには、どのような手立てを講ずればよいのでしょうか。ここでは組織の状態を二つにわけ、それぞれを記し、また組織を回し続ける方法について良策の一例を述べたいと思います。 組織のあり方とは  組織のあり方の前提として、①変化や成長を善とするならば、安定や維持は悪である。②安定や維持を善とするならば、変化や成長は悪である。ことがそれぞれ言えます。  最初は何もない状況から考え、組織が誕生し、①の変化の状態になります。次に時間が経つにつれ②の安定した状態になります(下図丸印まで)。そして②の安定した状態のとき(下図丸印)に組織が考え、①の状態に戻ることができるのならば、ある程度の安定の後に組織は成長を遂げ回り続けます(下図破線a)。一方、組織が考えず、頑なに②の安定した状態を維持しようするならば、ある程度の安定の後に組織は衰退し、最終的には崩壊します(下図破線b)。 図1.時間と組織規模(状態1では変化を、状態2では安定を善とした。) 変化成長VS安定維持とは何か  組織を運営し成長させていくには、理想をいえば変化・成長と安定・維持は循環し、バランスをとるのが望ましいです。  ただ、変化や成長には常に大きなパワーが必要となります。問題が発生した場合、なぜ?や謎?はある程度解決できるかもしれませんがそのための勉強や知識を集積せねばなりません。変化や成長することにより、外向きの力となります。  すると誰かが組織から離れ、あるいは対立する必要のある場合もあります。加算主義や実力交渉の優位化、規則やルールからは比較的寛容です。アクションを起こし成功すれば大きく羽ばたけますが、失敗すれば終わりとなります。  一方、安定や維持はそれ自体にパワーを必要としません。問題が

組織の関係

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 たいてい会社などの組織には終わりの無い目的が設定されています。その終わりの無い目的を目指し続けるためには、いかに組織を良循環で回すかが重要です。そのため目的は目標から課題へと落とし込み、個々人が小さな問題の解決を日々します。その課題を解決する組織には人は勿論、人から生まれる仕事との相互関係があります。これらを認識し、良い関係を導き出すことが組織を回す一歩となります。そこでここでは組織内のヒトと仕事との関係をどうするのが良いかを書きます。 ひとは  組織を構成するヒトが関係を作る場合、目に見えぬ心と言葉を用います。関係は絶対的なものではなく、縛り、守り続けられるものではありません。そしてその関係には自分と他人との見方が必要です。 自分は 自由に、商売ならば相手を素直に見、聴いて共感します。 意図的に聴く姿勢を持つと冗長率が下がり、相手は不自然さを感じます。 他人は 管理と銘打った監視を避けることが必要です。 下手に熱い思いを出されると、言われたほうは醒めてします。  組織と個人の齟齬を防ぐために通常採用試験を行ったりしますがたった数回の面接で心から能力まで見極めることは難しいです。ですから究極アメリカでの採用試験のように、ある程度無報酬で何かさせてみて慣らし、あるいは興味が持てそうなら本採用という形をとるほうがいいかもしれません。 仕事は  手段と目的とがあり、どこに数値を置くかで行動が変わってしまいす。  例えば会社でしたら改善提案をした結果が大事です。なのにも関わらずその数を出すことに躍起となるならば本来の目的と異なります。またそうした改善の数を競おうとする場合、究極何でも通ってしまいます。なぜなら仕事そのものが日々の改善活動だから。  得てして仕事の関係が上手く機能しなくなると不健康・赤字経営となります。そうした場合、あるいは近い将来そのようなことになることが考えられる場合、①資本を縮小するか、②自社の売上を広げるかの手段をとります。  ①は一般的に赤字は悪い考えとして諦め、解散することを考えます。地獄を見て、一から這い上がろうとすることが考えられます。  ②は一般的に良い考えとしてコンサルタントに指示されたりうるさい、細かい、しつこい人を身近に置くこと