投稿

10月, 2018の投稿を表示しています

皆したい仕事をしたら良いかも

 嫌な仕事を丸抱えして苦しんでいる方が居る一方、楽しい仕事しかせずにそれなりに楽しく生きている人も居ます。そうした前者のような人が後者のような人に変わるには何をどうしたらよいのでしょうか、ここでは仕事の仕方についてどうすれば嫌な仕事をせずにすむかといった小手先の方法を書きたいと思います。しかし結局は自分の心持次第な部分もありますから、小手先の方法だけでなく自分自身の心に問い直す必要があるような気がします。 「仕事は完結させる」幻想?  仕事を丸抱えで苦しんでしまう人の中にはどこか「仕事を完成させなければならない」といった執着があるのかもしれません。もしくは「相手をがっかりさせてはならない」といった思い込みも影響しているのかもしれないと考えます。  確かに与えられた仕事はする以上完成するのが望ましいです。ですが得意でなく低いクオリティで仕事をこなしたとしても相手はあまり嬉しくないです。そして完成させてしまった場合には次回以降同じ仕事が来る可能性があります。嫌な仕事が何回も舞い込む場合、確かに慣れ的な部分である程度は最初よりは仕事が早くクオリティが高くなる可能性はありますが、あまり楽しいとはいえないでしょうし、そもそもそれを好きでしている人に対しては着眼点も異なり全く適わないことが考えられます。  というよりそもそも「嫌な仕事なら完成させる必要も無い」のかもしれないです。与えてくれた人も結果として仕事が完成できなかったりクオリティが低いようならば以後その仕事を積極的に与えてこなくなることも考えられます。その場合、何もせずに拒否するだけなら「してから言え」という話になりますが、実際にやれるだけはやったけれどもこの程度しか出来なかったということならば他人はどうしようもない部分があるのではないかと考えます。 一方興味深い=好きを追求する利点  好きな仕事あるいは興味深い仕事をしていたらその周辺の部分についても知りたくなると思うのは自然ですし、仕事自体の専門性的な部分も繰り返すことで目が肥えだんだんと深く大きなものになっていく気がします。  選択を迫られた場面では嫌だと思っていたり拒否されたりして遠ざかっていたとしても、後々自分の専門性が磨かれることとなってだんだんと広く目が見えるようになるにつれ、好きだったり興味深かったりなることは考えられます。

多くの学生は市場にならない一考察

 知り合いでかつて自分が学生だったことから学生を支援したいと思う人がいます。しかしそれはどうなのでしょうか、ひょっとしたら学生や幼児向け対象の市場はないのではないか、あるいはあっても市場は拡大していかないのではないかと考えます。そうした学生向けの支援をすることについて、例えば学生支援向けの団体を個人で作ろうとしている方に対して、ちょっとやそっとの生半可な気持ちでサービスは出来ないのではないかなといったことをここでは書こうと思います。 市場の原理とお金  一般的な市場は社会に望まれているものを、資源のあるものAが加工して望む人Bにあげて、そのお返しとしてBが次回加工に対する応援をAに送って成り立っています。  当然そのAB両者間では「信用」があってのもので、基本的に加工品をもらったお客さんであるBは応援としてAに「お金」といった形を渡します。お金は加工したもの自体を得るためには必要ですがそれだけでなく、労働力や人を動かすためのものなど、パワーがあるものです。  一般的にお金の価値は国が認定しています。ですから国としての信用が無くなったりするとお金の価値が紙くずになったり超高級なものとなったりします。われわれの使っている身近な 日本「円」は世界的に見てもかなり「信用の高い」もの といわれてます。   国家間はもちろんですがそれだけでなく他の人との取引でもこの「信用」が大事なことは言えます。信用が低くなったら単位あたりの価値が下がり同じような労働をしても必要なお金の量が増えます。例えば今まで1000円で一時間労働していても、その信用価値が下がると同じ労働をしていても2000円も3000円も必要になります。 そうした意味でお金を約束を反故された場合に対しての担保として使うことが可能です。 学生が無責任となりうる理由  一方市場外には上記の一般的な性質を知る社会人だけでなく幼児や小中高校生、大学生などが居ます。彼ら生徒さんや学生さんの多くは基本的に親の管轄下で社会に出ている身分です。運転免許ならいわば仮免状態で社会に出ているといって間違いないでしょう。その上で、彼ら学生さんは学生でない人と比べて何が違うか三つ考えてみました。  ①学生さんは基本的に「親がお金を払って学校に通わせてもらっている身分」です。所属組織に対して責任を負っていないこと

サービスの価値はお客さんが決める。

 テレビタレントや芸人など、大衆の目にさらされるようないわゆる「芸能人」という人々が居ます。人によっては非常に高い値段でオファーしないと仕事を引き受けてくれない場合もあるそうです。ですがそれら無形なもののサービスにかかる値段を決めるのは誰なのでしょうか。多くが主催者側事務所側ですが、よくよく考えてみると結局のところ一番大切なのはお客さんが決めるのだと思います。そうしたお客さんからの値段を決めてもらう姿勢は大事だといったことを書きます。   芸能人のファンミーティング  先日芸能人でありユーチューバーでもある方のミーティングに行ってみました。  イベント自体は課題はあるなあと感じたものの、それはともかくやっぱり芸能人は美人な傾向があると思います。私が見てそう思いました。  とした上で、その芸能人の方が何をしたいのかということは正直見えてこなかった部分があります。  主催者側がどんなに素晴らしい企画を作ったとしても、お客さんの変わりやすい心理にいつも対応することは出来ないのではないかと考えます。  それを考えるならいっそ 「お客さんが何を望んでいるのか」を十分吟味した後に、それに合わせて企画の内容を変えてゆく のが大事なのかもしれないなと感じました。 宣伝サービスの内訳  今回出席した芸能人がしている「宣伝サービス」は他の会社、例えばメーカーなどと違ってはっきりといったサービスの影響力や効果が目に見えません。ですから勝手に、そして余計に値段がつりあがってしまうものなのだろうと思います。  そもそも何に一番お金がかかっているかを考えるに、多くは場所代や食費、間接経費などの固定費と、事務所サイドの人を雇うための変動費です。それらを宣伝されたことによって「期待できる経済効果」から引いた分が売り上げになります。となると同じ箱でし続けるならば経費はほぼ一定額になることが考えられるので、宣伝効果が高ければ高い分だけ売り上げは高くなることは考えられます。  また、芸能人の人も芸能人の人で、より多くの人と接する必要があるならば、事務所だけでなくお客さんからも多くの監視の目があるもとでそれらに対して「芸能人としての顔」をせねばならぬのだと思います。  つまり少なくともそのイベント中はどこからでも誰からでも注視されることから、休む暇がありません。とな

「情け」で売りつける営業はわけわからん

 メーカーでは世の中の不便をメーカーの財力を使って便利にする「製品」を「作り」、お客さんにあげることでお客さんの満足を満たすことを目的としています。しかしいつからか「営業というもの」が「主力中心」となり、「足で稼ぐもの」と解釈され、客にも「情の押し売り」のような形で製品を売りつける会社組織や営業マンが出てきているようです。これは私の中で問題だと思っていて、それを追求していくと最終的にはわけがわからななると思うのです。だとするとこれは問題だと思っています。そこで「情」に代わる「営業」をするにはどうしたらよいか、営業について必要なものを書きます。 世である多くの営業スタイル  かつて高度経済成長期においては「物を作れば売れた」ことから、とにかく足を使って歩いてお客さんに物を売ることが大事だと思っている会社組織や営業マンが居たことと思います。今でも現場の足からPCというバーチャル空間に変わっていても同じように出来るだけお客さんとの接点を持って粘り強く営業すれば売り上げが上がるはずだと思っている会社もあると思います(私もある時点まではそう思っていました)。  僕が高専や居るときには研究室配属されてから、あるいは会社に居るときにも近くの商社のお兄さんがルートセールスよろしく、営業マンが何の用もないのにしょっちゅう仕事場に来ていることがありました(大学の研究室では業者に電話して必要なときだけ来てもらっていたスタイルでした)。正直営業マンを見ていて「この人は何のために来ているんだろう」などと思い、正直邪魔だと思っていましたし、不快に思っていた部分のあることは確かです。 古い営業は「情」を持ち出す  上記のような邪魔でうっとおしい営業マンは正直私からすると「情」で営業する古臭い営業マンだと思います。バブルのころで言うならば営業先を確保するためだけに無駄に「接待」をすることを良しとする企業です。接待経費を使って相手との「情」を確立させることでコンペティションでも自分のところに積極的に売り上げを立ててもらえることを大事にしています。  例えば私が最初に配属された工場では機材を導入しようとするときにそうした営業マンと接する機会があるのですが、そうした場合においても先輩がそのような情にほだされることを良しとする人で、「接待を目的としたゴルフ」に参加していたり

相手との良い関係性維持のために奢る

 皆さんはどれだけ多くの方と本気の付き合いをしているでしょうか。一般的に本気の付き合いをしていくには、長く時間をかけて相手の性質を見出すことが重要と思われます。しかし、そうした相手の性質を見出すには時間をかけずともリスクを負うことで判別可能と思います。その負うリスクとは例えば金銭です。そこでここでは特に 金銭的リスクを負う ことによって相手と関係を良く出来る可能性のあることを書きます。 おごり  私は相手に興味がある場合、基本的にお金を払って相手に「奢っ」て話を聴きます。 ここでの「奢る」こととはすなわち「お金」を使って「相手の情報」を「貰うこと」で、言い換えると「投資」や「応援」と同じものです。  仕事はもちろん恋愛についてもそれが言えて、自分が積極的に「奢ることを言うこと」および実際に「奢る」ことで、相手と自分とが「合う」「合わない」といった判断を「自分が」出来ます。  もちろん「奢る」といったことをしなくても時間をかけてじっくりと相手と合う合わない判断がつけばいいのでしょうが、私の生きている時間は限られています。また判別したほうが良いだろうと思われた特定の出来事について、一度起こったことが再度同じような状況で再現されるとは限りません。ですから一回きりの状況で適切な判断をするため、損をしても良いほどの担保をかけます。私の場合その「担保」は「奢るお金」です。  そうした担保をかけるお金は小額で最大限の効果を得られることが望ましいです。ですので特に私の場合には最初に多くの方に奢ってからその中で今後奢り続けたい人を判断します。あまり付き合いたくないと思う方には一回きりの奢りで、今後ともずっと付き合っていきたいと思う方の場合には担保額をどんどんあげます。 奢ることを言うタイミング  そうした前提の上で私は「奢ること」を言うほうが良いと思っています。そしてそれは食事や会合などを誘った段階で言うのがスマートと判断します。  なぜなら私自身が奢られるのか奢られないのかわからない場合、食事をしながらでもその場の会計をどちらが出すかは不安になることがあるからです。どっちが持つかはっきりしないとご飯ものどを通りませんし緊張して楽しい話も出来ません。  また僕自身がそうですが「奢ってもらえる」といわれると嬉しくなります。私自身がそうした「奢ってもら