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11月, 2014の投稿を表示しています

バーンアウト(燃え尽き症候群)と無気力への対策。

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日本人には神経症かというくらい真面目な方が多いようです。特に仕事では真面目にすることが良いと考えられている方が居ます。一方で休むことには真面目さが発揮できない方もいます(私がそうでした)。こうした特定で極端な真面目さは続けてゆくとバーンアウト(燃え尽き症候群)あるいは現実へのギャップが重すぎて無気力となってしまう場合があります。こうしたバーンアウトや無気力になってしまうと、何もすることができなくなり問題です。そこでバーンアウト、無気力から脱する方法をここでは書きました。 バーンアウトになる人、自分の認識   看護や介護、接客業や指導者的な対人支援の仕事をしている方、あるいは最近では学生の方でも、本当は何も出来ないのに何でもできる、などと言った万能感を持つ方がいます。  こうした考え方が長期間続いてゆくと、いずれバーンアウトと言われる症状になってしまうことがあります。到着点がわからないから、到着点を見つけるために 心のエンジンを常にフルスロットルでふかしている 状態だからです。  自転車で言うと、チェーンがギアから外れているのに前(目標)に進もうと必死でペダルを漕いでいる状態です。これでは体力ばかり消耗し、それでも前に進めない徒労感からいずれ疲れ(無気力)になってしまいます。 常に全開フルスロットルだとすぐ燃料(体力)がなくなってしまいます。 バーンアウトの症状、他人からの見た目  バーンアウトしている人や無気力な人を周りが見ると、いずれも「やり過ぎ」、あるいは「やらなさ過ぎ」にうつります。バーンアウトしている方や無気力な人はそのようなことが無くても、です。自他でお互いの見方が異なることに起因します。  たいていの場合、バーンアウトをしている人が他人を間違って認識していたり 、あるいは 他人の表面的な部分だけをみて理解していたりするように見えます。あるいは 他人の本当の意図を理解することができていない、のかもしれません。  これは人との接し方を見ているとある程度認識できます。過剰に接したりあるいは放任してしまったりしていることがある方は間違った認識をしている場合が多いです。 直接的な原因  こうした考え方のずれた原因の一

捨て箇所を見誤ると組織は終わる。大学組織から。

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 世の中スペシャリストからジェネラリストになる人は多いですがジェネエラリストがスペシャリストになる人は少ないです。これは捨てることから拾うことは簡単ですが拾うことから捨てることは難しいからだと思っています。こうした「捨てる」選択ができないのは、捨てる箇所と捨てない箇所をよくわかっていないからかもしれません。  これは組織の中でもあります。一例としての大学がいえるでしょうか。大学は本来研究機関で、かつては少数のエリート養成機関でした。ですが最近ではその目的を廃して、大学側が、誰でも多くの学生を入れようと奔走しているケースを目にします。学部も目で見ればわかりやすいように徐々に細分化し、作られる一方でやめられることは少ないと思われます。目指すべきところはどこなのか、よくわかってない状態なところが多いです。これではいずれ高等教育機関、研究機関としての形がなくなり本来の役割は果たせません。これでは問題です。  そこでここでは大学を例に取り、大学だけでなく一般的な組織という部分においてうまくいく組織運営をするにはどうするか、何を捨てるかを重要視することについて考え、書きました。 高等教育機関は中等教育期間とは違う  最近、大学を中学や高校の延長線だと思っている教育関係者も少なからずいます。しかし中学や高校は中等教育機関で、大学や高専の高等教育機関とは異なります。  私が学生の頃には多かったように思いますが、一部の先生と呼ばれる方には「教えさえすれば良いだろ」と言った考えを持たれている方が居ました。  ですがこれでは研究を目的としてたりエリート養成を期待している学生さん(お客さん)にとっては目的が果たせず困ります。   ですから研究を主軸として 研究の技術をわかちあう役割として、先生方には尽力してほしい、 と思います。 質と量とは違うことを知ってほしい  そうした大学の組織の中で、組織維持する目的を持たれている方の中には「(収入を確保するために)とにかく客を集めればいいのだろ」そうすれば有名にもなるし、レベルも上がるだろうと思っている方がいます。しかしこれはまったくの誤解で、量と質とは本来相容れないものです。  プライドを捨てて お客さんの量を増やせば、短期的な収入は増えますし、確かに統計的な数値はより正確に出せるのかもしれませんがそう

専門家さんは考えの共有可能な仲間を見つけて安心する

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 多くの人は自分の考え方を後押ししてくれる人が居ないと、不安になります。その不安が増大してくると、行動が億劫になったり、行動しても無力感を感じたりします。これは問題です。そこでそういった問題にならないようにするにはどうしたらよいのでしょうか。ここでは特に高い利益を生み出すことができると考えられる、専門家さんにとって大切なこと、そしてまた日々の仕事からお金だけでなく、幸せに生きられる方法を私なりに考えてみました。それを以下に記します。 利益向上の視点  物事の見方には経営者的で鳥瞰的な視点と従業員的で微視的な視点しかないのだと思います。これらをうまく利用、使うことによって会社や組織、個人の売上を伸ばせられると思います。  単純に売上とは客単価×客数で考えられますが、その売り上げを伸ばすことを考える場合には単価を上げる方法でも、客数を増やす方法でもどちらを選択してもいいと思います。いずれにしてもお客さんの視点に立って熱くなりすぎず、サービスの付加価値を向上させることに秘密あると考えています。 高付加価値利益に恵まれる専門家の方々の気持ち  例えば私の場合でしたら、専門家さんに対してどう変われるか、満足した生活を得るためにはどうするか、助けを呼べる安心感をお客さんにもってもらうことでしょうか。  一般的に専門家さんの中で特にお医者さんや弁護士さんは昔から勉強ができ、それが故に目指された方も多いのだろうと考えます。俗に言うエリートと呼ばれる人たちがなられる職業と考えられ、お金を持っている存在ではあると思います。  しかし、お金を持っていることと、幸せかということとは少し違いがあるような気がしています。すなわちお医者さんや弁護士さんなどの職業に就いている人でも決して全員が全員幸せなわけではない、ということです。(幸せであると自己暗示している人も居ますよね。 )  また、上記のエリート、即ち専門家な方は専門家であるが故に、特異な考え方を有している場合があります。特異な考え方は基本的に小数になりがちです。  ですからそういった専門家さんの方のため特異な考え方を共有できる存在、 いわば考え方を分かち合ってくれる存在が必要なのではないかそれがかつて研究者という先端の立場にいた私にとって役立てることができるのではないかと

怒りの感情を生かす。

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 人間は私を含め、わがままな生き物です。自分で勝手に理想を定義し、知らず知らずのうちに怒っていることが有ります。こうした怒りは小さいものならほうっておけば良いのかもしれませんが大きくなると問題(例えば一家離散や戦争等)となります。そこで我々は問題となる前の怒りに対して、どのように生かし対処したらよいのでしょうか。ここではその方法を書きます。 人間も動物 感じることはある  動物は本来、生きていくため不幸な出来事を覚えていて、同じ間違いを繰り返さないようにしているのだと思います。人間にとっても同じで、どうしても出来事に対して悲観的に考え、悲観的な考えから怒りの感情を持つことは有ります。   ネガティブな感情は小さなものから拡大し、対象の決まったものから決まっていないものへ寂しさや不安はしまいには怒りやねたみになるのだと思います。  こうした一連の怒りは、事実が自分の思い通りにならないことに憤っている意味では「わがまま」と言い換えられるのかもしれません。 感情は認識される 利点もある  こういった怒りは怒りという言葉、概念であらわされていることから、感じたり認識することができるのだと思います。  また、怒りを少し深く考えると、事実と感情とに分けられます。すると事実と感情とがあることがわかるだけでも物事を幅広く見ることができ、怒りの前にあった本来の目的も再認識することできるかもしれません。  一方、概念がないものは認識することができません。例えば知らない外国語を聞いていると言葉としての認識はないため、通常は雑音として聞き流されることがあります。  ですからこれら2つの考え方を利用することで ①「怒り」を「怒り」として認識し、感情と事実とを分ける方法もひとつ②「怒り」がないと自分自身で認識する方法もひとつ といった対処方法があると考えています。 怒りを整理して望まれること    こうして拾うものを拾い、捨てるものを捨てる(拾わない)、と、認識したあとに最低限の事実を拾って生きるのが素晴らしいと思います。  これは怒っている 気持ちを捨て、事実を受け入れる ということです。怒っていると言った 「形」にこだわらず、ただただ「幸福に」 生きて欲しいのです。 なぜなら、「怒っ」ている「形」にこだわってしまうと「芯」がない

善悪を判断するには澄んだ心で。

真実というものは変わりませんが、事実は変わります。それは人によって判断や、善悪が異なるからです。こうした判断や善悪の考え方をないがしろにしてしまうと、いざ重要な決断を迫られたときに間違った選択やあやふやな選択をしてしまいます。これは問題です。そこで、適切な決断をするための判断や善悪能力を養うにはどうするか、その方法を以下に記したいと思います。 見方が変わる「正義」  真実という変わらぬものの他に、人によって見方の変わる事実があります。その事実の中の一つに善、正義というものがあり、これは人や組織によっても異なるものです。こうした善や正義の中で、特にみなの決めた善や正義というものが、本当の善や正義だと錯覚してしまう場合があります。 ドラマを通してみた例  例えば「踊る大走査線」というドラマにて、上層部が勝手に多くのことを決めてしまうような話が有ります。彼らは「組織を守るため」と称し、自らの保身も勿論在るでしょうが、彼らなりの「善や正義」に基づいて動いています。一方現場に要る警察官は目先の事件解決を「善や正義」としていて、結局上層部と現場とにおける「善や正義」の違いでぶつかりあうことになります。  どちらが正しい、どちらが間違っているという話はいえませんが、こうした善や正義は、何を目的とするかによって変わることが言えそうです。  つまり、場合によっては悪人から見たら悪こそ善ですし、悪から見たら、善が逆に悪に見えることも有るのです。 善悪や判断をするための目的があるか  こうした善悪や判断は目的がしっかりしていないと、行動は一貫性が無くなりぼやけてしまいます。一方で目的にしがみついてしまう、即ち目的を見つけ「なければならない」と目的を見つけることに執着してしまうと、それはそれで本来何をする必要があったか、と言った本質的な部分を「見誤る」可能性が十分にあるのだと思います。 判断を見誤らないために  ですから善悪を決めたり、判断するには、「これだ!」と言った一方的な視点だけでなく 、複数の視点で見る 意味で柔軟に見ること。一方で 今何をする必要があるのか 考え、冷静に、こだわり過ぎない。そうした 澄んだ心の状態こそ平安がある ような気がします。  また、既におきてしまった、間違った選択から発生した事象から再判断や真実を

見えないものを見て役割で見る

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 最近私は仕事の指導者的な立場に立たされることがあります。その際指導する相手にお話をお聴きすると、目的無く仕事をしている場合があります。そのような無目的で仕事をしたり、もしくはむやみに命令に従っていたりすると短絡的なものの考え方になりがちで、長い目で見た場合に良くならないことがあります。これが続いてしまうと問題です。そこで問題とならないようにするにはどうしたらよいのでしょうか。ここでは見えないものから見えるものへの変換の仕方、及びそれにかかる道作りの方法の一つを示したいと思います。 得が薄れてきている  最近、皆 「徳」の意識が薄れている ような気がします。以前は古きものが新しいものへ自らの道を譲ったものですが、今は、そのようなことはあまりありません。  例えば定年による仕事の引継ぎも、国から指定されない限り他の人に譲る意識が少ないです。勿論計画を立て実行することは素晴らしいと思います。ですが必ずしもそうなるとは限りません。  こうした外的力によってしなければならないといった考えはどこか短絡的なものの考えな気がしていて、最近時間が経過するごとにより短絡的になりつつある気がします。  それに対し、 かつての日本では「許す文化」がすすんで採用 されていました。長期的にものを見ていて「徳」もあったように思います。 失敗をしてもあくまで自らそこから学べばよいといった考えがあり、 不便ならば工夫し、目的を見据えることで、人間が人間らしく生きてきたように思います。そこでこれを 今一度取り入れてみてはどうか、というのが私の希望 です。 過去の日本、日本のあり方  こうした許される日本で生きる場合、我々日本人は仕事上で 「楽しさ」を基調に、「苦役でも耐えられる力」を持つ ことが非常に大事なのではないかと考えています。  また、役割を演じ、感情を捨てることも大事で、たとえ単調な仕事だとしても 「仕事人として」見方を持つ ことで仕事は何倍にも深みを増すことが可能です。  一例としてメーカーで働くとしたならば、メーカーというものづくりをする仕事人としてお客様を意識することで、どんな便利な製品が喜ばれるかと言った観点から、良い製品を作ることのできる可能性が有ります。 これから求められる考え方  そうしたことを踏まえ、現在どのような