福祉の組織や従事者に対し、良くなる方法があります。


 最近、福祉は必要ないのではないかといったことを考えます。精神保健福祉士の私がこのようなことを考えることや思う事自体が問題なのかもしれませんが、もしかすると福祉に注力するよりは、寄付文化を啓蒙することであったりあるいは富んだものから貧しいものへの循環を手段で解決するといったことを強化したほうがいいのではないか、と思っています。なぜなら福祉をすることで相手の生きることを阻害している部分があると思うからです。そこでここではそういった①福祉への疑問二点と②本来求められる福祉について③福祉従事者と組織の改善方法をそれぞれ書きたいと思います。


①福祉業界の専門性がない。


 まず福祉が必要ではないと考える理由の一つとして福祉という言葉から思い浮かぶ「専門性」が明確で無いということがあります。
 もちろん福祉を長年されてきた方は居ますが、そうした方は多くの場合あくまで書類作成や予算取りがうまいのであってあくまで社会福祉のプロでないと思えるのです。

 そもそも福祉の仕事に向く人とはどんな方なのでしょうか。私は、「どこか遠慮がちで、相手からの奴隷を扱うかのような態度や言葉に文句を言わず、一方で他人の生活を引き受ける事自体が恐れ多い」そのような方が望まれていると思っています。

 もちろんそういう人ばかりというわけではないですが、どちらかというと何か積極性にかけるというか、ガッツがないような方が重宝がられているような気がしていて、専門性というものが明確に示されるわけではなく自分が生活するためだけに福祉という仮面を被って、利用者さんの生活を搾取しているように思えます


②具体的方法も問題な場合がある。


 次に職員の対応も、具体的には指導という名を持って「相手に物事を強制させることを良し」としている文化がある、そういったことが福祉不要を考えるきっかけにあります。

 通常福祉の実践にあたっては「障害者の人にサービスを強制しないようにしよう」などと教えられることがありますが、そのようなことを教えられる、と言うことは、逆に言うと実際の現場では「強制がある」ということともいえます。実際にそうした強制が社会問題としてメディアで取り上げられたりするようです。

 するとこのような状態では相手の望んでいることより先取りすることや、相手の望んでいないサービスを与えることで本来人間が生きようとする気力さえ投げてしまう、もしくは生きる気力を削いでしまうのではないかと思います。


そもそも福祉とは何の場か


 これらの二点を考えると相手ためを思って、とか、相手の生活を。。。などなど相手に対しキレイ事を言うのもおそらく全部「嘘」なのではないかと思えます。

 これは日本は建前重視な社会によるものだと考えていて、嘘を言ってはじめて成り立つ部分があるからだと思うのですが、一方でこの建前を重視すぎることで本来必要なこと、すなわち本質が見えなくなるような気がします。

 そもそも福祉の持つべきところは「相手にサービスを提供すること」ではなく、「相手に生きる気力を持ってもらう」ことです。つまり福祉とはいうなれば釣り堀で魚をほしがっている人に「魚を与えてあげる場」なのではなく、「魚の釣り方を教える場」だと思うのです。

 そうした意味では決まりきったことをするだけでなくあれはどうだろうか、これはどうだろうかとその状況に合わせて考え方や行動を柔軟に考えるゆとりが必要になると考えます。

 そのようなことを考えますとそうした柔軟に扱えることが専門性といえるかもしれません。


そこで改めて考える行動方法 個人と組織と


 ですから特に今どっぷり福祉業界に浸かっていて自分がそうした状況に汚染されているかさえも認識できていない、あるいはわからないといった方に対してはもう少し世界を広く見て欲しい広く見てはいかがかと思います。

 そのため現在現在福祉職に入っている方がいるならば一度今勤めている場所を一回お休みして外からの目を新たに獲得する、であったり、あるいは福祉ではない一般企業に入ったりすることが望まれるような気がします。

 一方でそうした広い見識が持てるような柔軟な雇用体系や業界を再編する意味で、会社は国は動かれてみるのが良いのかも知れません。


まとめ:柔軟性


 まとめますと多くの見識から柔軟性を持つことで、それを専門性として磨いていくことが重要だと思われます。

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