考える場合には二つのタイプがある。


考えるときには恐らく2種類あります。


















ものや物理現象について、あるいは人の心もそうですが
それらを調べる方法として、二つの方法があるのだと思います。


理を求める

一つは基礎研究のように真理を探求するというものです(上図原因究明)。
「物だったら理学」、「人の心だったら精神分析」です。
今より前、即ち過去に目をむけ
それが「なぜ起こったのか」ということを調べます。

これからのことに目を向けないので一見無駄をしているようですが、
この「真理の探究」を経て得られる行動は的を得ていて、
動き出したら結果的に新商品の開発などの大きなパワーになりえます。


問題への対処

もう一つは応用研究のように実問題に対処するものです(上図対処療法)。
「物だったら工学や農学」、「人の心だったら行動療法やSST」でしょうか。
多くの分野があり、実際の問題に対処します。
なぜ、よりも、「どうやって」を主眼を置いています。
今よりどちらかというと未来へ目を向けます。

実例が主となり、場合によってはその例を同一グループで
まとめることによって傾向をつかむことが出来ます。
しかし、深さや根本的解決では真理の探求に適いません。


















精神疾患で病状の頻度が少ない場合、行動療法やSSTなどで
目先の問題を解決することがあります。
でも根本的には解決しているわけではないので、
同じような別の例のときに、症状が現れます。
ですから本格的に病状を治そうとするならば「どぶさらい」は必須です。
しかし、どぶさらいをするためには非常に大きな体力・精神力と
時間がかかるのだと思います。
自分もしくは相手がどぶさらいをするだけの力があるのか
私を含め、支える人は見極める必要があると思います。

人と話すとき、この人はどの程度まで深く話すか
どの程度まで耐えられるか、
支える人は実に多様に人を見ているのだろうなと思います。

それを考える機会を持った本があります。
「「心の悩み」の精神医学(野村総一郎 著 PHP研究所 1998.6)」です。



















パニック、うつ、老年うつ病、PTSDなど、例を出しながら
どのような対処をしたのか、どういう心理背景があるのか書かれています。


の奥底にあるもの

多くの精神疾患というものは甘えから来ているのではないかな
と考えました。
信頼関係の喪失からボーダーラインになったり
素直になれない気持ちからパニック障害になったり
一人の人を病人という側面だけでなく、
人間としてみようという考えが広まっています。


援者としての態度

支援者との態度としては首尾一貫して同じ態度をとることを心がけ、
時に「わからん」という素直さも持ち合わせていたいと思います。
気持ちの上では素直でも場合によっては
演技をせざるを得ないこともあります。
私はよく「話を聴くのって楽で良いよね」といわれることがあるのですが
それならしてみたら?と思わず言いたくなることが時々あります。
好き勝手に話すのと寄添うのを勘違いしているのかもしれません。


気というもの

心はどうあれ、症状は病気として出てきます。
その原因がどこにあるのかは医学的見地から考えます。
ですが、それを調べたとして意味があるのか、
精神病としての判断はどうなのかなどいろいろと考えます。

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