小手先技術では勝てない




















っぺらな技術と学校

特定、ごく一部の誰かの「利」になるため
歪んだ価値観を押し付けることがあります。教える「場」です。
世の中には多くの学校があります。その学校がどれだけ

「心のある技術」というか「根本的なこと」

を教えているのでしょうか。
学校で教えるというビジネスでは多くの人が裏で群がっている場合があります。


かんか

技術を磨くこと、自己研鑽することは決して悪いことではありません。
技術が無かったら専門家として勝つことはできないでしょう、
勝つための専門知識の蓄積、趣味として考えていることもあるでしょう。
ですがちょっと待って欲しいです。

その技術、心ありますか?と。

何か確固たる心が無い限り、仕事としての深みが無いのではないかと思うわけです。
その技術がどうして必要になったかとか、そういう熱意的な部分ね。


を見てるの?

本来社会に出て

先人と同じ失敗を繰り返さないための技術

ではないか、

誰のためのための技術習得か

ということに対してもう一度考え直したほうがいいと思っています。
結局学校でも小手先だけの技術を教えているのではないか
と思う部分があるのです。勿論そんなところばかりではないと思いますが。

それに比べて学校などに通わずとも、打たれて考え、状況に適応していくプロも居ます。
その人たちは自分が成功するかどうか分からない、自分が自分を褒め称えて
自分を奮い立たせて仕事をしています。凄まじい力です。


当の戦い、実践

時に学校で習った人と実践で鍛えたプロは時に戦わねばならないことがあります。
今とっさに考えたところ、大道芸人さんの記憶が蘇っています。
大道芸人さんの場合、どちらのほうが技術的に素晴らしいのでしょうか。





















恐らくどちらでも素晴らしい部分もあるのでしょう。
プロが負ける場合もあるし、学校で習った人が負ける場合があると思います。
だとした場合に、勝敗が決まったとき、その後の心意気は違うと思います。

どちらがどれだけ、どう悪いかと言ったことは無くて
その後どうなるか、立ち上がり方に違いが出ると思うのです。
恐らく学校では負けることを前提として話をする例は無いと思います。
ですが、実際負けることはあるのです。


の持ちよう

負けたときにどうするか、プロの方が自分の分野で負けたら
恐らく「なにくそ!」と思い、活力にするのだと思います。

が、学校で技術で習った方はどのような気持ちになるのでしょう。
「うわぁぁぁー」と泣いたりすることもあるのだと思います。 また、人によっては
「どうせ、この分野は俺には向いていなかった」「学校で教えなかったのが悪い」
と自分の力を認められないこともあるのではないでしょうか。


からこその夢・熱意

そういった意味で、「負けた」としてその自分の状況を見極めること、
物事を深く見据えることは重要です。
ですがそれは、心がが出来上がっていない状態では意味がありません。

学校で学ぶのであれば、学校に入る前、
入る最中にでも自分の習っているものに対し
「熱意」を学んで欲しいです。

ちなみにそれは「金」とか「名声」とかいった自分がプロとして得られる
報酬を目当てとしてするものではありません。
なぜなら報酬を目標にすると実際それが得られたとたんに
心が壊れてしまいますから。
(達成した後の燃え尽き症候群)
もしくは得られたとしてもどんどんどんどん適わぬこと
いわば身にそぐわぬことを目標としてしまい、
最終的には自分の実力が必要以上に使い果たされます。
(達成できずに燃え尽き症候群)

いい形で自分を見据え、行動したいです。

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