教育者に求められる資質とは

 















 江戸時代では今よりも他人との関係性や協調性は強固で、また低年齢な子が、大人として認識されていました。それに対し、近年では「個」が大事にされるのに加え、一人前と認識できる年齢が徐々に遅くなってきているといわれています。

 ですから年々、子供が大人になるには家庭や学校などによる、成長寄与の時間や質の割合が長く、大きくなっています。こうした成長寄与の時間や質が変化する場合、教育者や教師はどのような資質が求められるのでしょうか。ここではその求められる資質や教育に当たっての重要なことを書きたいと思います。

 なお、先に結論を書きますと、「広い視点」を持つことと成長を「待てる姿勢」が大事だと思っています。


広い視点を持つこととは


 はじめに広い視野を持つことについて書きます。何にでも言えますが、専門的に学んでいくとついつい視野が狭くなります。すると「正しい」とか「正しくないこと」、善悪に注視しがちです。しかしこれは時に間違いです。なぜなら見方が変わることで「正しさ」や善悪は変わるからです。

 例えば銀行強盗が起こった場合には、店側としては自分たちや世間は善で犯人が悪と認識しますが、犯人側からすれば、自分たちが善で、店や社会、世間が悪だと認識します。ですから、善や悪などということを極端に考えるのはナンセンスです。

 これを例に教師や教育者ならば、ひとつの事例に対し、二通りの考えを述べる必要があると思います。例えば、いじめに関していうと、私は加害者には、将来同じようなことをされても知らんぞ、といい、被害者には、逃げるか戦え、さもなければ死ぬぞ、といいます。

 そうして考えることの出来た二面性は①使う側と②使われる側とで処理のされ方が分かれます。

 使う側の立場の場合、得られた二面性の情報を取捨選択していきます。昔は古典がいい例です。今はメディアのニュースなどがあります。時代を問わずいつでも人間の得られる情報は限られていますから多々ある情報の中で自分の感じたことを中心にどう活かすかを考えます。正解はないです。
 一方使われる側の立場の場合、二面性を「使う側の取捨選択した基準」によって守ります。ですから制度の規制意識や被害者意識を常に持っています。制度は制度として認識し、それに対して制度を破る方法もあることを知ること、被害者意識は別のところにその反骨精神を用いて大きなパワーになりえます。

 今まで私が受けてきた義務教育では使われる側の立場の感覚が常にありました。教師はなぜか画一化して制度を守る考え方を押し付け、それを是とします。しかし社会に出ると制度を守ることだけが是ではありません。ですから制度にのっとる事だけを是とするだけではなく、制度そのものが是かどうか、考える必要があると私は思っています。


待てる姿勢を持つこととは


 次に待つ姿勢を持つことについて書きます。「待つ」姿勢をもつこととは言い換えると、「違い」を認識することだと私は思います。

 人は動物として生きていく以上、重要な摂理は「弱肉強食」です。そして人は皆差があります。生物的に等しい個体は原則ありません。ですから弱い個は淘汰されるのが自然界の掟です。それを社会的に平等だから皆助けようとしても、自然界や動物としては不自然です。

 しかしもともとある差を社会の制度上で埋めようとすることは可能だと思います。ですからまず弱肉強食を認識した上で、人と人とで差が有ることを認識し、助けられるところは助けることで人の成長ができるのだと思います。いじめの例で言うならば被害者はもちろん、加害者も成長する時間を待ちます。ただし、絶対はないです。


前提の崩れた社会


 こうした考えの前提が入れ替わったりすると、論理性がかみ合わなくなります。例えば弱肉強食の経済があって、裏に社会保障があるはずなのに、社会保障をまず絶対確保しようとすることに私は違和感を感じざるをえません。

 また最近の風潮としてどこか①制度を作れば価値が生まれると思っている誤解②規則を守りさえすればなんでもよいといった解釈、このような考え方が生まれいて、最近は非常に堅苦しい世の中になっている気がします。
 私は視野的にも時間的にも、もう少しおおらかに生きてみてはいかがかなと思います。教育者、子供ともに。


それを以下を読んで考えました。
佐々木洋子 言葉を封印してしまった子どもたち ごま書房 2007.7です。

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