意味の無い世界を意味ある世界によみかえる

 


















 トゥルーマンショウという映画をご存知でしょうか。一人の「人の人生」が実は劇場で放送されていたとしたら。という仮定のお話の映画です。私はこれを最初見て凄く面白く感じました。そして我々の人生もこうした舞台の一つのコマなのかもしれないと思いました。また私は幼稚園から中学校卒業まで千葉は我孫子に住んでいたのですが、その中学校在学中、ある休日、父親に東京は秋葉原に連れて行ってもらいました。そのときに、僕の人生の知らないこういった場所が存在していたんだ。と、世界が自分中心ではなかったことを知りました。
 これらの経験を通して、映画の例で言えば何らかの意図が人生には含まれていること、秋葉原探訪の経験を通して、自ら他の世界を知ることが可能なことを思いました。このように哲学することは実は人生に全く役に立たないかもしれませんが、素朴に感じた疑問に何らかの結論が出ると心が豊かになります。そこでここでは世にある「考えられること」と、その「見極め方」について書きます。


無意味な学問無意味な世の中から意味を見出す


 世の学問は「学問を学ぶための」学問です。例えば科学は通常最初に宇宙の誕生と終わりを解明しようとします。しかしそれ自体が、終わりでありません。また宗教学も基本的には「宗教を学んで得られたものを学ぶ学問」です。哲学も多くは「哲学」学なのでしょう。歴史の多くは「歴史観」学です。

 これら学問の背景には人間がひとつを見、表現しようとすると、現象として調べようとしている対象が広がり続けていることがわかります。この根源は、本当は第一者的に現物を見たいのに、表現することで第三者的になってしまうためです。ですから調べたところで、実質的に現実的には本当は意味が無いです。

 しかし意味の無い中でも外面と内面とが時間の経過により変化していることがわかります。そして微分を使ってごく小さい時間変化に傾向を読み取ることで、予想することはできます。すると、人生の生き方にしても何らかの仮説を出すことが出来、その仮説を肯定したり否定したりして改善後、よくなることはできます。


意味のある社会の実現のためにすること


 そう考えた場合、本当は何の根拠も無いのだけれど、何らかの意図を含み、誰かが役に立つ都合のいい制度、道徳が出来ます。道徳は制度なので欠陥が必ず出来、現実との「ずれ」や「遊び」が生じます。そして道徳、欠陥問わず真実を知ることが全て良いわけではありません。

 それを十分認識した上で①事実は道徳、不道徳で分けられ、状況や見方によって軸が変わります。②道徳の善悪がその人や、自分にとっての善悪とはなりえません。③使う場合は好悪、使われる場合は道徳の合致を目的としています。これらを学ぶ必要があると思います。

それを以下の文献を読んで考えました。
永井均 <子ども>のための哲学 講談社 1996.5です。

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