他人の価値や結果より自分の可能性や希望を目的に一歩から。

確かにお金はある程度はあったほうがいいですが、そういった他人の評価はようけ必要ですか?























 学校の成績、企業の売り上げ、金など他人の価値を目的と考え、行動する方がいます。そうした方にとって、恐らくこれらのものを得たところで満足することはないのではないでしょうか。そうした満足をせずに生きることは、自分が満足して生きることを良いこととして考えた場合、問題です。そこで、ここではこうしたずれた考え方についてどうしたらよいかを書きたいと思います。


高い目標を掲げるのはすばらしいが予実の差は出る


 高い理想や目標を掲げるのはいいと思います。しかし得てして目標と結果の差が大きく異なる場合があります。(大体目標どおりに結果が推移すること事態が少ないと思います。)

 目標と結果が大きく異なってしまった場合、たいていは目標の立て方が間違っていたという考え方に行き着き、修正します。

 また一方で自分の考え方が間違っていなかったかも考える必要もあるように思うのです。


間違いへの恐怖は誰かの価値?


 こうした目標や目的が結果と異なる、即ち間違うことに対し、世間は「間違うことが悪いことだ。」「合っていることが素晴らしい」という考えをもたれることが多いようです。私の家の内外でもよく聴きますが、その価値判断、本当に合っているのかと疑問に思うことがあります。

 こうした「間違いは悪」といった考え方は、小さい頃に知らず知らずのうちに親や教師などから刷り込まれることが多いです。そして誰かから刷り込まれた価値観を真に受け、それがさも自分の価値観のように”納得している”部分があると思います。

 そうした実体のない他人の価値観を大多数が持つことで安心はできますが、行過ぎると数の論理で、大多数の価値観に小数のお前も合わせろといった「押し付け文化」となることがあります。

 私はこれにうんざりすることがあります。私のように押し付け文化がうんざりだと思うものに対し、対策を打つためには他人に左右されることなく、自分で独りで物事を考える姿勢を持つ端的に言うと疑うことが大事になります。

 なお、上記の間違いの例で言うならば「間違いは悪ではなく」間違いは間違いとして認識し、「最終的に修正してよくなったらよい」というのが私なりの結論です。



そもそも人間とは一人で生きる生き物


 そこでなぜ独りで考え、疑わなくてはならないかというと、人間はいずれは独り立ち立ちしなくてはならならず、結局は自分しか信じられるものは無いからです。

 勿論成長の過程において親や同級生、先生の力を支援されて生きますが、そのような方も決して自分ではありません。
 そして独りで生きることで他人のことや他人の評価がどうであろうと自分が満足して生きることができます。


 

 なお、上記参考動画(45秒くらいから1分15秒くらい)にもありますが、仮にずっと支えて貰っていると支えを持つ前提でしか行動出来なくなります。これでは常におんぶにだっこで支えている側(上記動画の棒)もしんどいです。


疑い、ひとりで生きるには


 そこで疑い、独りで生きるには、まずは自分で一歩を踏み出すことが大事になります。 自分で一歩を踏み出す場合は不安もありますし、失敗をするかもしれません。ですが、その一歩を踏み出すことで成功する可能性もあることや、夢や希望を持ち行動に幅が広がること、生きる楽しみを見つけ出すこと、がそれぞれ醸成され、”過去”ではなく”次、未来に”生きる活力になるのだと考えています。

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