変わらない基盤を持つことは大事

高くそびえる建物も強固な地盤があってこその存在です。


 叱れない上司、自立的でない人、障碍者差別をする人など本来フェアな態度であったほうが良いのにも関わらず、その自覚をもてない人や、逆に変に他人へ過剰に期待する人がいます。このような人は何かがおかしいと自分で考えるのが普通だと思いますがなかなか何が原因か、ということを考える気力も時間もありません。そして根本的な原因を解決をせずに対処療法的な行動をとっていることが多いと思います。これでは人として同じ間違いを繰り返す危険があり、成長という側面に立つと問題です。そこでここでは生じうる問題に対し、どのような考え方を持ったほうがよいか、根本的に何が大切かということについて記したいと思います。


他文化との比較で変わる立ち居地


 どのような考えを持ったほうが良いかを考えた場合、日本だけで考えるのではなく、他国文化を参考にしてはどうかと思います。なぜなら知らず知らずのうちに自国の常識にとらわれてしまうことがあるからです。また、人間関係を自分から家庭、学校、社会・・・と広がった場合についての対処を考えます。

 そうした地理的に広く、テリトリー範囲的に広く生きる中で、時間軸をとってみるととりわけ重要なのは幼少期です。ある程度大人になると自分の中での考え方が凝り固まってしまうからです。そこで特に義務教育前までの時期の考えが重要になると思われます。


自分からの広がりから


 社会のつながりを自分中心としてみた場合、自分から近い位置として、家庭、学校、社会があります。ここではそれぞれ外国文化から考えられる重要なものを書きます。

 自分としてまず、全ての基礎・基盤として自分の存在があります。そこで重要なのは宗教・倫理です。他人を殺してはいけないとか、盗んでいけないといった、古くから言い伝えられてきた規則があります。これは長い年月をもって洗練されたもので基本的に変わりません。そして大人になってよくよく倫理の中身を考えてみると、真理を突いている部分があります。

 家庭として次に情操教育、心の教育を通してどう思うかを学ぶ家庭があります。母親から居てもいいと思われることや、父親からは乗り越えられない壁を知ることを知ります。さらに他者との間で生ずるルールを知る場でもあります。

 学校では知識を学ぶ場としています。自分のしたいといった欲を大事にし、学ぶ必要があると思います。ここで重要となる考えは他者との強調です。

 社会として最後に社会です。人と人との接し合いを大切にする場です。これがあって他者への思いやりを持つこと、社会貢献への考え方を育むことが出来ます。


日本の教育方法


 外国ではどの国もある程度共通の規範という名の宗教があって、それを元に家庭や学校、社会というルールが決まっています。

 しかしそうした宗教などの規範がない、もしくは薄い、場合のよっては徳のない儒教(要するに変な宗教)を重んずる日本にとってその上にある情操教育や学校での知育が砂上の楼閣のように崩れやすくなっている傾向にあると思います。

 家庭では父親の存在がなく、母子が非常に密着しているものとされます。そのため、ルールへの指導は家庭を飛ばして学校に任され、学校ではその指導方法として論理を中心とした精密コード(~~のため、しないほうが良いという説明)よりも情緒を中心とした制限コード(駄目だから駄目だという説明)を大事にします。そしてしまいには社会においてこうした「駄目」な制限コードがメインな、実体のない「常識」に合わせることを目的とした基準を大事にしてしまいます。

 確かにこれが悪いことばかりではなくて、明治維新時や戦後の経済成長時のように皆の一致団結したパワーによって欧米に追いつこうとわずか数十年の間に経済大国になった部分はあると思います。しかし満たされた現在では、その基準をどこにもったらよいかわからず、基準がころころ変わっている気がします。

 それゆえ本来フェアな法律も何か感情論で結論が下されてしまう部分があります。そうした問題に対して、自分のルールとなるものを考え直す必要があるのではと思いました。


結論


 社会問題に対し、自分の変わらない考えや基準を持つことが重要です。そのため場合によっては「宗教を使う」必要もありなのではないかと思います。決して使われることはなく、ですけどね。


それを以下を読んで考えました。
佐藤淑子 イギリスのいい子日本のいい子 中央公論新社発行 2001.3です。

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