健康は目的ではなく手段です。

病気だったら病気に対し何かアクションすればよい話、皆に健康を強制する必要もなし
















 健康になることが注目されています。こうした健康を持つことが将来的にどうプラスに働くのか、あるいは長寿になって何を求めているのか疑問です。どうも無駄への投資先として健康を求めているような気がします。
 個人一人で健康を大事に思っている分には問題ないですが、他の人に健康を無理にすすめる、押し付けるには過度な行動である気がします。そうした行動をとらないようにするためにはどうするか、ここでは考え書きました。


欲に執着し全体が見られないことで目標が遠のく


 欲への執着は貧しく満たされない心を満たそうとするためおこります。本来は欲を持ち、それから行動に移ることが出来るのですが、欲の満たすことを執着しすぎるのは、かえって欲を取り逃がすことになります。

 健康で言うならば不健康ではいけない、ならないといったマイナスな考え方です。こうした考えが更なるマイナスな考えを呼び、結果としてマイナスの行動をとっているようにに思います。

 また環境が違うのにもかかわらず、一つのデータを万事適用しているケースがあります。これは状況の判断不足といわざるを得ません。


健康になるためにエネルギーが必要


 そもそもこうした健康とは、ある程度の秩序を持ったものです。過少や過多は異常、即ち不健康な状態となります(下図)。
図1.健康と不健康の例
















 自信と一緒で多すぎても少なすぎても駄目なようなのです。ですからちょうどいいところで調整しなければなりません。そのちょうどいいところ、中途半端に居るためには秩序を保つためエントロピーを増大させなくてはなりなりません。それにはエネルギーが必要です(W/T=S(S=エントロピー:秩序 T=温度;一定 W=エネルギー))。


自分でエネルギーを消費して変わる気持ちが大事


 本来身体と心、成功と失敗、思いと行動は全て連続的です。そのため失敗を知り、学びてこそ成功する行動(エネルギー)、気持ちが必要です。
 ですが、これは相手に強制させることでなく、また強制されることでもありません。これを見誤ると、過度に押し付けをする教育者や横柄な医者になります。

 一方、健康になろうとしても全員が全員必ずしも健康になれないこと、健康になる意味のないこと、医龍の漫画でもあるように、人が人として関われる程度は非常に小さなものであることは知っておく必要があります。


考えを支える環境例 ストレス、教育、病気、報道


 また、こうした考えを支える環境の具体的例として4点示します。
 1つ目はストレスです。ストレスという言葉の定義付けから気持ちを認識しストレス発散という言葉を用いて、ストレスのかかっていることを忘れます。しかしストレスがなくなってしまうと間違いという人間らしさがなくなり、成長もすることが出来ません。
 2つ目は教育です。小さい頃に親から欲求とは本来別に「甘やかされ」て育つと、自分の心に満足を得ることが出来ず、大人になっても満たされない心を追い続けます。
 3つ目は病気です。老人病や精神疾患をはじめ、生物的要因だけでなく社会的要因から病気となっているケースもあります。
 4つ目はメディアです。視聴率という形を目的として客やスポンサーに合わせる付けることから、情報の捏造や少数の情報を過剰な情報として取り扱っているケースがあります。


結局の対応はすべて同じ方向に向かう


 こうした例に対し、いずれにしても、手段として①死や終わりを前に学び、その場にあった対処をすること②全体から個別への総合的で臨機応変な態度が望まれることがあると思います。
 これまで健康と不健康といった一元的に見ていた視点を一人の人が社会と関わり、使う視点(下図)に変えることが重要だと思っています。
図2.人を取り巻く環境




















それを以下を読んで考えました。
島井哲志 「やめられない」心理学 集英社 2008.4です。

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