目を見て話をすることが難しい人への交渉

猫でも視線を突きつけられるとこわひ






















国立高専で存在する監視の目・閉塞感


 最近の学生はなかなか心を開いてくれないそうです。先日母校の高専に遊びに行ったときに先生方が言われていました。教育現場の学生と先生が常に監視の目にさらされ、なんともいえない緊張感があるといわれています。

 学校が学生さんや生徒さんを預かっている関係上、親からの責任を感じざるを得なくなっているようです。ですから、学校側も学生側に常に「~をしてはならない」と言った予防線を張った対応をせざるを得なくなります。そしてその予防線が前提の上に考えている場合、考え方の閉塞をしてしまうような気がします。


閉塞感からの気持ちの変遷 目を伏せがちな行動


 閉塞するとどうなるのでしょうか、恐らく接する人接する人全員が敵のように思えてきて「ここで自分が出たら笑われる」「ここで出すぎたら恥ずかしい、くいを打たれる」と思われる部分があるのではないでしょうか。なにか去勢されたような印象を持つことがあります。

 確かに規則を重んずる場合であったならばそのようなことはあるかもしれません。しかしそれがぜったいだと考えられてしまうと、いざという場合に行動が出来なくなり、本来目的としていることさえもすることが出来なくなってしまいます。そして人と接することが苦手になり、目を伏しがちになります。


対応する人の気持ち


 そうした目を伏しがちな人に対し、交渉や対応する人は「目を見ないからこいつは何も考えてないのだ!」とつい考えてしまいがちです(かつての私がそうでした)。しかし本人らは話したいことや欲求を持っていることがあります。

 相手のことは変えられませんが、自分は変えることがでます。そうした対応を自分なりに変えられる人が必要なのだと思います。高専でいうなら先輩であったり、先生であったりする人々です。


気持ちを引き出す方法


 そのため大切なことは相手の関心を引き出す必要がある気がします。引き出すこととは相手の興味を持ったことを出してもらうことや、悲しみ、怒りを素直に表現してもらうことです。そのためには私の場合は多少過剰な干渉をすることもあります。

 過剰な干渉には叱ることも含まれます。ただ、叱っていると思っていても、相手にとっては怒っていると誤解される場合があります。そのような場合、怒っているように見える「表面」ばかり受け取られてしまい、肝心の中身を相手はなかなか理解してくれません。


実際の行動・指導する側として


 そのためこと仕事の上でならば、感情で「駄目ったら駄目」というよりは論理的に「このような理由でしないほうが良い」と言ったほうが理解をしやすいのかもしれません。

 私が会社員として仕事をしているときに、怒っていることと叱っていることを間違っている先輩がいらっしゃいました。そのような方に対して、どうして対応したらよいものかと考えているときもありました。恐らくそのような方は叱るといった場合の表現方法を知らなかったのだと思います。ですから怒っている表現方法をしてしまったものだと思っています。そういった経験があってから私は会社に居た先輩を反面教師として、駄目なときは論理的になぜ駄目か、特に叱る場合には怒りの感情を捨てて、言うよう心がけています。相手を説得する場合に怒りや悲しみの感情ははっきりいって「邪魔」です。


これまでの交渉これからの交渉


 感情に言葉をのせること、即ち「泣けば交渉ごとを有利に進められる」「同情を誘うのは任せて」「怒ればこっちのもんだ」「許しを請えば何とかなる」・・・などと言った感情によって相手を動かそうと思う考えは、見る人が見ると非常に浅ましい、チープな考え方な気がします。

 「交渉ごとに怒ったり泣いたりしてどうするの?意味ないじゃない」と思う部分がありますが、まだまだ日本にはこうした感情にのっとった交渉術があり、それが往々にしてまかり通っています。私はこのような交渉術に辟易しています。

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