守りと攻めの考え方を持つ


本当にその学位、意味あるのかな?





















変な学歴社会


 守ると維持を目的として行動する。これは無駄を排除しているように見えて、実は一番の無駄になっている気がします。その代表が、MBA、MOT、法科大学院など高度専門職業人教育を目的とした大学院です。
 このように大学院に行けるもの、すなわち金持ちだけが資格を得られることは、何か目的を見間違っているような気が私はしています。
 そうした間違っているであろう考えを気付く機会は、あまり無いのではないでしょうか。そこでここではこうした間違いに気付くため、守る考え方と反対の攻める考え方について書きました。


守られる立場から見た大学・大学院観


 地位をおかされることも無い立場でいるとどうしても立場を維持することを考えがちになります。そうした維持を目的とした考えを保守文化や、権威主義といったりします。

 こうした考えは、大学の中にも有ります。大学進学率が向上した最近では、高度専門職業人教育と銘打って、次から次へと大学院が設立されています。こうした大学院が出来る背景には、箱物文化をつくることが謳歌しすぎな部分がある気がしています。そもそも「高度専門職業人教育」とはいったい何で、それはいったい誰が教えることが出来るのでしょうか。

 内容を調べると、かつての学部が、大学院という箱にシフトしただけのようで、難関資格を取るために長期間教育するといって要るものも有ります。これは目的と手段が逆転した、何のために行くのかわからない状態となっていることが根底に存在するように思います。


資格は必要か。誰のための資格か。


 そもそも大学院をはじめ、資格を取得すればOKと思っていることが疑問です。大学院の中にはベンチャースクールもあるようですが、そんなものがいるのでしょうか。ビジネススクールでいったい何を学ぶのか、計画通りに行くことを学ぶのでしょうか。MBAの出されるケースメソッドでは恐らく現場で見られるようなドロドロとした人間関係は無いものと扱うのでしょうし、そうした机上の空論を学ぶ意味があるのでしょうか。MOTを含め、誰が、何の目的でしているのか、考える必要があると思います。


守ることは死ぬこと?攻めることは生きること?


 それともこうした高度専門職業人教育を受けることが大事だと考える方は、こうした大学院に行くことを先行投資として考えておられるのでしょうか。こうした見えぬ未来を見えるかのように先を読んで行動しすぎることは、かえって失敗したときのリスクを高め、行動するのを恐れる気がします。

 それに対して攻める行動からの実績を重視する考え方があります。金融や商社などとは違って、ものづくりや現場、行動を大事にすることです。誠実にものづくりを行い、「作った」という形ではなく作った「もの」の中身や内容で信用を獲得します。こうした行動をとるためには自分が前に進むために退路を断ち、儲かることとは根本的に価値が異なり、失敗する覚悟を持つ必要があります。

 私は後者の行動や実績に重きを置く考え方を支持したいです。なぜなら人生も同じで、結局自分で道を切り開かねばならず、攻めることプロセスが生きている価値に通ずる気がするからです。



それを以下を読んで考えました。
山本昌弘 キャリアアップの投資術 PHP研究所 2003.7です。

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