やる気のなさと続けてしまうこと。


 本当は全然やる気がないのだけれど続けてしまうことがあります。これはひょっとするとつまらないながらも続けることが習慣となり、安定している状態だからなのかもしれません。そうした習慣・行動は時間をつぶせる意味では有意義なのかもしれませんが本質を見極められないことがあり、そういう部分においては問題です。そこでここではそうした「やる気がないけども続けてしまう」ことや依存的なことへの対策を書きました。


やる気が出ない、でも続けてしまうこと


 かつて私が小学生から中学生くらいだったころ、友達と遊ぶ機会がない場合、家でテレビをいつも見ていました。土曜日の18時くらいの番組は見ていて苦痛でした。なぜかというと、女性受けを狙って関係維持を目的としているような内容の番組が多くあり、質が低いと思ったからです。要するにつまらなかったのですね。

 つまらないなあと思いながらも見ていたのですが仕方がなく見ていたとしても、いつしかそれが習慣化してしまいます。するとテレビしか見るものがない、という視野狭窄になってしまい、やる気がないのに続けてしまう→更にやる気がなくなる→続けてしまう。といった悪循環になってしまったのかもしれません。中学生のころには立派なテレビ大好き人間になりました。

 昨今では子供が外で遊ばず、家でゲームばかりして居るという話を聞きます。これも先の私の場合と同じように「ゲームしかすることがない」と子ども自身が考えていて、仕方なく続けている部分があるのかもしれません。
 また、そうした子供のやる気の喪失というものは実は親御さんが望んでいる場合もあるのではないかと思います。
 どこか子供をわが近くにおいておきたい。独占したい。そう思っている場合もあると思うのです。

 ちなみに私がテレビを見るのを断ったのは学校の寮や会社など、物理的にテレビのない環境にある期間いたからです。環境が変化したおかげでテレビを見なくても平気になりました。


仕方がないから続ける依存、孤立が孤立を生む


 こうした「何もないから仕方なくしている」状態はいわば常に待っている「待機状態」と考えられます。しかし何に向かうか特定できないため、目的が定まらず最終的には何もしたくない、と言った無力感を持つことがあります。
 これはアルコール依存の方が依存症となるように言い換えると、どこか「井の中の蛙、大海を知らず」と同じようにほかの興味のあることを知らない、知れな状態なのだと思います。あらかじめ自分の枠に規定していると書いたらよいでしょうか。

 こうした枠を規定して考える方法は日本の教育方法にみられるでしょうか。学校、法律、指導要領といった決められた枠を利用し、固定化して考えます。確かに枠を規定するともの(ここでは教育)を万遍なく与えることやある程度までの品質(教育における学力)は高められると思います。ですがこれはどこか一人一人の個性、ひとつの感情をないがしろにしているようで家畜養成に似た部分を感じます。(例えば豚を豚小屋に入れて一斉に餌を食べさせて一斉に殺すように。)

 こうした家畜養成のような人間教育がさらに進むと人間が機械のようなものだ、機械を扱っているものは偉いのだなどと勘違いするものが出てきたり、孤立から孤立を生み、どんどん人間が小さくなる気がします。これは何か、むなしいです。


視野を広げて本音でぶつかってみる


 そこでこうしたことを防ぐためには、 視野を広げ、人や気持ちの一つ一つを大切にし、自分や本人が何を望んでいるのか都度取捨選択する方法がよいのではないかと思います。
 また、正直さや人気が人生や社会にどう生きてくるのかなど、本音でぶつかり合える大人や環境があったらよいと思います。
 そのために支援する者は相手に耳を傾け、できる限り言行一致を図り、理想論だけでなく現実を実際に体験することが大切になると思います。
 例えば勉強でしたら、どう役立つのか説明したり自分が説明するのが難しいならば、きちんと説明できる人を探して依頼します。

 そもそも接せられる本人も支える人も、自分のしていることの面白さや楽しさを伝える勇気を持つこと。その上で公の利を求め、みなで連携して助け合うことで更なる発達が期待できることを信じる必要があると思います。

 そうするためにはまずは自分のしていることのを楽しむことと、本当は自らが助けられていることを知ることが大切なのかもしれません。


それを以下を呼んで考えました。
遊びと勉強 深谷昌志 深谷和子 中央公論社発行 1997.6です。

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