真剣に生きるための情報解釈収集方法


 私がかつて大学生であったころ、何に関してもテキトーに済まして生きていたことを研究室の先生に見ぬかれ、一喝されたことがあります。そのときは普段使用している日本語も大切にせず、雑に、または刹那的に生きてきた部分がありました。その経験があってか以後、多少は真剣に生きることを考えました。もしあの時叱られず、今もテキトーに生きてらと思うとぞっとします。そこで、今回はそうした経験を通して思ったこと、現在テキトーに生きている人にとって真剣に生きてみることをお勧めすること、そのための情報収集方法を書こうと思います。


固定化した見方をしていないか


 「こうなるはずだ。」「こうであって欲しい」と言った思いが強いと真実を見落とすことがあり、悪い意味で悲劇的な現実になることがあります。

 例えば細かい善悪をレッテル張りします。身近な例で言うなら福祉業界でも「福祉に関するものはどんなものでも良いもの、良いこと」と思い、本来そうではないのかもしれないのにもかかわらず事実を見据えられず自分勝手に解釈します。

 そのようなことが正しいことではないこと、良いことばかりとは限らないことを知ってほしいです。


真実はいつもひとつ。自分の見方を知る。


 名探偵コナンではないですが、たいてい真実はひとつです。言い換えると私たちが見ている面はいつも真実の一部分でしかありません。逆に書くならひとつの真実でも見方によって多くの解釈ができます。

 一番有名なたとえで言えば例えばコップに半分ほどの量が入った水を見る場合に、見方によって「もう半分しかない」とも、あるいは「まだ半分もある」とも言い換えられます。

 こうした多くの客観的な見方、多くの解釈を得るためには他人の見方や考え方を聞くのもひとつの方法だと思います。翻ってひとつの事例に関して自分がどう考えているか、普段からどのような傾向に考えるか認識することも必要なのだと思います。


「わかったつもり」で雑に、せつな的に生きてしまう


 そのような自分はもちろん他人の考え方を取り入れる場合、「わかったつもり」という考え方は間違いで害になります。「いろいろ」と言い誤魔化してすべてをまとめて完結することで深く解釈ができずそれ以上を考えることをしません。場合によっては自分の意図しないことが相手に伝わることもあります。すると相手との解釈の違いからトラブルが発生することとなり、結果として自分の損をすることがあります。

 また雑に生きていると、ものごとへの解釈があいまいになったり、あるいはその解釈に至った経緯やなぜそう解釈したのかといったことを他人に説明できない部分がでてきます。すると例えば虹の色は光が分散している意味で何色にも見えます。これが雑に解釈されると単純に七色であったり、人によってはもっと色数の少なく解釈されることがあります。

 なお、多くの方は相手が難しいことを言っているような場合、「もう理解するのもめんどくさいから相手に従ってしまおう」と受け入れてしまいがちです。しかしそれに対して「ひょっとして相手の言っていることは間違っているのかもしれない」と敢えて疑うことで、真実を気づくきっかけを見出せる可能性があります。


わかったつもりを少しでも防ぐために情報ソースを明確化する


 ですからそうしたわかったつもりや、考え方の間違いを防ぐために、科学の場面でしたらソースや事実を元に解釈をする。あるいは原因から結果の間を、事実やソースを基にして考察・推察します。このようにソースや事実を自分の目で見て、取り入れる、考えることは真実を見出す意味で有用です。

 その際、まったく出所の違う独立した二つのソースを元に同じ解釈を導き出せれば確実性を持てます。ひとつだけのソースを取り入れてしまった場合、あるいは見せかけだけの二つ以上のソースを取り入れてしまった場合は騙されていることを認識する必要があるのかもしれません。
 例えばサラ金会社が提唱している借金に対する良い面悪い面の両面は、どっちにしても借金は良いという結論を見出そうとしているだろうことを推察します。





それを以下を呼んで考えました。
わかったつもり 西林克彦 光文社発行 2009.11です。

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