組織を超えて個人を支援する重要性


 福祉も慈善事業、フィランソロピーの一つです。これは日本と外国とで様相が異なっています。日本では特に団体前提の考え方があり、どちらかというと団体や組織だけの内輪な支援になりがちです。これでは本来支援を欲しがっている個人に対して適切にアピールすることは出来ず、問題です。そこでここではフィランソロピーがどのようなものでどうして行くのが望ましいか、といったことについて書きました。 


身近にあるフィランソロピー


 フィランソロピーとは慈善事業といいます。これは魚が欲しがっている人に直接魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えることに近いです。偽善と似ていますが相手のためにする意味で異なります。フィランソロピーをするには何を発信するかが大きなポイントとなります。考え方として何かを提供して何を得るかを考える意味では、仕事もある意味「フィランソロピー」といえます。

 日本社会において多くフィランソロピーはありますが基本的に団体前提で団体への支援をしている場合が多いです。通常学校もフィランソロピーのひとつと考えられますが、それを良い形で社会への還元ができているかと考えると疑問です。誰かに搾取されたりせず、ストレートに支援を望んでいる人に響く形が望ましいと考えています。 


アメリカのキリストと日本の儒教


 そもそもフィランソロピーの発祥は外国です。ですから日本と外国とは文化の違いがあり、それゆえ国同士におけるフィランソロピーへの価値観も異なります。

 外国特にアメリカですが、ここでは何でも中身や企画さえよければ個人から周りの寄付を得られます。そうした寄付が社会に回ることで循環が起こっています。これはキリスト教の他を愛する文化に起因するのかもしれません。

 一方日本ではフィランソロピーの考え方はあるものの、中身よりもコネや形にこだわる傾向があり、出過ぎるのをあまり善しとはしません。こうした日本の文化は中国の儒教的な文化に背景があります。官僚文化もそうですが偉い団体や組織があってのもので、本人より家族、個人より団体や組織に意思決定権があります。これは自分は無力だから相手に寄りかかりたいといった、本当は弱い弱い部分があるからのかもしれません。残念です。 


団体を超えて個人還元を目的にする


 ですから例えば部長島耕作において初芝電算が企業向けの慈善事業「メセナ」を重視していたりします。個人にはその恩恵があまり回ってきません。誰のために何をしているのかわらない、あるいは間接的にずいぶん遠くで支援されていることが認識できます。これは何か変です。

 ですからその変さを是正するために慈善事業も社会連携をするといった①団体や組織の枠を変えることや②あるいは支援する制度そのものを変える方法があります。

 前者は時に違法と思われます。また後者は一人の考えでは周りを変えることは難しいです。ですから一筋縄ではいかないところが難しいですが少なくとも支援を必要としている人は本来個人であること、を知る必要があるのかもしれません。そして個人であることを認識した上で団体を超えて個人に焦点を当てる必要があると思われます。



それを以下を読んで考えました。
フィランソロピー 出口正之著 丸善発行 平成5.8です。



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