形だけを問う社会からの脱却方法



 現在の日本は機会が平等になりつつあり、また技術革新がされつつもあります。こうした状況により「生きること」に選択肢が増え続けています。すると以前には当然であった「理想像」の生き方も問われ、どれが正しい生き方なのかわからないことが考えられます。また多くできた選択肢をそれぞれ体験できないことから、「こうであろう」といった形だけを問うの行動を良しとしてしまいがちです。私はこれは押し付けになりがちで、問題だと思っています。そこでここではこうした問題の発生を防ぐために、どのようなことを考え、どのように脱却したらよいか、といったことを組織と自分とにわけ、気をつける点を書きました。


残念な社会の原因


 「結婚活動」や「街コン」など「楽しむことを第一」とした模擬参加型イベントが盛況しています。これらのイベントは心を満たすことより形を満たすことで、仲間とつるみ、場合によってはその状況に安住してしまいます。

 これは行過ぎると無責任な応援(「頑張れ」と言ったり)や、人をモノ化(キラキラネームだとかDQNネームだとか育児放棄も含む)してしまいます。心が通わせたいのに心が通わず、しかしそれに似たような形を追い求めることで、ますます形を得ることに腐心してしまいます。

 こうした行動の裏の気持ちにはどこかに「誰でもいいから助けて」といった欧米やキリスト教圏における「祈り」に近いものがあり、あてもない希望を持っていることがあるかもしれません。

 言いかえると常に「誰かに楽しませてもらっている」「客体的」な部分が見えます。こうした客対化が行き過ぎてしまうと、主体者の意図に沿って堕落や努力を放棄します。

 そのような行動を取り生きていけるうちはそれでも良いと思います。しかし私はそれは成長できない意味で残念で、また問題だと思っています。


残念にならないよう自立する


 そこで私は残念にならないようにするために自立する必要があると考えています。そのためには①アルコール依存における「底突き体験」のように現実を極限まで体験する。②その「底付き体験」からどうするかを考えるもしくは支える。方法を取る必要がある気がしています。

 そのためにはまずは個人と集団とが違うことを認識し、違いをいいように「使う」考え方を持つことが必要なのかもしれません。その個人と集団とにおいて必要な考え方を以下に記します。


自立の方法;個人と集団とにおける違い

 

個人では


 失敗するリスクや不安を持って、常に行動の先駆者になることを善とします。中間層の中でもキーマンになる人は誰かを調べ、省略語や相手への同調を使って相手の行動を思うように動かします。


集団では


 一方集団では敢えて集団から離れる(群れない)ことで自分の問題を解決できる可能性があります。集団はまず「自分があって」の集団です。ですから自ら自立し、自立する人を支えます。すると個が集団を支え思いやりあえます。


 いずれも個人から集団を変えることで小から大への影響することが考えられます。こうした考え方はボトムアップ型の考え方です。そしてそのボトムアップ型の考え方が形だけを問う社会からの脱却ができると考えています。




ぞれを以下を読んで考えました。
あなたはなぜ「自分と似た人」を探すのか 宮城美幸著 講談社発行 2008.10です。

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