相手に伝える場合はシンプルにすべし。

 物事を伝えようとする場合にはシンプルにするのが良いです。相手には余計なことを想像させないほうが何事も相手に伝わる可能性が高くなります。しかし日本社会ではシンプルに書くことよりもより長い文章を書くほうが重要視されます。それはなぜなのでしょうか。そしてそうした状況を打開するには何をどうしたらよいかといったことを書きます。


私の身近な伝えること


 私が小学生の頃は夏休みの宿題として読書感想文が出されていました。私自身それはあまり好きでもないし得意でもありませんでした。また国語の文章問題では「小説の本人になりきったらよいのか」「小説を書いた著者の感覚でとらえたらよいのか」「小説の著者を扱っている作題者の意図に沿ったら良いのか」などと考えながら読んでいたら結局誰の立場になってよんだら良いのか良くわからなくなり、わけのわからぬまま答えて結局間違った解答をしていた思い出があります。ですから国語の授業は最も嫌いな教科でした。
 幸い国語を重要視しない学校「高専」に進学し、在学時には卒業論文を書いてはいました、が、その時にしていたことほぼデータ整理だけでした。ですので実質的に論文や文章を書くようになったのは大学生のころだったと思います。その時研究室の先生に文章作成のノウハウを教えてもらいました。「短文で」「変な誤解を与えないように」「独立した二つ以上のソースを元に」といったことをはじめて教わりました。
 このときの経験が社会人になってから生き、改めて大学生のころに伝えることの大事さを経験しておいて「よかった」と痛感します。職場の上司との会話ではよく「上司の質問には結論から言うよう」などといわれますが、これに関しても大学生のときに教わった「伝えること」を綿密に実行していたら、上司がよっぽど変な人で無い限りトラブルになることはまず無かったです。


一般的な伝えること


 日本では多く義務教育の段階で読書感想文を書かされます。本を読んで好き勝手に感想を書いてよいよといわれるものです。好き勝手書いてよいので文書校正や論理構成はむちゃくちゃでもかまいません。
 こうしたことがまかり通る原因は樋口裕一さんが数々の本で書かれていますが、日本では諸外国のように「論理学を教える場面」が残念ながら「ない」ためです。ですので「伝わる」文章の書き方をろくに教わらないまま大人になったり、あるいは死ぬまでそうした「伝える」経験を持たないで生きている方がいらっしゃるのだと思います。「伝える」ことを考える場合には多く「校正」が大事になり、自分の伝えたいことを「そぎ落とす」必要があります。
 確かにこれまでの日本のように多く書くことで論理が展開され、考え方が深められる可能性はあると思います。文字を起こす出版社や印刷会社なども文字を多く示してくれたらその分自分の食い扶持が増えるため、「意味が無くてもより長い文章を」「意味に到達するまでにくどく難解に」伝えることが「良いことであるかのように」を後押しするのでしょう。
 しかしこれでは「伝えること」を考える場合には問題だと思っています。伝えたいことを短い言葉で伝えないと①相手が意味到達まで読むまでに飽きたらそれ以上読んでもらえない危険性と、②言葉が多いことで相手が間違って解釈してしまう危険性と、がそれぞれあるためです。


なぜ長い文章を好むのか 


 なぜ日本では長い文章が好まれるか、というと日本が女性的な文化が強いことは土居健郎さんの「甘えの構造」でも書かれていますが、そのこともあってか民族的に「幼い傾向がある」ためだと考えています。幼い傾向即ち「相手が自分の文化をわかってくれるはずだ」「同じ日本人だしわかって当然だ」などといった「甘え」が存在しているからといっても良いかもしれません。何故ならそうした甘えが存在しないと「わかってくれないことが前提」で「伝える言葉」も意味を多く含めず基本的にシンプルなものを選ぶはずだからです。英語がいい例です。
 別の言い方をすると多くの人が「つまらなかったら読んでもらえない可能性を考えない=長いからこそ価値のあるものである可能性がある=苦しいことをすることは良いことだ」といった「間違った論理のすり替え」を当然と思っている可能性がある、といったことが心の奥底にあるような気がしています。

 こうした「ねばならない=苦行を良しとする」考え方とは普通「神経症」といわれます。日本では神経症の代表的なものとして森田正馬さんの研究なされた「森田神経症」がありますが、「日本人であるからにはこうあらねばならない」といった空気があるといえます。即ちどこか日本人として先祖代々から引き継いでいると思い込んでいる「思い込み」が自らの行動を形作っているのではないでしょうか。
 「苦行を良し」とする傾向は会社の仕事でもあります。「石の上にも3年」などと言って時間のかけることを価値の解釈だと思っているのが良い例です。学術機関に長く研究の場面に身を置いて教授の召使として丁稚奉公をすることが「偉い」などと考えています(本当はそんなこと無く優れた業績を残した人が優れた能力を有しているだけ)。そしてそれが影響して学術論文でも短い文章であるよりは苦しく長い文章をかけるほうが知的だとされます。特に文学部や社会学部の論文では顕著ですが、多く文章を書いたほうが優れているとされています(卒業論文の用件に何千字以上と規定があるのはそのためだと思われます。内容のいい論文だったら少ない分少量でも言いたいことは言えるはず)。


問題への解決方法


 こうした状況を防ぐための方法は一つに心理的に「自分自身が自立する」こと。即ちわかってくれるはずだといった「甘え」や「先祖代々から伝わる思い込み」などといったものを一切捨てることだと思われます。
 相手は自分とは違う人間なんだと認識することはもちろん、同じ日本人でも関東人と関西人では文化がまったく違うように、見た目だけで判断しないことが「よく生きる」意味では大切であるような気がしています。

  また「日ごろから伝えるための文章を書くことを意識する」ことも大事だと思います。即ち何が大切で何が大切でないかを「自分の価値観のもと取捨選択する」ということを考えることです。
 物事を伝えようとするならば情報量は少ないほうがいいですし、伝えることが多ければ多いほど相手に誤解を与える元となってしまいます。もっとも少ない文章でも間違ったことを伝えた場合には相手に迷惑になってしまいますが、それにしても間違った文章を書いて誤解を与えるものと、あまりに長ったらしい文章で誤解を与えるものとでは「誤解の与え方」、即ち「誤解の種類」が異なります。

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