分類できない不安からの精神疾患。分類し安心することで得られる痴呆。


他人の目は鳥瞰の目!





















 自分と他人の見方は違います。これが社会の中には混在しています。自分の親子などの近い間柄の関係は自分の見方が適用されますが他人の親子関係は基本的に他人の見方が適用されます。自分、他人のどちらの見方もない、あるいはどちらを選択すればいいのかわからない場合は混乱します。すると不安が増し精神疾患になってしまう場合もあります。一方なんでも短絡的に分類してしまうと、今度は考える機会がなくなり痴呆化してしまいます。それは問題です。そこで、こうした問題が発生しないようにするために、どのようなことに気をつけたらよいのでしょうか、ここではそれを考えました。


自分の見え方と他人見え方は違う


 客観的に見ると人の能力は時間の経過に伴い、ある程度の年齢までは上がって、終わりに近づくにつれ下がります。しかし本人は伸び続けている、あるいは能力は落ちていないとを考えられている場合もあります。

 そのような方、能力は落ちていない、と考えられている方はもしかするとその人なりの世界が存在しているのかもしれません。これは対人援助をしている場合、よく考えられる話です。

 そうした人の世界とは私たちが見えている現実から離れているため異常だと(一般的に)考えられますが、異常な世界を正常と思われている相手にとっては(一般的に)正常な世界が逆に異常に見えている可能性も有ります。それは他人が否定できることでは有りません。


他人の目と自分の目


 ところで上記のような自分の世界を持つ自分の見方とは異なった、いわゆる一般的な、客観的な見方とはなんでしょうか。それは他人の目でみている、他人の見方のような気がします。これら自分の見方や他人の見方は、ともにどちらが良いというものではなく、何らかの判断でどちらかが無意識的に選択されているだけ、のような気がします。それぞれの特徴を以下に記します。

 他人の目で見ることは、言葉や定義という概念に人を当てはめている、それ以上は考えたくない気持ちが見て取れます。例えば人も心は無く、ただのものと認識します。

 自分の目で見ることは言葉や定義のような概念以上のものがある気がします。言葉で表現することは出来ませんが、良し悪しなどの感情から人の数だけ自分なりの気持ちがある気が上乗せされています。


 一貫性がないと混乱し定義に当てはめると痴呆化する


 これらの見方が変に混ざり合うと混乱状態になりえます。
 例えば日本では生まれた子どもが幼少期の頃は社会と離れた親子の間で親密な関係が形成されて育ちます。(自らの気持ちを大切にする自分の目で見る自分の見方文化)しかし社会に出ると自己責任と個が尊重され、常に不安との戦いを余儀なくされます。(個人を基調とする他人の目で見る他人の見方文化)
 自分の見方と他人の見方は一貫性が無く分断されています。ですから、場合によってはどちらで見たらよいのかわからなくなります。するとわからないことから不安が発生し、最終的には精神疾患にもなりえます。

 一方、不安になるのが怖い、不安だと思う場合には、えいやっと何らかの定義を基に分類することによって安心することもあります。すると、それ以上考えようとしなくなります。こうして考えなくなることは痴呆化の第一歩だと思われます。


不安と痴呆化への解消は


 ですから不安の解消をするのならば①常に自分の見方や他人の見方だけ、といった一貫性を持つ。②不安を持ちえながら今後のわからないことへは他人の目と自分の目を常に準備し、それぞれのメリットデメリットを書き出して取捨選択する。ことが大切なのではないかと思います。

 また痴呆化を防ぐには①分類内容を吟味し、それが位置、幅を含めて納得できるよう考える。②定義も「遊び」、「柔軟性」を持ちながら、定義への「連続性」を考える。ことが大切なのではないかと思います。


それを以下を読んで考えました。
大井玄 「痴呆老人」は何を見ているか 新潮社 2008.1です。

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