ぺらっぺらな薄いひと

く言われる言葉

「あんたぺらっぺらやなー」

と私は他の人から言われます。
今でもお酒を飲んで気分が良くなったりすると
とりもなおさず言われます。
これを読んでくださっている方でもそういう方が
いらっしゃるのではないでしょうか。

今、私は意識してそのような部分を出していることもあります。
昔、特に学生時代に顕著だったと思うのですが
それこそ”ゲゲゲの鬼太郎”に出てくる「いったんもめんくらい」ほどの
ぺらぺら人間でした。意識せずにそうなってましたね。
今は違うと思う。思いたい。






















過去の私自身がそうで、またそのときには凄く
人やものに不満ばかり抱えていて

「しんどい」

部分がありました。
だからこそ、他の人には私のようにしんどくなってもらいたくないなぁ
厚みを増して欲しいなぁ、そう思い、話を聴いています。
また、そのようなぺらぺらな方は話をしているとわかります。
独特な雰囲気や、話し方が出てるのです。


らぺらって何よ。

そもそもぺらぺらって何なのでしょうか。
おべんちゃらを使って

調子のいいこと

をいうことなのでしょうか、
あるいは

責任が無く軽い言葉

を使っていることなのでしょうか。
はっきりとしたことはいえないと思うのですが
ひとつに

「(本来の意味と違う)やさしさ」

を有することがあるのだと思います。

親が子の成長を見守るといった意味での
叱りという部分を含んだ責任感のあるやさしさではなく

ただ単に

相手を傷つけたくない

とか、そういう行為として、ですね。

相手をただ単に傷つけたくないといったやさしさだから
恐らくそこには、多少相手に嫌われてでもいいから
相手のためを思って言う、ということも無いのでしょうし、
あるいは凄く切れやすい(≠キレ易い)関係というか
だからこそ確実に表せる「形」を大事にするということが
あるのだと思います。

相手を傷つけたくないから、行動しない。
知ろうとも思わないし、自分も傷つくのが怖いからさらけ出せない。
自分自身の変調を相談する相手がいない。
といったようなそういう部分です。

要するに幼いといったほうがいいのでしょうか。
子供にそのようなやさしさが多々見られると思うのですが、
大人になってもそういう部分を持っておられる方が居ます。
でも決してそれは悪いことではなく、たまたま
考える機会が無かっただけなのでしょう。

でもまだ大丈夫、人は死ぬまで成長できますから。
そのような人でも助かると思います。


うしよう。

結論を先に言うと考える機会を奪ってしまいかねないので
書くのを躊躇するのですが、恐らく打開する一つの手段として

自分で勇気を出し多くを体験し、挑戦する

ことに尽きるのだと思います。
考えてばかりいても仕方が無い、
千里の道も一歩から、ある種の諦めや潔さ、が必要、と思います。

もちろん、行動を起こすことで、いいように進展する場合もあれば
悪いように進展する場合もあります。ただ、動かなければ何もおきない。

やさしさだけでは、自立できない

のだと思っています。

やさしい部分を持っている部分を知ること、体験することは重要です。
ですがそれから一歩、もう一歩自らの気持ちに正直になって
歩んで欲しいな、と思う部分があるわけです。

あなたが良いと思ってあなたを出してもいいじゃない。
嫌う人も居るかもしれんけど、好きになる人も居るよ。

そう思ってやまないのです。


考文献

そのようなことを考えさせてもらった本があります。
「やさしさの精神病理(大平健 著 岩波書店 発行 1995.9)」です。

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