情報享受と情報発信


 ブログは日本にも何百万とあり、情報が日々増えていっています。そうした情報が増えていく中で、上手く使えないとどうなるのでしょう。ゴシップにうつつをぬかし、発信する場合もクズ記事を書いてしまうかもしれません。これは楽しいこと、良いことなのかなと思います。そうした状況にならないようにするためにはどうしたらよいのでしょうか。よりよく情報を収集し、よりよく書くにはどうしたらよいのでしょうか。考え一つの形を書きました。


情報発信と情報取得の形


 情報を取得する場合には一般的に上から何も考えず降ってくるのを受け取る場合と下から拾い考えて捨てていく場合との二種類があります。

 情報を受け取る側、情報享受者として上から降ってきた情報を口をあけて待っているのはラクです。何も考えず、安心して情報を受け取ることが出来ます。一方、下から情報を拾い、捨てて行くには頭を使わねばなりません。間違っているかもしれない、という不安を常に持っています。

 上から降って来る情報が本当に正しかったり有益だったりするのであればそれこそ口を広げて待って居ればよいと思いますが、情報が口に入らない危険性があり、また、くそ不味い情報を、大量に押し込められる危険性もあります。

 情報発信者はこの点が大事で、いかに適切な情報を仕入れ、いかに編集、処理するかが重要視されます。


これまでの例とこれからの例


 これまでは前者のように国やマスコミと言ったメディアといった上がある意図を持って情報を発信・降ってこさせ、民を誘導してきました。別の記事でも書かせていただいていますが、その情報が「恐らく本当であろう」と思わせておけばよかったわけです。

 それに対し、最近では現場の下の声を拾い上げるブログが流行っています。読者に真実を知ってもらう意図を持って記事を書いていたりしています。情報が拡散されているため、受け取る側は考えなくてはなりません。

 国やメディアは自分らの意図した情報によって民が動いてくれないことに懸念しインターネットを規制する動きをしていますが、それがいいことなのかというと疑問です。


使う側と使われる側と


 こういったブログやSNSを含め、氾濫した情報を使う場合にはノイズを如何にカットするか、捨てるかがポイントです。目的を持って、頭を使って取捨選択する必要があります。その取捨選択の中で「捨てること」は非常に重要なのですが捨てることの効率化を主眼におきすぎると情報の助長率がなくなり、単調で受け入れ難いものになってしまいます。すると何かぎこちなさが残ってしまうのです。ですから捨てすぎないこともポイントの一つとなる気がします。

 情報享受に対し情報発信者はインパクトを持って宣伝するものです。カメラ技術も発達していることもあり、生放送主と称して実生活を垂れ流したり、ブログとYOUTUBEで商品レビューをし宣伝費で生活をしている人も居ます。

 こうしたことは簡単にできる一方、発信者は情報をどれだけ公開するか考える必要があるのかも知れません。確かに大衆はゴシップなどの下衆な覗き見文化を好みますが、大衆受けをすることだけを考え、ふしだらな生活をネット上に流したり人の迷惑を何も考えずに勝手に盗撮や顔写真を載せることには疑問です。見たくない情報の可能性もあるでしょうし、情報を全て公開することが良いわけでもないでしょう。ネット上に上げるということは一生残る危険あることも考えられます。ですから情報を発信する側も用心する必要があるような気がします。


結論


  • 情報享受者は何をどう取捨選択するか
  • 情報発信者は何をどこまで公開するか
それぞれ考える必要があるように思います。


それを以下を読んで考えました。
増田真樹 超実践!ブログ革命 株式会社角川書店 2005.12です。

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