博打人生から学べること


すべての計画が悪いわけではないですが


















 どんなに綿密に練られた計画でも多くの場合、実行すると計画とは異なる結果が出る。事業計画もそうで、どんなに素晴らしい計画でも一部の方が成功する中で多くの方が失敗し、そして死ぬ。それが知られているから多くは失敗を恐れて行動をしない。しかしそれは何もできなくなる意味で問題だ。ではそうした問題に対してどのように考え、どのように行動したら良いのかここでは記したい。


博打を生業とする人は多い


 「アカギ」という漫画をご存知だろうか。「近代麻雀」で連載されている漫画だが、その中で主人公のアカギは常に巨額の資金や命を懸け博打をしこれといった場面でいつも百発百中で当てる。
 多くの人はアカギの強さを目の当たりにして「つえー」「ああなりてー」などといった神にすがる気持ちがあるのだと思う。

 しかしこうした博打をする例は誰でも持っている。特に創業経営者だったら多くの場合、自分の全財産をかけて、あるいは命を懸けてでも事業をする。博打を生業としているといっていいのかもしれない。しかしそうした生業としていたとしてもアカギのように百発百中では当たらない。また当たる保証も、確立もわからない。

 なお、パチンコや競馬などギャンブルをしている人は業務で博打をしているだけで、生業としてはしていない。


博打成功者は勝者で博打失敗者は敗者?


 創業者のように一世一代の賭けをし、当たったものは成功者と呼ばれる。そうした成功者の書物が世には多くあり、時に参考になることもあるが、書物はあくまでそうした博打をして「たまたま」当たった人の記録なだけである。当たった原因を事細かに書いてる本もあるが、どうしても最終的には「運」の要素がある。

 一方成功者と同じようなことをしていても「たまたま」当たらなかった人も多くいて、それは失敗者と呼ばれる。書物なんか出せる状況にない。失敗者はたまたま「運」がなかっただけなのだがなぜか多くの挑戦もしていない高みの見物をした「外野」が失敗者の失敗した「結果」だけを見て、その者を排除し、けむたがり、そしてののしる。

 しかしこうした多くの人に煙たがられる「失敗者の素質」は実は誰しも持っている。また今成功していたとしても、生きていくうちに失敗者に転落していくこともある。

 だから未来はいい意味でも悪い意味でもわからない。ことアメリカのように貧富の差が激しくない日本では容易に成功/失敗の立場は入れ替わる。

 このことから考えるに自分も将来失敗する恐れがあることを考えると、無責任に失敗者を排除するのではなく場合によっては失敗者を「認める」こと、「ゆるす」ことも必要なのかもしれない。


運には誰しも逆らえない。


 ところで失敗をするのは挑戦や行動をしているからなのだが誰しも行動や挑戦する際には、通常成功や夢を見る。しかし結局は「骨折り損のくたびれもうけ」となることはある。結果として何の役にも立たなかったとなることも多い。そしてそうなる可能性は成功する確率よりずっと高い。となると、多くの場合挑戦する気が失せてくる。挑戦する気も起きない。

 それを防ぐためあらかじめ危険となりうる予兆を排除する方法もある。一般的に「リスク管理」と呼ばれるものだが、たとえそのようなリスク管理をしていたとしてもそれはあくまで「こういう原因であろう」という予想や考察でしかない。失敗する主要因でなかった場合もあろうしまた主要因であっても程度が考えた以上であったためリスク管理では間に合わなかったとなる場合もある。

 すると多くの場合は行動を抑制することが多い。しかし正直なところそれは間違っている気がする。

 確かに多くの行動は失敗する確立は高いのだがあくまで「運」でしかない。だとするならここぞというときには1%、あるいは100万分の一でもわずかながら可能性があるとするならば「成功に賭け」て行動することは必要だと思うのだ。


時間や生き方は不可逆だからこそ挑戦する


 なぜか、それは人生は一度きりだからである。

 何度もやり直しが効くのであればそのつどリセットして最善の方法を選択し続ければよい。が、しかし人生は一度きりだから、できる限りの選択を持ってきてその選択の中からあくまで最良の選択を得る必要がある。
 宝くじは買ったものしか当選しない。ということである。逆に言うなら当てるなら宝くじを買う必要があるのだ。

 確かにいつ博打を打つか、というタイミングは重要かもしれない。しかしいくらタイミングが悪く挑戦したとしても「運」がよければよいように働き、成功する。逆にどんなにタイミングが良く挑戦や行動をしても「運」が悪いと容易に失敗する。
 またもったいぶって選択肢を残しておいたとしても後にその選択肢が使える可能性もあるが、もしかしたら次の場面でその選択肢は腐ってしまって使い物ならなくなるかもしれない。

 これから先はどうなるかはわからない。どうなるかはわからないからこそつど力を使い切ること最良を挑戦して後悔しない人生を歩むことが必要と考える。

 さらに逆に言うと最良の選択ができない状態では人生を博打に賭ける意味がない。ともいえる。たとえば就職先を選ぶ際でも仕事でも何でもそうだが、妥協をし続けていては、最良さえも見出せないし、そもそも本気で挑戦しなくもなる。
 つまりは人生を賭けるべき時に本気で戦えるようあらかじめ準備をすることも大切であるといえるのではないか。

 そもそも失敗も成功も見方によって変わってしまうというのはまた次以降のお話。

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