投稿

4月, 2014の投稿を表示しています

社会学における理論の作り方とその適用方法

イメージ
わからないからわかったへ!  大学で社会学を学んでいる学生が多くいます。彼らに何を学んでいるかきいてもはっきり答えられない場合があります。はっきり答えられないことのひとつにはわかっていないことがあります。とすると、わかっていない状態で大学に行くことでますますわからなくなり、混乱します。こうした混乱するために大学に行くことはスポンサーの親にとっては無駄で、問題です。そこでわからない人を対象として、わからない考えをどうしたら抜け出せるか。ここでは”わからない”の一歩先にある”わかった”視点から現象の理解と理論の構築方法について書きたいと思います。 循環している世界  何事も変化しながら循環している世の中です。人間の一生も、独りの赤ちゃんから仲間を作り最終的にはまた独りに戻る運命です。人間社会も、こうした人間の一生・運命と同じように循環しています。例えば権威主義とそれを崩すための戦争です。これらは交互に起こっています。戦争によって人命という犠牲はでますが、代わりに権威の秩序で経済発展を得られます。  こうした循環した現象を理解するには、ある/ない、もしくはどの程度あるのか、といった科学的方法、数量的方法を使い測定するのが望ましいです。  本来これは小さい頃に学んでおきたいことなのですが、日本では小中学校でも情緒を作文にあらわすことを大事にしているため、科学的方法や数量的方法を使って現象を理解しようと考える人も、教える人も少ないです。これは残念だと思います。 現象の原因を分解し理論を作る 理論を別に適用する  また多くの現象を理解することを考えた場合、大局的に見ると、結果に対し、複数の原因で成り立っているように見えることが多いです。そうした場合、複数で成り立っていると思われる原因を一つ一つに分解した後、理論という概念を作り出して、別の事例・現実・現象に対して適用します。  こうした手順をとるのは、人間が理由があると覚えやすいためです。突然ぱっと出た理論よりも体系だてられた理論のほうがわかり易いことが言えます。  しかしこうして出来た理論も万能ではありません。ある理論を適用しようとしても適用出来無かった場合、理論を再構築する必要があります。ですから 人間が作る理論は常に暫定理論 です。 理論を作る方法  こうした理

他人の価値や結果より自分の可能性や希望を目的に一歩から。

イメージ
確かにお金はある程度はあったほうがいいですが、そういった他人の評価はようけ必要ですか?  学校の成績、企業の売り上げ、金など他人の価値を目的と考え、行動する方がいます。そうした方にとって、恐らくこれらのものを得たところで満足することはないのではないでしょうか。そうした満足をせずに生きることは、自分が満足して生きることを良いこととして考えた場合、問題です。そこで、ここではこうしたずれた考え方についてどうしたらよいかを書きたいと思います。 高い目標を掲げるのはすばらしいが予実の差は出る  高い理想や目標を掲げるのはいいと思います。しかし得てして目標と結果の差が大きく異なる場合があります。(大体目標どおりに結果が推移すること事態が少ないと思います。)  目標と結果が大きく異なってしまった場合、たいていは目標の立て方が間違っていたという考え方に行き着き、修正します。  また一方 で自分の考え方が間違っていなかったか も考える必要もあるように思うのです。 間違いへの恐怖は誰かの価値?  こうした目標や目的が結果と異なる、即ち間違うことに対し、世間は 「間違うことが悪いことだ。」 「合っていることが素晴らしい」 という考えをもたれることが多いようです。私の家の内外でもよく聴きますが、その価値判断、本当に合っているのかと疑問に思うことがあります。  こうした「間違いは悪」といった考え方は、小さい頃に知らず知らずのうちに親や教師などから刷り込まれることが多いです。そして誰かから刷り込まれた価値観を真に受け、それが さも自分の価値観のように”納得している”部分がある と思います。  そうした実体のない他人の価値観を大多数が持つことで安心はできますが、行過ぎると数の論理で、大多数の価値観に小数のお前も合わせろといった 「押し付け文化」 となることがあります。  私はこれにうんざりすることがあります。私のように押し付け文化がうんざりだと思うものに対し、対策を打つためには他人に左右されることなく、自分で独りで物事を考える姿勢を持つ 端的に言うと疑うことが大事 になります。  なお、上記の間違いの例で言うならば「間違いは悪ではなく」間違いは間違いとして認識し、「最終的に修正してよくなったらよい

困った人への対応 相手と戦うか逃げる

イメージ
綿棒のように折れることも戦略的にはありえます。  上司やお客さん、会社組織など、立場的にいかんともしがたい相手は居るものです。そのような方にどう対応していいものか、悩むことがあります。和を重んずる文化、形を主とした儒教文化では、自分が全てを飲み込むことを是とする文化があるのでしょうが、そうは言っても目の前に居る人に、自分の心をごまかしながら対応するのはたまりません。そのような場合のときに、どのような策をとればよいのか考えることは必要です。そこでここではその方法を書きたいと思います。ちなみに私は過去社長や会社と戦い、敗れ、そして立ち直ったことがあります。特に仕事上での対立が多いですが、そのような場合でもは間違いを起こしたからといって死ぬわけではないため、何でも勇気を持って戦って欲しい部分もあります。 誰と誰が戦う?相手の特徴  先にもありますが、会社での場合会社という組織と個人との戦いになります。そのような場合、組織は維持を目的としているため、なぜか組織内で安全な方向への舵取りをすることから迎合し抑えるべきポイントがずれます。  会社で働くことでも、家のローンがあることから働かざるを得無いといった考えが先行しそういった考えが責任感やそれに伴った行動を抑制してきます。すると、責任を取る人に対して恐怖を抱いたりします。 個人として心がけること  戦う場合にはどちらかが勝ち、どちらかが負けるわけですが、正直勝手も負けてもあまり意味のないことが多いです。勝敗にこだわるよりも、何を目的としたか、目的を達成出来たかがポイントとなります。特に人の多くは 譲れるポイントと譲れないポイントというのは人があり、それをあらかじめ知っておくと便利 です。  その際、相手に譲れるポイントはさっさと譲ってしまいましょう。また譲れないポイントに対しては相手の反応がどのようなものか、根拠となる報告書や言質と言った 証拠を用いながら理詰めで証明 する必要があります。  なお、 証拠には目的と理由、およびオープン性が求められる 気がします。成長をするため、他人の協力を得るために自分から動きます。そして信頼性を勝ち取った後に仲間と協力することで、強い力になると思われるのです。  悪い例で言うと左官業界においてセメントの品

嫌な相手と接するには

イメージ
逃げるときには全速力で逃げるんや!  嫌な人と接し、腹が立つ、どうしたらよいかわからないなどの気持ちになることがあります。こうした怒りや苛立ち、悲しみ、あきれなどの嫌な気持ちは強くとらわれると、病気になることがあります。これは問題です。そこで、こうした悪しき人に接し、悪しき気持ちになる前にはどうするか、ここではその対処法を書きました。究極は相手がどうあれ自分がどうか変わるかが重要であり、戦うか、逃げるかの選択をする必要があります。 すべてを見る  世の中は全てがわからない場合や、理解できない場合が多々あります。そうしたわからないことが多い世の中で生きる我々は、常に手探りで行動します。手探りでの行動は成功することもありますし、失敗することもあります。失敗は確かにその瞬間は嫌ですが、長期的にみると学び、伸びることが出来ます。例えば人間関係でしたら相手のことを赦すことができるようになる場合があります。  それと対極な考えに「完璧にする」ことがあります。全てわかっている王様のような気になって監視します。昔の私がそうでしたが、命令しさえすれば解決できると思っています。無駄を極力省き、効率的に物事を捉えようとします。すると人間関係では赦すことが出来ず、怒り、もしくは怯え、相手との関係から摩擦を生ずることになりえます。  今は後者の王様のような考え方を持っていたとしても、無駄が無駄でないことに気付き、それを習慣化することで前者のような考え方に変わる可能性を持つことができます。 無駄が無駄でないことに気づく  そのためには行動に際して、目先のラクさに気をとられすぎないようにすること、予定を作ることや予定を実行することに躍起にならないこと、をそれぞれ考える必要があると思います。  そしてそうしたことを相談できる 1)相手  や  2)場所  のあることを知る必要があります。  特に会社で転職をしていたりしますと即戦力が求められるため、どうしても周りの社員が敵のように見えたりすることがあります。そのような場合でも、仮に会社の中で相談できる方を作るのならば、方法として ①相手の懐に無理やり入る ②他の場所や相手を見つける ことで活路が見出せると思います。  相談できる人は全体を見据えて自分の立ち位置を教えてくれる人、父性を持って認め

現実以上の理想はなく、現実を楽しむのには支えが要るかも。

イメージ
考えすぎかもしれませんが、厳しい規制は監視されている気がして意気消沈します。 ものづくりの現場において、消費者側が法律や認定と言った 規制・理想を大事にする文化がなぜか増えてきています。 これは現実的なものを作るうえではどうしても足かせとなります。 場合によってはものが出来なくなるかもしれません。 これはものづくりを目的としているメーカーにとっては問題です。 そこでここでは規制とは何か考え、 特にメーカーの場合において規制に支配されすぎないよう 現実的な視点に立って 新しいものを生み出すにはどうするかを考えたいと思います。 理想主義者が増えている? 国に資格の保障を求める国民、協会に認定を求める消費者、 皆さんどうも規制することに価値を置きすぎているような気がします。 規制とは理想です。 これが前提になることで新しいものは生み出せないと思います。 本来の規制という理想は下図のように現実の下にあるべきものです。 図1.現実(ものの生み出し)と理想(規制)の立ち位置 しかし規制があることに安心し慣れてくると、 民はだんだん規制を高く求めるようになってゆきます。 そして最終的には規制が現実以上になります。 すると「駄目」、「してはならない」と言ったことが前提に立って、 生む楽しさや、面白さと言ったものがなくなります 。 これでは結果としていいものが生まれませんし、 何かに押さえつけられている気がします。 規制の例:携帯電話 例えば携帯電話本体が言えるでしょうか、 携帯電話は現在、 法律上は総務省のお墨付きがないと日本国内では使えません。 そしてそれを3つのキャリアが他社の参入を抑制しています。 (多くの機種を、3キャリアが、各メーカーに、製作依頼している) すると競争がなくなります。 競争がなくなると、携帯電話の普及は期待できますが 各携帯電話メーカーは差別化をする必要が無くなり 各キャリアの個性や使う楽しみ、 作る楽しみはどんどん殺されてゆきます。 これに対し、海外機種は基本的に規制がありません。 日本仕様にはなっていないため手厚い保障はありませんが 個性が出ているものが多く、 「使う楽し

物事を伝えるには

イメージ
エスカレーターでも連続的に動いているんです。  先日、母校の東京高専へ行ったときに、学生や教師など皆が皆 ぱっと出の規制やマニュアル、階層などへの執着 をし過ぎている気がしました。本来新たに物を生み出す工学系の学校でもこのような規制やマニュアル・階層に執着する人が多いことは、かなり深刻な問題なのだと思います。なぜならこうした執着は、とらわれすぎると技術の伝達が途絶え、場合によっては本来必要としないはずの無駄な教育や制度が増加したりするからです。(俗に言うバカヨケのバカヨケで更なるバカヨケが発生する)これは問題です。そこで、ここでは技術や物事の伝達を目的とした場合、受け取る側としてどのようなことに気をつけて考え、行動したらよいかまた情報を提供する側としてどう考え、行動したらよいかを記したいとます。 伝達には連続性がある  何でも完全な終わりは「無い」のですが、仮に伝達の終わりがあったとするとやり方8割、気持ち2割で伝わっていきます。こうした伝達は世代を経て行われます。しかし伝言ゲームにおいて意図した情報が、ひとりの他人でさえも伝わることが難しいように、自分と完全に同じ情報を相手に伝えることできません。「伝達」は人を介し、少しずつ変わりながら連続性を持つことを知る必要があります。そしてこの伝達される情報には①深さと②広さがあります。 伝えられる情報には深さと広さがある ①深さ、これは捨てることです。状況をあらわした絵などが例としてあり、ノイズは出にくいですが、全体はわかりません。最近小保方さんで何かと話題の論文も全体実験の一部を示しています。 ②広さこれは拾うことです。現場の状況をおさめた写真が例としてあり、全体を見渡しやすいですが、ノイズがあります。吹奏楽におけるスコアなど、自分の立ち位置、現実がわかります。論文における全体実験のノートがこの広さを示します。  これらの深さと広さがどちらかに偏りすぎると大概問題が発生します。例えば機械設計上のミスが発生する場合であるとか、期限の決まっている宿題に間に合わないことなどです。  この問題へは深さと広さのバランスを保つことが大事です。 深さと広さのバランスのとり方  これら深さと広さのバランスをとるには、素地を築いて歩みながら考えることが大切です。素地を築くために

健康は目的ではなく手段です。

イメージ
病気だったら病気に対し何かアクションすればよい話、皆に健康を強制する必要もなし  健康になることが注目されています。こうした健康を持つことが将来的にどうプラスに働くのか、あるいは長寿になって何を求めているのか疑問です。どうも無駄への投資先として健康を求めているような気がします。  個人一人で健康を大事に思っている分には問題ないですが、他の人に健康を無理にすすめる、押し付けるには過度な行動である気がします。そうした行動をとらないようにするためにはどうするか、ここでは考え書きました。 欲に執着し全体が見られないことで目標が遠のく  欲への執着は貧しく満たされない心を満たそうとするためおこります。本来は欲を持ち、それから行動に移ることが出来るのですが、欲の満たすことを執着しすぎるのは、かえって欲を取り逃がすことになります。  健康で言うならば不健康ではいけない、ならないといったマイナスな考え方です。こうした考えが更なるマイナスな考えを呼び、結果としてマイナスの行動をとっているようにに思います。  また環境が違うのにもかかわらず、一つのデータを万事適用しているケースがあります。これは状況の判断不足といわざるを得ません。 健康になるためにエネルギーが必要  そもそもこうした健康とは、ある程度の秩序を持ったものです。過少や過多は異常、即ち不健康な状態となります(下図)。 図1.健康と不健康の例  自信と一緒で多すぎても少なすぎても駄目なようなのです。ですからちょうどいいところで調整しなければなりません。そのちょうどいいところ、中途半端に居るためには秩序を保つためエントロピーを増大させなくてはなりなりません。それにはエネルギーが必要です(W/T=S(S=エントロピー:秩序 T=温度;一定 W=エネルギー))。 自分でエネルギーを消費して変わる気持ちが大事  本来身体と心、成功と失敗、思いと行動は全て連続的です。そのため失敗を知り、学びてこそ成功する行動(エネルギー)、気持ちが必要です。  ですが、これは相手に強制させることでなく、また強制されることでもありません。これを見誤ると、過度に押し付けをする教育者や横柄な医者になります。  一方、健康になろ

酒の摂取はほどほどに。

イメージ
酒も薬物なので程々摂取するのが望ましいです。  新年度がはじまり、新入生歓迎会、花見、などと年末ほどではないにせよお酒の席に呼ばれる機会が多い時期です。そうした時期に、お酒の席によりよく参加するためにはどのようなことを知っておく必要があるのでしょうか、ここではお酒を飲む場合に気をつけることを書きたいと思います。 社会人の酒  社会では「飲みにけーしょん」という言葉があります。酒を飲むことで堅苦しい関係が解け、人間関係や人脈が広がることです。酒を「道具」として用い、仕事をよりよくしようと考える人も居ます。私は普段酒を飲みません。宴会の席で飲むことはありますが。宴会以外ですと、どうしても眠らなければならないという場合に睡眠時間の調整のために飲むことはあります。  私が会社員で働いていたとき、多くの上司が”寝る前”に酒を飲んでいました。さすがに翌朝にまでぷんぷん酒の匂いを振りまいている方は少なかったですが、近くの人が酒の匂いを振りまいていると身体的に大丈夫かなと思うことはあります。  酒とどう付き合ったらよいか、ということについては斉藤茂太さんの本を読むと良く書かれていますが、あくまでストレス解消程度、ほろ酔い程度(眠くなるくらい)まで飲むところでやめるのが、よいそうです。 皆さんはどれだけ飲まれるのでしょうか。 日本における飲酒の法律と急性中毒による死  日本では法律上、20歳以上の人は酒を飲むことが出来ます。  高専は15歳から20歳までの学生がいます。ですから5回生、5年生になってから飲むことが出来るようです。大学は18歳から22歳まで居るので3回生、3年生になったら飲むことが多いのでしょうか。  こうした時期、社会に出る前に酒に自分の耐性があるのか、ということあるいはどの程度まで飲むことが出来るのかということ、すなわち自分の処理できる 「酒量の限界」は知っておくことは必要です。  自分で酒が飲めないのがわかっているのにもかかわらず一気に過大に飲酒することで気分が悪くなり、みなの前で救急車で運ばれるのはよい行動とはいえないと思います。なぜなら他人に心配を掛けているばかりでなく自己管理が出来ていないと考えられるからです。(救急車に乗るのは仕方がないですが、その前に対

変わらない基盤を持つことは大事

イメージ
高くそびえる建物も強固な地盤があってこその存在です。  叱れない上司、自立的でない人、障碍者差別をする人など本来フェアな態度であったほうが良いのにも関わらず、その自覚をもてない人や、逆に変に他人へ過剰に期待する人がいます。このような人は何かがおかしいと自分で考えるのが普通だと思いますがなかなか何が原因か、ということを考える気力も時間もありません。そして根本的な原因を解決をせずに対処療法的な行動をとっていることが多いと思います。これでは人として同じ間違いを繰り返す危険があり、成長という側面に立つと問題です。そこでここでは生じうる問題に対し、どのような考え方を持ったほうがよいか、根本的に何が大切かということについて記したいと思います。 他文化との比較で変わる立ち居地  どのような考えを持ったほうが良いかを考えた場合、日本だけで考えるのではなく、他国文化を参考にしてはどうかと思います。なぜなら知らず知らずのうちに自国の常識にとらわれてしまうことがあるからです。また、人間関係を自分から家庭、学校、社会・・・と広がった場合についての対処を考えます。  そうした地理的に広く、テリトリー範囲的に広く生きる中で、時間軸をとってみるととりわけ重要なのは幼少期です。ある程度大人になると自分の中での考え方が凝り固まってしまうからです。そこで特に義務教育前までの時期の考えが重要になると思われます。 自分からの広がりから  社会のつながりを自分中心としてみた場合、自分から近い位置として、家庭、学校、社会があります。ここではそれぞれ外国文化から考えられる重要なものを書きます。  自分としてまず、全ての基礎・基盤として自分の存在があります。そこで重要なのは宗教・倫理です。他人を殺してはいけないとか、盗んでいけないといった、古くから言い伝えられてきた規則があります。これは長い年月をもって洗練されたもので基本的に変わりません。そして大人になってよくよく倫理の中身を考えてみると、真理を突いている部分があります。  家庭として次に情操教育、心の教育を通してどう思うかを学ぶ家庭があります。母親から居てもいいと思われることや、父親からは乗り越えられない壁を知ることを知ります。さらに他者との間で生ずるルールを知る場でもあります。  学校では知識を学ぶ場としてい

組織中心から個人中心の組織へ

イメージ
円は中心があっての円で、円の形が前提なわけではない。  ほんまでっかTVにて心理学者さんがおっしゃっていたので本当かは分かりませんが、女性は男性と違ってあいまいさに対する抵抗が低く、完全性を認めたがる傾向にあるそうです。この完全性は組織にて、維持をさせることを目的にしている場合に似ています。順調に組織が成長し続けているならば、維持をすることも問題とはなりません。むしろ求められることだとは思います。しかし現在社会のように停滞期、そして衰退期になった場合、維持することをこだわりすぎると維持するためのコストが高くなり、対処を迫られます。こうした停滞期や衰退期に維持するためのコストが余計にかかってしまうのは問題です。そこでここでは停滞期や衰退期と考えられる現在、そしてこれからの組織はどう行動・変化すればよいか書きたいと思います。 これまでの組織内の諸問題と原因  日本は大昔から変化をすることを恐れているためか心の奥底に制度としての順序や秩序を大切にする「徳のない儒教思想」があります。学歴もそうですが、会社という営利を目的としている組織の中でもそれがあり、そういった徳のない儒教思想の上に権威主義な組織があると考えられます。そしてその権威主義の上に最近人気の「成果主義」があります(下図)。会社で言うなら一般社員さんは権威主義の上に乗った「成果主義」を見ることが出来ます。 図1.これまでの組織(会社を例に取った成果主義)  結果を出せば年収数千万円、などと私の勤めていた会社でも言われていました。が、この成果主義(徳のない儒教思想上の)は、実は結構厄介な問題を含んでいるのです。それは言わなくても解れ、と言った無言で共通な尺度を組織員に持たせることと(日本で言うところの空気を読む)、そしてこれからの評価は過去の出来事にのみ目が向けられてしまうため、組織の中でいかに他人より秀でるか、組織員は皆敵だといった考えを根付かせてしまいます。すると足の引っ張り合いが往々にして起こることがあるのです。そして何もしない人が偉いといった間違った考えを生み出してしまう危険性があります。  また一点を見て全体を見てしまう人間の特性から、会社の場合ですと上司や管理職のあり方として、ノルマを課したら達成でき

統計データの見誤りによる縛りつけ

イメージ
 最近①統計データ見誤り②策の使い方について考える機会があります。これらが良いように働けばよいですが、場合によっては働くこともあります。これは問題です。そこで、統計データや策が悪く働かないようにするには・どのような考えを持ち、・どう選択・どう行動したらよいのでしょうか。ここではひとつの方法を書きました。 世にある統計データの見誤り  統計データにごまかされてしまうと、 一点を見てそれが全てだと思ってしまいます。  その例として新聞記事があります。そもそも新聞はすべての大きい社会の中における出来事を新聞社の思想を元に書き綴ったものです。いわば小説です。ですから一新聞社の一記事を見ても事象(真実)はわかりません。  また大学や会社など組織のレベルを知る場合などでもあります。大学や会社などの組織のレベルは通常、各個人、教授単位などでおおよそ決まるものですが、私たちはどうしてもどこかで組織としての評価をしている部分があります。 図1,一点は見方を変えると幅を持つことがある。 真実を見極める必要性  確かに一つを信じたり組織を一つのものだとごまかされることは、考えることを放棄する意味では非常にラクです。  しかしそれでは真実は見ることは出来ない意味で問題だと思います。真実を見るということはこれ即ち成長することにつながります。成長するには多くの成長可能性を持つことが必要でそのためには多くの軸から真実を推察したり、あるいは一つの真実からでも多くの軸を見る必要があります。  そうした意味で一つの軸だけではなく別の軸を持つためには・選択機会が平等にあり・どの軸を選択しても良い自由があるといった環境がもとめられるのだと思います。  当然選択をする自由を持つ場合には、選択の結果、失敗することもあります。しかしそうした怖さを知り選択できないようですと成長が出来るませんし、 知らず知らずのうちに自分が「一つの軸」の奴隷になってしまうような気がします。 統計や策を見極めるひとつの方法  ですから複数の軸を持って真実を突き詰めるために、統計データの取り扱いや策を正しく認識する必要があると思うのです。もしくはうまく利用して相手を見誤らせます。  策や統計データの見誤りは通常、何らか、もしくは誰かしらの意

情報享受と情報発信

イメージ
 ブログは日本にも何百万とあり、情報が日々増えていっています。そうした情報が増えていく中で、上手く使えないとどうなるのでしょう。ゴシップにうつつをぬかし、発信する場合もクズ記事を書いてしまうかもしれません。これは楽しいこと、良いことなのかなと思います。そうした状況にならないようにするためにはどうしたらよいのでしょうか。よりよく情報を収集し、よりよく書くにはどうしたらよいのでしょうか。考え一つの形を書きました。 情報発信と情報取得の形  情報を取得する場合には一般的に上から何も考えず降ってくるのを受け取る場合と下から拾い考えて捨てていく場合との二種類があります。  情報を受け取る側、情報享受者として上から降ってきた情報を口をあけて待っているのはラクです。何も考えず、安心して情報を受け取ることが出来ます。一方、下から情報を拾い、捨てて行くには頭を使わねばなりません。間違っているかもしれない、という不安を常に持っています。  上から降って来る情報が本当に正しかったり有益だったりするのであればそれこそ口を広げて待って居ればよいと思いますが、情報が口に入らない危険性があり、また、くそ不味い情報を、大量に押し込められる危険性もあります。  情報発信者はこの点が大事で、いかに適切な情報を仕入れ、いかに編集、処理するかが重要視されます。 これまでの例とこれからの例  これまでは前者のように国やマスコミと言ったメディアといった上がある意図を持って情報を発信・降ってこさせ、民を誘導してきました。別の記事でも書かせていただいていますが、その情報が「恐らく本当であろう」と思わせておけばよかったわけです。  それに対し、最近では現場の下の声を拾い上げるブログが流行っています。読者に真実を知ってもらう意図を持って記事を書いていたりしています。情報が拡散されているため、受け取る側は考えなくてはなりません。  国やメディアは自分らの意図した情報によって民が動いてくれないことに懸念しインターネットを規制する動きをしていますが、それがいいことなのかというと疑問です。 使う側と使われる側と  こういったブログやSNSを含め、氾濫した情報を使う場合には ノイズを如何にカットするか、捨てるか がポイントです。目的を持って、頭を使って取捨選択する必要が

新居で旧来の現地民と接する方法。

イメージ
「あんた、門の中には入れしませんえ。」←怒れ!  今日から新年度がはじまり、学校や職場に通うため新しい住居環境で住みだす人が多いと思います。私も高専入学時から家を離れ、以後約15年一人暮らしをしています。新しい場所へ住むにあたり、問題となってくるのが人間関係です。特に旧来住む人とどのような人間関係を構築するか、悩まれる場合がままあると思います。そのような人間関係に悩まれている方に対し、どうしたら良い関係を作ることが出来るのでしょうか。たちの悪いといわれる大陸文化、保守文化への対応策について一つ書きたいと思います。 大陸文化・保守的文化がわかったきっかけ  今私が住んでいる京都はよく『 旅行したい都道府県 』といわれています。そのためか私が千葉県の中学生のときにも修学旅行で行った場所は京都奈良でした。景観も優れていて、部外者に対するもてなし感があるいいところだと”当時は”思っていました。  しかし、住んでみるとどうでしょう。景観は確かに京都市が力を入れているため綺麗です。しかし、接する地元民はおもてなし感がある行動の裏で、実は観光客をバカにしている気持ちがあります。「どうせお前らはよそから来た観光客だろ。」「こうしとけばいいんだろ。」といった気持ちが言葉や態度から出ます。そうしたことが住み出すと地元民から感じられるようになってきます。こうした言ってることと思っていることとの異なることが大陸文化の特徴です。 日本に多く分散する大陸内陸文化  こうした大陸文化は、島国といわれる日本のなかでも持っている場所は多いです。関東で言うと山梨、関西なら京都がいえるでしょうか。もちろんそういう人ばかりだというわけではないです。この場所に住む人でそうでない人もいますし、別の場所にもいると思います。割合として多いかなと思う程度です。  ちなみに私の祖父母は山梨出身の人なのですが、京都同様、山に囲まれた場所にあるからなのか大陸的な文化を持っています。一方、私は主な出身が千葉ですが、神奈川、東京、滋賀、岡山、京都とことあるごとに居住地を変えているため、どちらかというと大陸文化とは逆の海洋文化を持っていると思っています。  基本的に海洋文化を有していると思っている私は、見知らぬ人と接する場合、自分はを早めに出