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5月, 2014の投稿を表示しています

真実を歪ませ歪まされ

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一流には一流たるゆえの(悪く言うと)歪ませ方があるんです。  人は違いがあります。そうした違う人を同じように扱おうと考えた場合、何らかの形で騙す必要があります。それが社会ではいたるところであります。そのような騙しがはびこる社会の中、騙し、騙されの波に上手く乗れないと自分が生きる意味で損をしてしまいます。これは問題です。そこで騙し騙されることを上手に利用するにはどうしたら良いのか必要だと思われるポイントをここでは記しました。 人間は無理やり結論を出している  自然界は必ず無秩序で発散させる方向に行き着きますが、人間が自然界に関わろうとすると、通常無理やりエネルギーを使って収束させます。  かつての日本は能力を伸ばすための我慢や忍耐が美徳とされてきました。現在でも例えば中高で吹奏楽をしている場合、いじめを耐え抜いてこそ音楽だ、と、無理やり押し付けている部分があると思います。  これには何でも作ったものの型にはめ込みむことが前提としてあり、型を守るだけで何も考えずにいられるため非常にラクです。  しかしそれが本当のことなのか、再現性があるのかと言った問題は別になります。 だましだまされるのはよしあしとは関係ない  こうした型にはめる考えを優先すると、何も考えることなくラクに生きられますが、すると常に他人に責任を押し付けて生きていくような気がします。これは本来自分が生きているのに自分が生かされていない意味で問題だと思っています。それを避けるために本当に自分が生きようとするのならば、真実を客観的に事実を解釈し(これが騙し騙されに当たりますが)進む道を示すことで自信をもつことが重要だと思います。  これは良し悪しとは別の基準です。一般的に騙されることは悪と思われがちですが、騙されるほうが良い場合もあります。逆に騙されないことが悪の場合もあります。  この解釈とは万能です。掘り下げレベルによって到達点は異なります。そして相手(もしくは自分)の考えているレベルに合わせる形で一貫性を持って情報を送り込むことで、自らの、相手を騙す意図を操作できます。  本来何の歪みの無い統計的データ・情報でも持ってきたもしくは持ってこられた時点で、騙す意図の何らかのバイアスがかかります。そしてそれを判断す

長所と短所を一緒に持って行動する。

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長所と短所を持ちながら手段を持つことは重要です。  誰の目にも触れないようなものや芸術作品、ものづくりをしている場合があります。多くのものが日々作られていますが、そのようなものづくりをしている場合、何の考えや特徴、長所や短所も持たないまま、ものや芸術作品を作るとクオリティの高い作品を作れません。これは問題です。ではこうしたハイクオリティのものや芸術作品などを作る場合には、どのような考えをもったらよいのでしょうか。ここではものを作る考え方を記します。 職人の間にある守破離  野球を含め、音楽、ものづくりなど、職人と呼ばれるプロの世界では「守破離」が使えるといわれます。約束を守り、約束を破り、最終的には約束を離れて自分で約束を作ることです。変化という中の進化とも言い換えることができます。   守破離を体感するには  そのためには意識を意識と思わないことが大切です。昇華といいましょうか。たとえば恋人作りの場合にも、恋人を作りたいと思わないほうがかえってできるといわれます。集中して意識していたことを忘れ、修羅場や勝負どころで冷静になることで適切な対応を取ることが出来ます。 真似し捨て加えることで作る  先人の様を見て技術を真似し、形を盗む、そして不必要な部分を捨て、必要な部分を付け加えることで新しいものを作ります。例えば特許なども同様な手段で作ります。Jazzと電気ギターをあわせてSKAができることも同様でしょう。 作るには・・・マイナス面をも持ち合わせる  なお、新しいものを作る場合には長所を一点持ち、それを広げます。すると短所をカバーすることも出来ることもあります。また、見方を変えると短所も長所となることがあります。そう考えると皆、短所と長所は表裏一体で有しているものです。ですから短所しかないと思っていてもそれは長所を見つけられる人でもあります。  この長所や短所を見つけるためには ・余裕を持つことと・失敗の恐れを持つこと、 これらを同時に持ちながら行動することにあると思います。  さらにこうして出来た長所を基準にあわせること、そして相手がどうあれ自分の手中におさめること、これが重要になるのかもしれません。 作るものを支えるものとしての役割  そうした行

目を見て話をすることが難しい人への交渉

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猫でも視線を突きつけられるとこわひ 国立高専で存在する監視の目・閉塞感  最近の学生はなかなか心を開いてくれないそうです。先日母校の高専に遊びに行ったときに先生方が言われていました。教育現場の学生と先生が常に監視の目にさらされ、なんともいえない緊張感があるといわれています。  学校が学生さんや生徒さんを預かっている関係上、親からの責任を感じざるを得なくなっているようです。ですから、学校側も学生側に常に「~をしてはならない」と言った予防線を張った対応をせざるを得なくなります。そしてその予防線が前提の上に考えている場合、考え方の閉塞をしてしまうような気がします。 閉塞感からの気持ちの変遷 目を伏せがちな行動  閉塞するとどうなるのでしょうか、恐らく接する人接する人全員が敵のように思えてきて「ここで自分が出たら笑われる」「ここで出すぎたら恥ずかしい、くいを打たれる」と思われる部分があるのではないでしょうか。なにか去勢されたような印象を持つことがあります。  確かに規則を重んずる場合であったならばそのようなことはあるかもしれません。しかしそれがぜったいだと考えられてしまうと、いざという場合に行動が出来なくなり、本来目的としていることさえもすることが出来なくなってしまいます。そして人と接することが苦手になり、目を伏しがちになります。 対応する人の気持ち  そうした目を伏しがちな人に対し、交渉や対応する人は「目を見ないからこいつは何も考えてないのだ!」とつい考えてしまいがちです(かつての私がそうでした)。しかし本人らは話したいことや欲求を持っていることがあります。  相手のことは変えられませんが、自分は変えることがでます。そうした対応を自分なりに変えられる人が必要なのだと思います。高専でいうなら先輩であったり、先生であったりする人々です。 気持ちを引き出す方法  そのため大切なことは相手の関心を引き出す必要がある気がします。引き出すこととは相手の興味を持ったことを出してもらうことや、悲しみ、怒りを素直に表現してもらうことです。そのためには私の場合は多少過剰な干渉をすることもあります。  過剰な干渉には叱ることも含まれます。ただ、叱っていると思っていても、相手にとっては怒っ

守りと攻めの考え方を持つ

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本当にその学位、意味あるのかな? 変な学歴社会   守ると維持を目的として行動する。 これは無駄を排除しているように見えて、実は一番の無駄になっている気がします。その代表が、MBA、MOT、法科大学院など高度専門職業人教育を目的とした大学院です。  このように大学院に行けるもの、すなわち金持ちだけが資格を得られることは、何か目的を見間違っているような気が私はしています。  そうした間違っているであろう考えを気付く機会は、あまり無いのではないでしょうか。そこでここではこうした間違いに気付くため、守る考え方と反対の攻める考え方について書きました。 守られる立場から見た大学・大学院観  地位をおかされることも無い立場でいるとどうしても立場を維持することを考えがちになります。そうした維持を目的とした考えを保守文化や、権威主義といったりします。  こうした考えは、大学の中にも有ります。大学進学率が向上した最近では、高度専門職業人教育と銘打って、次から次へと大学院が設立されています。こうした大学院が出来る背景には、箱物文化をつくることが謳歌しすぎな部分がある気がしています。そもそも「高度専門職業人教育」とはいったい何で、それはいったい誰が教えることが出来るのでしょうか。  内容を調べると、かつての学部が、大学院という箱にシフトしただけのようで、難関資格を取るために長期間教育するといって要るものも有ります。これは 目的と手段が逆転した、何のために行くのかわからない状態となっている ことが根底に存在するように思います。 資格は必要か。誰のための資格か。  そもそも大学院をはじめ、資格を取得すればOKと思っていることが疑問です。大学院の中にはベンチャースクールもあるようですが、そんなものがいるのでしょうか。 ビジネススクールでいったい何を学ぶのか 、計画通りに行くことを学ぶのでしょうか。MBAの出されるケースメソッドでは恐らく現場で見られるようなドロドロとした人間関係は無いものと扱うのでしょうし、そうした机上の空論を学ぶ意味があるのでしょうか。MOTを含め、誰が、何の目的でしているのか、考える必要があると思います。 守ることは死ぬこと?攻めることは生きること?  それともこうした高

協力して成長するor諦めて離れる

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協力してくれる人は身近にいる・・・かもしれない。 我々は常に変化している 状況や環境など、一瞬では無変化に見える場合でも 人を含め、生物は死ぬまで、いや死んでも変化し続けています。 こうした変化は生物の挙動に対してぜったいで、 感情などで変化に抗おうとしたところで結局は無意味です。 そうした無意味な状況の中でも、何とか理由をつけて 原因や対策を考えることの一つに学問があります。 人の変化で言うなら心理学や医学などが良い例です。 人間の感情は増やすと捨てるで成長 甘えの構造の場面で出しましたが、 人間は本来多くの感情を得ています。 そのなかの感情を選択し、言語化することで整理し 表現したり体系的に分類することにとよって成長します。 しかしこうした感情の選択のすることを面倒だと感じてしまうと 表現が出来ないことから、整理や分類、分析が出来なくなり 結果として成長しなくなります。これは問題です。 ですから成長するには感情を取捨選択します。 男女も取捨選択の関係が成り立つ 感情だけでなく、人の存在もそうです。 ヒトは性別として基本的に男性と女性があります。 男性も女性も、取捨選択の関係が成り立つと思います。 ですから成長するには男性と女性は 取捨選択、即ち協力することが必要になる場合があります。 以下に男性、女性のそれぞれの傾向を示します。 女性の特徴 遺伝子的にも男性に比べ障害を抱えにくく優れている女性は 複数のことを同時に考えることができるため欲張りになりがちです。 また完璧傾向もあり、何でも手に入れたいことがあるため 例えば社会進出して子どもを生まない場合でも 「まだ大丈夫」と自分自身に言い訳をして意図的に忘れ、 先延ばしにしようとしてしまいます。 そして突然、あの時はああすればよかった、などと懐古しだしたりします。 違いを認めることが難しく、誰にでもいい顔をすることから、 バーンアウトしやすい傾向にあります。 男性の特徴 それに対し、遺伝子的には障害を抱え易いですが 一つのことに一つしか考えられない男性が居ます。 あいまいさを受け入れ、多くを望みません。 それゆえ、相手に対して期待する基準の低い考え フラット

大学に行くことと生きる力を育てることとは異なる。

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鳥さんも生きているんです、彼らは学歴とか関係ないでしょ? 時間変化による社会的状況と地域的状況 集団的な平等さから個の実力へ評価が移っている現在 女性の社会進出が望まれている社会では、高学歴化が進んでいます。 短大よりも4大への需要が高いです。 一方、中等教育公立学校では勉強をする力の弱い子の力を上げるため 秋田や福井などの一部地域では特殊な試みが実践されています。 それらの地域では統一教材から平均的な学力アップがなされてはいますが、 他県では教師側にも実態把握の面倒くささがあり、 恐らく教材会社から学校への賄賂を断る勇気も無いことから ある程度以上の学力向上は期待できないと思われます。 また福井や秋田などの地方ではせっかく上げるようにした教育努力も 力を生かす場所が無く結局勉強への意欲低下へ進行しているようです。 残念でなりません。 隠れた国民意識 こうした高学歴を求める原因は 国民の総ホワイトカラー化な考え方があります。 どうも皆さん高等教育を受けさえすれば一流企業に入れ 且つ誰しもが高給をもらえると勘違いしている部分があります。 はじめに言いますが、そんなことはありません。 また ・何のために大学に行くのか考えることが少ないように思います。 大学の中でも昔は多かった試験一発という科目は少なくなっているようです。 本来学力が足らないものは留年をするのが常ですが、 それも少なくなっています。 ・良い大学とは他人の価値観から評価されたもの といった間違った解釈をする人も多いと思います。 確かに良い場合もありますがそのようなことはありません。 別次元の話です。 これらの考えはなんとなく みなが同一の価値観を持っていることが望ましいと思っていることと 入学後に選別をしないことによる 全体への低下とが原因としてあるのだと思います。 現在大学の平均的な留年率は10%前後だそうですが、 私が在籍していた頃の高専や理系大学は留年率は30%程度でした。 学力維持のためには入学後のこうした選別は止む得ないと思います。 ちなみに私の卒業した佛教大学の通信では 入学者に対して10%程度しか卒業していません。 制度そのものへの疑問 そもそ

相手のことを否定するのは簡単

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You DON't って言うのは楽です。 否定は簡単です  「お前だめ。」「これがいや。」…など他人を否定する方は多いです。そしてこれは自分で何も考えず言いっぱなしなので非常に簡単です。一方否定から先に一歩進んだ話をする方はあまり多くないと思います。  こうした否定をすることの原因は相手への共感力が不足していることによるものではないかと思います。不安も勿論ありますが、極端な気持ちにこだわりすぎ、また易きに流されることで安易に妥協している部分があるのかもしれません。  このような否定的な考えを常に持っている場合、相手との関係が悪くなってしまい、問題です。そこでここではこうした否定的な考えを克服する方法を記しました。 なぜそう思ったか  なぜ否定するのは簡単と思ったか、それは生み出すことは否定すること以上に大変なことに気づいたからです。また否定している自分をあらためて考えた場合、安易な道を選択し、守られる立場に居ようとしているだけで 結局は何も生み出せていない ことに気づいたからです。  こうした気持ちの原因は相手への共感の不足と書きましたが、要するに自分が相手の立場に立たず、何ともする気が無いのだと思います。また、そうした何ともする気がない気持ちの裏側には、 体裁は保てるぞ、といった保身 存在を認めたら負けるな、といった恐怖 相手への羨み、もしくは嫉妬 と言った どす黒い、腐った気持ち 「弱いこと」をアピールしたい気持ちが 存在していることもわかりました。  「弱い犬ほど良く吠える」、と言った言葉もありますね。それです。もしくは「負け犬の遠吠え」ともいえます。 否定からの対策  そこで、否定的な発言や気持ちに対してどうしたらよいのでしょうか。相手が否定している場合と自分が否定している場合とで考えて見ます。  相手が否定している場合は、相手の否定している言葉と感情をわけ、感情はひとまず置いて相手の内容を聴く必要があります。そして相手の言葉の内容が明らかに助言でもないし、あるいは中傷を目的としている、つまり否定したいだけの発言であった場合には否定をしている相手から距離を置きます。自分は変えられても相手は決して変えられませんし、そもそも相手の否定に付き合うこと自体が無駄だからです。

流れを知り流れに乗る。

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流れを知ることで、乗れる可能性があります。  現在は昔と比べ、比較的自由にいろいろなものが選べる時代です。選択した結果によっては安定や安心からラクを得ることもできます。しかしこれを前提に、即ちラクや安定を前提に選択するとどうなるのでしょうか。恐らく真の満足は得られないのではないでしょうか。こうしたことは、私は本来の流れに逆らっているようで不健全だと思っています。そこでここではこうした本来の流れに乗れていない人が、本来の流れに乗って生きるにはどうするかを記します。 変わる価値観  結婚や恋愛の価値観は時代や状況により変わり、個人間でも異なります。昔の日本ではこのような人と人との関係は周りが決めていました。今でも田舎や農村部に行くと、周りが人との関係を決める考えの受け継がれていることがあり、特に男女の結婚でさえも平気で他者へ介入してきます。これは問題です。 生物は進化しにくいことを知る  何が問題かというと、「人間という生物進化の流れに逆らって周りが気持ちを押し付け、無茶なことをしていること」が、です。私はこれに違和感を感じます。 通常、単位時間当たりの変わりやすさは「気持ち>社会制度>生物進化」 なのだと思うのですが、行動や考えの第一を周りの気持ちといった短期的なものにすると、社会制度や生物進化といった長期的なものを無かったことにするのではないでしょうか。それぞれの特徴を以下に記します。  (生物進化)とは少しずつ、何百年、何千年あるいは何万年という時間を経て変化します。自然界が決めるものです。必要ならば残し不必要ならば無くします。  (社会制度)とは数年単位、あるいは数ヶ月単位で変化します。人間の社会が決めるものです。意図を持って増やしたり減らしたりすることが出来ます。  (気持ち)とは瞬間、もしくは数日、数ヶ月で変化します。個々人が決めるものです。私が誰かを好きになったりあるいは嫌いになったりすることです。  自然界や人間社会などはどうしても自分の融通が効かないので、ついつい自分で決めやすい「気持ち」を前提に行動してしまいがちですが、そうすると、制度をはじめ、生物進化などの遅い変化を無かったように、即ち認めなくなります。  すると表面的な褒めや全てを掌握したいといった考えか