地に足をつけた考え方や行動のおすすめ

 最近メーカーに勤める知り合いと話す機会がありました。発言の内容から彼は凄く絵空事のようなことを言っているなと感じました。そのような絵空事を言うこと自体は問題ではなく、私個人としては何も言いません。しかし近年そのような絵空事を言う人が活動の幅を広げて多くの人を巻き込むようになってきています。多くの人を絵空事のような考え方で巻き込むようになると個人が幸せにはなることは難しいと思います。だとするなら問題です。そこでここでは皆さん個々人がどのような考えを持って行動したらよいかを書きます。結論としては地に足をつけた考え方や行動をすることが大事だということです。


障碍者障碍者言う知り合い


 最近私の近くにものづくりのメーカーに勤める知り合いができ、話をする機会がありました。彼はメーカーに何年も勤めており、やたら「障碍者が、障碍者が」と熱く語っている様子がありました。
 話をするに今まで彼は特段障碍者に興味があったわけではなく、身近にそのような人が居たわけでもありません。確かに人と接する上で障碍者向けのエンジニア製品を提供している人と接する機会はあるようですが、それゆえそのような方と話をして感化されたような感じがします。
 障碍者に対して物を売ること自体は決して悪いことではないですし、「協力してくれる人が居たらいいね」くらいにしか思っては居なかったのです。ですが最近はどうも彼がその障害者をネタにした活動の幅を広げてきたそうなのです。このままでは多くの人が「良しと思っていないのに声の大きな人に流されてしまう」危険があるなと考えました。


恐らく一般的な人と彼らの動きの違い


 私はこれまでメーカーで研究者として働いてきた経験から、会社の中でも「はみ出しもの」な部分や自覚はありましたし、良くも悪くも異常者という意味では正直精神障害に近い基質を持ち合わせていると思います。
 ですからこそ僕と同じような人に対しても仲間が居るということ、いててもいいということ、生かせる場所があるかもしれないということをそれぞれ啓蒙していきたいと思い、精神保健福祉士として活動してきました。
 そして恐らく障碍者向けにサービス製品を作っている人も恐らく、僕と同じように自分自身の経験や身近な人の経験から「なんとかせなあかんな」と思ってそうした不具合を対処できるようなものを作ったのだと思います。

 しかしそれをあかの他人がやいやいってその会自体のことを広げることに私は問題があるような気がするのです。まだ「市場開拓を目的としてそのようなお客さんを求めたい」などといった真の目的を出すのだったらいさぎ良いと思いますし、協力者も出てくるかもしれません。
 得てしてそのようなあかの他人な人は目的を隠します。恐らく障碍者障碍者言っている人は「一般市場では太刀打ちできない」から「障碍者市場に活路を見出したい」のだと思いますが、きっとそのようなことは認めません。なぜならメーカーとして「誰にでもいい物を作っている」というプライドがあるからです。

 そもそも障碍者事業では通常の市場原理が働きません。障碍者市場では政府が湯水のごとくコネがあったり自分の利をもたらしてくれる場面にお金を使います。それを知っていて意図して市場を開拓し輪を広げようとしているのだとしたらそれこそメーカーとしての活動辞めたら?とも思います。


ひょっとして自分に酔ってる?


 いきなり障碍者の市場に参入しなくてもよいと私は思うのです。というよりわざわそこに参入する必要は無いのではないかと思います。

 研究や開発のもととなる一般的な「発明」と呼ばれるものは、基本的に過去の産物の延長線上にあります。若しくは行き詰まった際の逆の位置に存在していることが多いのです。実際に発明したことのない学生はわからないかもしれませんが、何段も飛ばして発明することなんて世の中では殆どありません。何故なら何段飛ばしの発明では一般の人が発明だと理解できる土壌に無いからです。当然理解できない事柄は「発明」ではなく「失敗」と映ります。私は障碍者事業に参入しようとしている彼がこの失敗と同じようなことをしているような気がしています。

 ものづくりをしているとどうしても自分の作っているものが相手のベストだと思いがちです。しかし必ずしもそのようなことはなく、また不具合を解消してこそ意義があるなどと思っていることがあるのかもしれませんが、逆に不具合があるからこそわれわれの生活にとって役立っていることを知る必要もあると私は思います。
 もしくは普段(一般市場)自分のしていることが悪いことと思っているからせめて普段以外の場所(障碍者市場)ではいいことをしている姿を見せたいと思っているとか。 だとするならそうした姿は完全に”酔っている”としか思えません。


他の問題点


 彼はもともと高専の出で私もそうですが、高専という同じくくりで見てみますと効率的以外を見出すことが難しいという意味で問題があるように思います。
 確かに目先の課題を解決する意味では高専はものづくりの業界でなくてはならない存在だと僕自身は思います。しかしどうしても無駄を排除するという意味で偏った考えになりがちですし、専門性は大学生と劣らないともいえない部分はあるかもしれませんが、教養は一般大学生と比べると劣る部分があると私個人的には考えます(無駄だと思って排除したところにこそ本当の答えのある場合があるから)。
 とすると、専門分野に突っ走る意味では大変重要ではありますが、「そもそも突っ走ろうという道はその道で良いのか」と考える場合には多くの可能性を「吟味し」たり「最善ではなく最良の選択」を選ぶ意味では教養的な部分が必要になってきます。それを考えると「突っ走ること」と同時に若しくはそれ以上に「考えること」が必要になってくると思います。

 またその輪を与えるものだけで勝手に広げようとしていることにも問題があります。そもそもなぜ彼らは障害者支援の輪を広げようとしているのでしょうか。私は「売り上げを上げるため」に障碍者を利用しようとしているようにしか見えません。何故ならそれに関わっている人の多くがメーカーの人だからです。どうも私には一般消費者に売ることが難しいから障碍者向けの市場に手を伸ばそうと考えているように思えてなりません。

 加えて、安全地帯に身を置きながら危険地帯を観察しているようなさまも問題のある気がします。経営者に対する多くのコンサルタント、大学教員、一般会社員などもそうですが、「お前らは分析が好きなようだけど自分が死ぬかもしれない経営の現場や実践の現場で実際に戦ったことがあるのか?」問いたくなります。そうした意味ではリスクを負わないで障碍者市場を観察しているような人は私個人として思い上がりもはなはだしいと思ってしまいます。


問題点を解決するための手法


 ですからいきなりガバッと何段飛ばしの見識を広げるではなくて、徐々に見識を広げていく必要があると思いますし、自分の実践してきたことだけを淡々と語る場を持つことだけでも、持つことは良いことだと私は思います。
 もしくは地に足の生えた泥臭いDIYから技術力で人を集めてみても決して悪いものにはなりえないと思うのです。お客さんの意見を無視した会主導で人を集めたとしても会の発展をしていかないことは過去の企業の発展具合を見てもわかると思います、し、「何か出来るかもしれない雰囲気」で人が集まったとしてもそれだけは決し何も出来ないと思います。
 そうした意味では出来ることからこつこつと自分のできることをすることが次世代への発展を促すことのできることなのではないでしょうか。死ぬまでの期間はまだ長いのでしょうからこつこつしたいことをしていけばいずれ必要となる場所に必要となるものが行き渡ることはある思います。

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