運を良くする方法=命をかけることから=

 多くの人が考える「運」は普段何気なしに生きている状況では良くも悪くも「引き寄せる」ことや「影響を及ぼす」ことは出来ない。しかし一つにリスクをとることで「自分の行動」から運を引き寄せることが出来る。ここではリスクの中で最大と思われる「自分の命」を使った場合について考え、それを「どう生かすか」例を交えて書きたい。なお、人間死ぬ気で行動すればたいていのことはかなう、とよく言われるが、それは概ね正しい(かなうと言うよりは良くなると言ったほうが近い)ことをここでは書きたい。


多くの人から見た運とさだめ  


 一般的に運はどうしようもない。それは当然のことで、なぜなら人間にはできることの限界があるし、自分のできること以上のことをしようとしても無理だからである。
 そのようなどう頑張っても限界がある世の中で、特に我々が考える普段の「満たされた状態」では決して運を左右することが出来ないわけだが、一方でその「運」と言うものはある「自分の考え方と行動」を通して引き寄せることが出来る。
 そのような引き寄せ、即ち「運を良くする」、若しくは「運が良くなるようなチャンスをつかむ」ときには通常「自分の中でリスクを負うこと」が大切である。リスクとはすなわち「価値のあるもの」や「唯一のもの」を指す。例えば「お金」や「財産」はもちろん、究極の例で言うならば「自分の命、人の命」などもそうである。「失敗したらなくなってしまうもの」は価値が高い。
 「失敗したらなくなってしまうものの価値は高い」ことを考えると、通常「お金」や「財産から交換したもの」は多く替えが効く。替えが効く意味では価値の低いものとも考えることが出来る。またお金や財産自体もかけて失ったとしてもまた稼げば手に入れることが出来る。そうした意味で「お金は凄く大事なものとは言えない」のかもしれない。


大事なもの=例えば命 

 一方先にも示したが最も典型的で大事な物として「人の命」がある。「命をリスクの対象にする」と言うことは行動を起こしたときに失敗すれば「死ぬ」と言うことだ。殆どの人は自分の命がなくなることに直面すると(普段は考えることはないだろうけど)惜しいと思う。例えすぐに病気で死ぬ人であってもだ(あくまで一般的な話でサイコパスのような飛びぬけた考えを持っている人は除く)。誰しも最終的には自分の身がかわいいからこそ、それをリスクの対象としてかけることは抵抗を感じる。しかしそれを差し出すと得られる報酬は絶大なものとなる。
 もちろん命をかけることをリスクの対象として考えてしまうことで下手をしたら死んでしまう恐れはある。しかし自分が自分として認識しうる機能をリスクとして負える対象物として考えることが出来るならば、例えば死ななかった場合、「生きている」ことが改めて認識できるだろうし、また「生きていて運が良かった」と考えられるのではないか。それに命をリスクとしたかけの対象で負けて死んでしまっても、それはそれで諦めがつく部分もあるのではないかと考える。
 そのような「命」をリスクの対象としなくとも、それに相対するほどの大きなリスクを負うことで、「生きる」「死ぬ」と言う現実的な問題から「生きるための本能的・感覚的な鋭さ」から「運の良さ」を認識することが出来ると考える。


試しに断食をしてみる

 例えばの身近な例として「断食=ファスティング」がある。
 断食とは命に直接的な「食べ物」を制限して「死ぬかもしれない」と言ったリスクを自分に課すことだ。
 そのような行為をすることで自分の体が飢餓状態に陥り、一時的には体調が不安定になる。食べ物を食べないため体力的には落ちて動くことが出来ない場合も人によってはあるものの、多く断食を続けていると、あるときに「自分の動物的な感覚」を取り戻す。
 すると断食の最中若しくは回復食に復帰するときに、今まで味わったことのないような少ない食物の量で満足感を維持することが出来る。多くの断食から復帰した人が往々にして「美味しい食べ物が食べられて良かった」と思う。これは自分の生物としての生きる感覚を改めて研ぎ澄まし、また生物としての不満足感が満たされることによって、心からの幸せを感じているものと考えることが出来る。
 それを考えると断食をすると「命の危険と引き換えに幸せを得ている」と考えることが出来るのかもしれない。


削った命の先に見えるもの


 特に命をリスクの対象とした場合で、かつ生き残った場合に関しての話になるが、そうした行為から得られた報酬として最終的な結論としては結局「生きていれば何でも良いではないか」、ということになる。
 普段誰かから与えられたご飯を食べ、誰かから与えられた住居に住み、公共団体が作った道を歩いている分にはまったく考えることはないかもしれないが、生き方のスタンスとして自分の命をリスクの対象として考えることで、改めてその「生きていること」や「自分が生きていることは良いことであること」を認識できるようになる可能性がある。
 そしてそのように考えが転換できると、生きていることに対して感謝したり満足することが出来る。満足することが出来れば最終的には運もめぐってくるし、自分自身が幸せなを認識することが出来るのではないかと考えている。それを考えると一言、「誰しも運の悪い人なんて居な」く、自分の考え方と行動しだいで運も幸せも引き寄せることが可能と考えるのである。

コメント

このブログの人気の投稿

精神保健福祉士の実習 指導者が必要なもの5 細かい考え、コメント

恋と愛との違い、愛への昇華方法

理系と文系とにおける論文作成方法の違い