人づくりと野菜作りの似た点・共通点

 僕はかつて福祉事業所で野菜を作っていたのですが、今思い返すとあれは人づくりと似ている点があると思いました。そうした「人の成長」と「野菜の成長」とを共通点として書いた文章は少ないと思います。そこでここでは人の成長・自立について野菜作りで例えれば多少は理解しやすいのではないかと考え文章にしました。この文章を読んで一人でも多くの人が自立してほしいと思っています。





野菜作りが人づくりと似ていると思ったきっかけ


 かつて僕の所属していた福祉事業所では畑で野菜を作っていました。その時のことを何年かぶりにたまたま思い出して、人と野菜といずれも成長をするにあたっては似た点や共通点があるかもしれないと考えました。
 「似たようなところ」とは、野菜作りも人の成長も基本的に「自分一人で影響を及ぼすことのできることは少ない」ところです。人も野菜も他者や日光などの外的要因が成長には必要だと思います。加えて人の成長や自立というものは目に見えません。ですからこのなんとも表現しきれない人の成長や自立といったものを、目に見える「野菜作り」に例えることでもしかしら人の成長や自立を理解することへの手助けができるかもしれないと考えています。そこでここでは試しに文章を書いてみました。
 ちなみに私が考える野菜作りにおいて大事だと思われる点は四点あります。上のつぶやきでも示していますがその四点とは「土地」と「種」、「水分や栄養分」と「待つ時間や待てる心」です。詳しい内容を以下に記します。


あってもいいのは素質(土質、土壌環境)


 そもそも人が成長したり自立したりする場合においては「素質」が大切と思われます。以前の記事でも記していますが、私の考える「いい素質」というものは「誠実な人」や「素直な人」です。そのような人が僕は好きです。
 素直さや誠実さが備わっている人は土でいうとよく耕されていたり日が当たったりすることで、野菜の育ちやすい土地だと思っています。この地質や環境がよくなければいくらいい種や栄養・水分を与えても野菜はよく育たないと思います。ただしこれが必ずしもなくてはならないというわけではありません。たとえ野菜の育成に劣悪な環境であったとしても、土壌改良をすることで「野菜の育つ可能性」はあります。つまり人でいうところの誠実さや素直さといったものは時間経過に対して変化をすることで得られる可能性があるということです。
 なお私が京都の福祉事業所で野菜作りをしていた時は、最初稲作用の土地に野菜を作っていたことがありあまり野菜がよく育たなかったと言います。しかし土の入れ替えなどを通して年単位で土壌改良をすることで最終的には野菜が育つようになりました。これと同様人の成長や自立においても、今はひねくれていたり言葉が理解できない状況であったとしても時間経過に対する変化によって誠実であったり素直であったりする人に変われると思います。


最初に必要なものは気持ち(種)


 次に大事なのは「気持ち」です。ここからは「野菜作り」「人が成長や自立する場合」において必須なものです。多くが「相手を思いやる心」であったり、「いつくしむ心」「楽しさ」です。ただし気持ちの中には嫉妬心や憎しみの心のようなものもありますがそれらはいりません。嫉妬心や憎しみといった気持から発露したものは後々にあまりよろしくないものを生む気がします。あるいは自分を傷つけてしまうこともあるでしょう。ですからあらかじめ嫉妬心や憎しみの心は自分の中で昇華させておく必要があるように思われます。自分一人でも考えることももちろんできますがそれだけでなく第三者の影響を受けることで自分の中に気持ちが植えられます。
 野菜でいうところの「気持ち」は「種」に当たると思います。「気持ち」は「種」のように成長や自立するための源泉にあると思いますし、そもそもこれ(種)がなくては野菜作りははじまりません。野菜を作ろうとしているのに野菜の種を植えなくては野菜はできないと思います。ですからそのための野菜の種を植えるのです。もちろん果物や葉物を品種改良させて種から野菜を植える必要はないかもしれませんが、純粋に野菜を育てようと考えるならば種から育てられれば一番いいと思います。
 種を植えるにあたって注意することは、「純度の高さ」や「新しさ」(気持ちの素直さや真新しさ)が必要になるように思います。純度の低い(素直でない)種を植えても発芽しない可能性がありますし、また昔の古すぎる(遠い昔の気持ち)種を使っても発芽率の低いことは野菜の種も一緒です。気持ちにも種にも旬があると考えています。


そして水分・栄養(認めること・褒めること)


 いい素質に気持ちが植わったとしたら、次に大事なのは「認める言葉・褒める言葉」です。「認める」とは「相手のありのままを認識すること」で、「褒める」とはその「認めたことを強化すること」です。すなわち人と人とは違うことを認識してもらい、その違いを知って自信を持ってもらうことが大切なのだと思います。
 野菜でいうと、これは土に植えられた種に対して栄養分や水分を与えることであると思います。適度な量とタイミングを適切に当てることが大切です。
 人が成長や自立する場合にしても野菜作りをする場合にしても、栄養や水分・認める言葉や褒める言葉においても少なすぎても育つことはないし、あるいは多すぎても気持ちや種を腐らせてしまうという危険性があります。ですからそうした意味ではこれらは「適量」を与えて観察することが大切であるように思われます。 適量とはいったいどれくらいだと言われると、人によっても異なるしタイミングによっても異なるので明言することはできません。しかし少しづつ与えていって反応を観察することができれば適量を判断することができるのではないでしょうか。いずれも「覆水盆に返らず」なので、「過ぎたるは及ばざるがごとし」なことを認識して僕の場合は少しずつ与えてみています。


最後は育つのを楽しみに待つこと


 最後の段階においては野菜作りも人づくりも共通する部分として、「野菜や人が育つのを楽しみに待つこと」が必要だと思います。要は「相手の気持ちや野菜の成長することを待つ時間が必要」だということです。野菜も人も成長は他人が関与することはできません。これは書きようによったら「勝手に育ってゆくもの」だと認識することができます。言い換えると「お天道様の采配に任せる」といったところでしょうか。
 ですから人に対して成長していないのに成長をせかしたり、あるいは野菜であったら芽も育っていないのに土を掘り返したりしては、せっかく放っておけば芽吹くものも芽吹かなくなってしまいます。 現代は数十年前と比べて非常に便利な世の中になってきています。より早く、より生産的にものが作ろられている社会において、どんどん「待てない」世の中になってきているように思われます。そのような変化の激しい社会の中では逆にゆっくり待つ時間を持つこと、待つことを楽しめるだけの心の余裕を持つことがより大事になってくるように思います。
 なお上記のように多大なリスク(気持ち、言葉、時間)を負ったとしても残念ながら何らかの不具合によって発芽したり成長・自立できないこともあります。こと人の心の場合にはそのことが顕著であり、自分一人ではどうしようもできないです。ですから「相手が自立したり種が発芽することを期待しない」方がいいかもしれません。なぜなら発芽しなかったり成長・自立することを期待してそうならなかったらがっかりするからです。ですから種を撒いたり相手の自立にかかわる場合には発芽したり自立や成長しない可能性も念頭に置いて、「種をまいて栄養や水分与えて芽吹いたらラッキーくらいの気楽さ」「ダメでもともと精神」を持つことで気分よく待てるのではないでしょうか。

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