他の人を知るには























人を知りたい

人と人とは違います。恋人であっても親子であってもそう。
「利を追求する」といった機能で繋がっている社会での関係なら
なおさらです。私たちは生きているうちに非常に多くの人と付き合います。
人はそれぞれ違う部分があるので、他の人のことを知りたいと思います。
ですから私のように質問をする場合もあるのだと思いますし、
あるいは噂話で盛り上がったりするひとが居るのも、またあるのだと思います。
しかし、他人を知るだけでいいのでしょうか。
実は他人以上に自分のことを知っていないことがあるのだと思います。


分のこと

自分ことは自分では残念ながらわかりません。
自分の顔であってさえも、どこに鼻があるのかであるとか
パーツの場所さえわかりません。行動もしかりです。
最近ではビデオなどの技術も発達していて、
それを使うことで自分の行動を省みたりするケースもあります。
自分を客観的な視点で見てみると、新たな発見をすることがあります。
例えば「声」です。自分の考えている声は、通常骨を伝わってきているため
テープなどで再生したときとのものと違いがあります。
私も最初「うわ、恥ずかしい」と思っていたこともあるものです。
ま、それも慣れるとなんてことはないのですが
慣れないと嫌なもんですよね。


分の理解と他人の理解

自分の理解が他人の理解と異なっているとき、
あるいは自分でも先ほどのようにビデオで撮った時など
自分が本来考えている行動と異なっている場合、
人はそれを一般的に「誤解がある」と言うてます。
考え方に誤解があると、行動も変わってきてしまうため、危険です。
自分は良い印象を与えたいと思っているのに他人からしたら
ぜんぜんい良い印象ではないなんてこともあるのだと思います。
好かれようとして嫌われているのと同じ状況です。


決方法

それを解決するにはどうするか、それはイメージを変え行動する、
「変わる」ということだと思います。
「変わりたいなあ」と思うのは結構だと思うのですが
そう思う以上に行動することが必要です。

そういった相手にいい印象を与えるにはどうするか
参考に本を読みました。
「わたしはなぜ誤解ばかりされるのか
(ジョーレン・ディミストリアス著 冨田香里訳 ソニーマガジンズ発行 2000.12)」です。



















内容は聖書などの倫理的教科書と、ハウツー行動本
との間に位置する「総論本」と言った感じでしょうか。
原著がどんな構成なのかわからないのですが、
内容が細かすぎて全体のつながりをイメージしにくいです。
話が行ったり来たりしますので、書きながら読んで
初めてどこのことを言っているのか分かります。
また現象を広く言おうとしている部分があるのはわかるのですが、
広すぎて各項目が簡略化されすぎていることがあると思います。
書きたいことがたくさんあったのかな、と思っています。
文字数の関係で余儀なくされたイメージなのでしょうか。


持ち

最初に気持ちの上で何が重要か、どこに幸せを持ってくるのが
良いのかと言った精神的な部分が書かれ、その上で
実際の行動方法が書かれています(これは最後に書かれています)。


それと訳者さんも書かれていますが、海外の文化と
日本の文化は違う部分があります。ですから
例えばアイコンタクトについて、日本ではなかなかか
相手の目を見て話すことが少ないので、著者さんの
やり方をそのまま真似たとしても 、「こわっ!!」
と思われる部分があるのかなぁなんて思ったりします。

私はどちらかというと最初にあう人とは基本的に
目を見て話すこともありますし、握手を交わすほうなので
参考に出来る部分はあるのだろうなと思うのですが
万人にお勧めできるかというと、やはり「むむむ。。。」です。
一つの考え方として知っておくのは良いことかもしれませんけどね、
将来、いつ外国の人と接するかわかりませんから。
でもこれも絶対なのではないのかなぁとも思います。

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