人と話す力




















か行動か

私は

心や気持ちから行動 が触発

され、それから良い心が出てきて
さらに行動も変わる、、、という順番でよくなる思っています。
一方、手っ取り早く気持ちを得るため、有無を言わさず

とりあえず行動し、気持ちが付いてくる

そしてさらに行動する、、、
といったこともあると思っています。

どちらが正しいとか間違っているということはなく、
それらの考え方を時と場合によって使い分けたら
「いい人生」を歩むことが出来るかなと考える部分があります。
しかし、ときに行動に頼り過ぎてしまうと、大事な行動の前にある
「気持ち」は潰れてしまう可能性があるのではないかな
と思う部分があります。

具体的な例の一つとして、
相手が良いようになると思った場合、とにかく相手のためを思い
状況を読まず是正を呼びかける、と言ったことがあります。
(医療関係の方や介護関係の方、福祉関係の方でも多いです。)
すると、その場は相手の「答え」が得られてよくなることはある
と思いますが、相手が困難を迎えた時に、自分で「考える力」であったり
「答えを見つけ出そうとする活力」が
なくなってしまうのではないかと思っているのです。
「魚を与える」か「魚の取り方を教える」か、の違い、といいましょうか。

一方、今年の夏に私は路上でチラシ配りをしていましたが
日によって誰もチラシを受け取ってくれないことがありました。
そのときに朝が早かったせいもあり「うわー、こら駄目だぁ」と思い
痛々しい顔をすると、ますます気分が落ち込むんです。
こら困ったなぁと思っていたのですが、
そこを敢えて笑顔を無理やり作ることによって
気分の落ち込みはある程度防ぐことが出来ました。

耐え凌ぐ為の行動から気持ちの変容を支えるということに関しては
非常に行動は効力を発揮すると思うのですが、そもそもというか
行動の根源たる「気持ち」や「心」は行動から引き出すことは
難しいのではないかな、と思うわけです。
だって根本的な活動欲求を起こすための行動なんてみんな知らないでしょ?
知ってたら私が教えて欲しいくらいです、と思っています。
また心理学を勉強していると、よくパブロフの犬を用いた反射の実験が
出てきますが、反射を含め気持ちが行動で動くから
「行動によって心が変えられる」とするのが
光が粒子の集まりだ、
気持ちはデジタルだといっているようで寂しい気がするのです。
そこまで
 
心が割り切れるものでもないでしょう 

と。

それを思い出すのは産業カウンセラー養成講座での授業です。その中では
「うなずき」や、「繰り返し」、「意味の返し」、「要約」が大事といわれます。
それら技術を使えば恐らくクライアントやお客さんが
「話を聴いてくれた」と感じて心を開いてくださる場合もあるのでしょう。
ですけど、
その前に相手を認めるであるとか理解したいといった考えが無ければ、
その先の一手は考えられないと思うのですよね。
練習すればそれら技術は得られるのかもしれないですが
どこかに「本気らしさ」みたいな物が感じられなくなると思うのです。
学校に通う人たちについての心のあり方のようなものについては
また別の記事で書かせていただくことにはなると思うのですが、
私は「何か違うんだよなぁ」と思う部分があるのです。
だから心や気持ちを大事に持ってもらいたいものなのです。

気持ちから発した本当の行動

をとってもらえたらなと思っています。



そんな気持ちを久しぶりに味わった本があります
「コミュニケーション力(斎藤孝 著 岩波書店 発行 2004.10)」です。
























斎藤さんは家族はコミュニケートを持つことが目的と書かれていましたが
僕は家族というものの役割は認め合うことではないかと思いますので
考え方が違います。
ですが斉藤さんのように考える方もいらっしゃるのかなと理解しました。
また、会議などでは話を聞く際メモを取るのは有効だと思うのですが
普通の会話でメモを取られたら身構えないかな、と心配です。
ところで、日本的な「KY」をばっさり「文脈理解力の低下」と「身体状態の不理解」
という言葉で簡潔に表現すること、出来ることは本当に凄いと思います。
私ならなんていうかなぁ、「歴史的文化的に形作られた雰囲気の不理解」
といいますか、、、でもそれだと具体性はないし、対応策も探し出せないか。。。

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