中等教育から高等教育へのステップアップ
今私立学校が人気です。小学生のうち20%が私立や国立の中学を受験するそうです。これは私立学校が治安がいい、教育設備が整っているなどの理由で選ばれる方も多いのでしょう。一方、公立学校では、社会に出たあとに区別し、区別される世間を知る意味で大切です。
そして公立学校私立学校問わず多くの家庭が裕福で、当然のように私立の塾や高校や大学へ行くことが出来る現在、高等教育でも中等教育のように「教育して当然」といった考え方が親の間でもなされています。
しかし高等教育とは本来、「当然」といった義務はありません。違いを認め小集団で教育することを是とします。そして良くも悪くも試験結果一発で全てが評価が下される世界です。ですから全員に、平等に、などといった中等教育とは本質的に異なります。
こうした「当然」の中等教育から高等教育へはどうしても溝があります。ですが本来高等教育を行う場所に、中等教育ほどの能力のものが来てしまうのは問題です。ではその問題を解決しようと考えた場合どうしたらよいのでしょうか。つまりどのようにしたら中等教育と高等教育との溝を埋められるのでしょうか。ここではその方法を書きたいと思います。
なお、私がかつて通っていた高専は高等教育機関でした。ですから試験一発なところがありましたし、普通の高校とは違って単位が取れなければ即留年などということもあり、クラスの20%強は留年生でした。ヘタをすると即留年する恐れがあることを認識しえたことから、その分逆に気合を入れて学ぶことが出来、よかったと思います。
中等教育が行過ぎると、亡き物を得ようとします。いくらか見えないものから洗脳されていて、考えが抜け出せないことがあります。ですから責任や決定を何者かに委ねる形で分断された起承転結型のものの考え方をします。これは何某かの国の官僚主義なやり方です。
官僚主義は小さい国、そして共産主義の社会の場合は問題ないのですが、国が大きく、民主主義前提の社会な現在の日本ですと誰か一人の価値観ですべてが決まってしまい、問題です。
かつての官僚主義の理想的な考え方のあらわれが、現在の中等教育なのだと私は考えています。
この中等教育の考えが高等教育に及ぶと、レベルや質が下がるように思います。教育者の教える力も限られていて、教育の裾野を主に低水準に広げすぎると教育レベルを低水準に合わせざるを得ず、結果教育・質の中央値が下がると考えています。
また時間経過でも、質が低下するようにも思います(下図)。前代の限界を突破するのには大きなパワーが必要になりますが豊かな現在、多くの人が前代へ限界突破出来るパワーを持っていない気がするのです。
ですので、今後は結果をどう生かし、高等教育化するかが課題となります。そのため質を向上させ、どう限界を突破してゆくかかが重要になると思います。それには既存技術の利用や応用をする意味で工学的なセンスが役立ちます。
型を知り、構造を知って、哲学をします。つまり最初は知らない段階から、次に知っていることを学び、最終的にはできる形にします。
そうするためには①質の向上を目的として量を増やす。基本的に量を増やせば結果的に質も向上する。②長期的に見て、成長により状況が変わることを認識しながら技術や仲間を作る。これらのことが大事なのだと思います。簡単にいうなら中等教育と高等教育との違いを認めて中等教育の壁を突破できるよう粛々と勉学に励め、ということです。
なお、楽器を吹く場合でも、最初にある程度練習して音が出るようになればその後数年ブランクがあっても、簡単に吹くことが出来るようになります。その音が出るようになるまでは多少のミスも目をつぶります。
一方、工学的センスからこうした考え方を「使っている人」は少ないですが現在でも居ます。国を使って教育資金を出させたりする塾の経営者や官僚です。私は彼らのような教育改革者ではありませんが、仮に教育界に居るならば①内容よりも意欲を育てたり②駄目な生徒から採ったりし、複数の生徒を複数の先生で見る教育方針を立て、臨機応変に対応したいと思います。
現在国はゆとり教育を廃止し、詰め込み教育に戻そうとしているようです。しかし一度ゆとりになってしまった親の世代の子を詰め込み教育するのは何かすっきりしない、矛盾があるような気がしてなりません。
私は今のこの教育制度改革が、「落ち込み体験が必要な人に対し落ち込み前に無理矢理手を差し伸べて、助けようとしている状況」に思えてならないのです。地獄を見足らない、といったところでしょうか、そう思っています。
それを以下を読んで考えました。
高木幹夫+日能研 予習という病 講談社発行 2009.11です。
そして公立学校私立学校問わず多くの家庭が裕福で、当然のように私立の塾や高校や大学へ行くことが出来る現在、高等教育でも中等教育のように「教育して当然」といった考え方が親の間でもなされています。
しかし高等教育とは本来、「当然」といった義務はありません。違いを認め小集団で教育することを是とします。そして良くも悪くも試験結果一発で全てが評価が下される世界です。ですから全員に、平等に、などといった中等教育とは本質的に異なります。
こうした「当然」の中等教育から高等教育へはどうしても溝があります。ですが本来高等教育を行う場所に、中等教育ほどの能力のものが来てしまうのは問題です。ではその問題を解決しようと考えた場合どうしたらよいのでしょうか。つまりどのようにしたら中等教育と高等教育との溝を埋められるのでしょうか。ここではその方法を書きたいと思います。
なお、私がかつて通っていた高専は高等教育機関でした。ですから試験一発なところがありましたし、普通の高校とは違って単位が取れなければ即留年などということもあり、クラスの20%強は留年生でした。ヘタをすると即留年する恐れがあることを認識しえたことから、その分逆に気合を入れて学ぶことが出来、よかったと思います。
中等教育とは
中等教育が行過ぎると、亡き物を得ようとします。いくらか見えないものから洗脳されていて、考えが抜け出せないことがあります。ですから責任や決定を何者かに委ねる形で分断された起承転結型のものの考え方をします。これは何某かの国の官僚主義なやり方です。
官僚主義は小さい国、そして共産主義の社会の場合は問題ないのですが、国が大きく、民主主義前提の社会な現在の日本ですと誰か一人の価値観ですべてが決まってしまい、問題です。
かつての官僚主義の理想的な考え方のあらわれが、現在の中等教育なのだと私は考えています。
中等教育の行き着く先
この中等教育の考えが高等教育に及ぶと、レベルや質が下がるように思います。教育者の教える力も限られていて、教育の裾野を主に低水準に広げすぎると教育レベルを低水準に合わせざるを得ず、結果教育・質の中央値が下がると考えています。
また時間経過でも、質が低下するようにも思います(下図)。前代の限界を突破するのには大きなパワーが必要になりますが豊かな現在、多くの人が前代へ限界突破出来るパワーを持っていない気がするのです。
図1 時間経過に対する質の変化 限界を突破できない限り質は向上し得ない |
その対策として
ですので、今後は結果をどう生かし、高等教育化するかが課題となります。そのため質を向上させ、どう限界を突破してゆくかかが重要になると思います。それには既存技術の利用や応用をする意味で工学的なセンスが役立ちます。
型を知り、構造を知って、哲学をします。つまり最初は知らない段階から、次に知っていることを学び、最終的にはできる形にします。
そうするためには①質の向上を目的として量を増やす。基本的に量を増やせば結果的に質も向上する。②長期的に見て、成長により状況が変わることを認識しながら技術や仲間を作る。これらのことが大事なのだと思います。簡単にいうなら中等教育と高等教育との違いを認めて中等教育の壁を突破できるよう粛々と勉学に励め、ということです。
なお、楽器を吹く場合でも、最初にある程度練習して音が出るようになればその後数年ブランクがあっても、簡単に吹くことが出来るようになります。その音が出るようになるまでは多少のミスも目をつぶります。
見守る立場のものとして
一方、工学的センスからこうした考え方を「使っている人」は少ないですが現在でも居ます。国を使って教育資金を出させたりする塾の経営者や官僚です。私は彼らのような教育改革者ではありませんが、仮に教育界に居るならば①内容よりも意欲を育てたり②駄目な生徒から採ったりし、複数の生徒を複数の先生で見る教育方針を立て、臨機応変に対応したいと思います。
現在国はゆとり教育を廃止し、詰め込み教育に戻そうとしているようです。しかし一度ゆとりになってしまった親の世代の子を詰め込み教育するのは何かすっきりしない、矛盾があるような気がしてなりません。
私は今のこの教育制度改革が、「落ち込み体験が必要な人に対し落ち込み前に無理矢理手を差し伸べて、助けようとしている状況」に思えてならないのです。地獄を見足らない、といったところでしょうか、そう思っています。
それを以下を読んで考えました。
高木幹夫+日能研 予習という病 講談社発行 2009.11です。
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