資格の先にあるものは何ぞや

 


















 最近では先行きが不安だからでしょうか、偏差値の高い高等教育機関や有名企業に「入学・入社すること」、難関資格の「取ること」を目的とし「安心」したい方がいます。そのような「組織に入ること」や「資格を取ること」を目的にされた場合、組織に入った後や資格の取得後には目的を失ってしまいます。安心も得られません。すると燃え尽き症候群になってしまう危険性があります。これでは問題です。そのため、問題に発展しないようにするためにはどのような考え方を持っていたらよいのでしょうか。ここでは考え方の一つを書きたいと思います。


混沌とした社会の生き方


 人間は最初、そして最後は一人にならざるを得ません。しかし死ぬまでは年代にあわせて成長し、それぞれの過程に違った環境や働きかけを得る必要があります。
 そのため生活の中で何かに執着することなく、割り切った上で無為な時間を使い、持続するかあるいは諦めるかの判断を「自分で」する必要があります。
 この判断を自分でする考えは、世の中が自分の勝手にならないことを認め、責任を持って環境に自分を合わせ生きる意味で重要です。


能力差と資格・生き方


 自分勝手にならないことのひとつには能力差があります。
 世には特に苦労せず何でも出来る器用貧乏な方がいます。このような方は他者から期待され続けている意味でつらいと思います。

 一方、苦労を感じ努力でなしとげる方もいます。そのような方には、生き方と資格との間に差のある考えの方生き方と資格との間に差の無い考えの方とがいると思います(下図)。
 その「生き方と資格との間の差」は言葉や形であらわせられません。しかし無理やり言葉としてつけるのならば「付加価値」といえるでしょうか。
図1.生き方と資格には目に見えない差がある。これが続ける力になる。















 
 資格と生き方との間に差のある考えをされている方は心の安定のあることが考えられ、「形の無いゴール」を目指します。目指せます。これが「実社会で生きる力」や、「続けられる力」だと思います。医者でしたら「人を治したいと思う」こと、弁護士でしたら「法制度の矛盾点を暴く」ことなどでしょうか。たいてい自分の過去の経験から「差」を生み出せます。

 資格と生き方との間に差の無い考えをされている方は心が不安定で、資格やステータスと言った形の見えるゴールしか目指せません。大学受験なら予備校、大学なら教授、医師国家試験や司法試験なら国など、何らかの価値観により操作され続ける人生を歩みます。ただ、完璧性を求める場合には効率的に役立てられるのかもしれません。


生き方に関する考え方を持つことのすすめ


 この二つの考え方はどちらが良いとは一概には言えません。しかし、こうした生き方を改めて考えることは、良く生きる意味で重要です。
 ですから一生のうち幾度かは生き方を考える機会を持つほうがよいと思われます。この際、目的を見誤らないようにしたいです。あくまで目的は良く生きるためです。そしてこれは年齢・環境により条件は変わるため、強制することはできません。自ら考え、答えを導き出す必要があります。


それを以下を読んで考えました。
小林公夫 「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法 PHP研究所 2009.6です。

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