芯や本質を掴む


炒め物は芯がないほうがいいですが、会話などは芯を掴みたいですね。



















 現在私を含め、日本人は戦争も無く幸せだからかわかりませんが事故や事件に関して忘れやすい傾向にあります。問題があっても基本的に誰かが何とかしてくれると思っています。これは確かに誰かが何とかしてくれる場合には有効です。しかしそれが成り立たない場合も時にはあります。そのような場合にはどうしたら良いのでしょうか。ここでは流されてしまいがちな状況から本質をつかむ方法を考え、どうすればよいかを考えます。



3つの必要なこと


 現在はわけのわからない世の中です。誰かが何とかしてくれない社会と言い換えることもできます。こうした社会において、常に間違いかもしれないといったリスクを負いながら、自らがものごとを選択する勇気が必要です。なお、そうした選択をする場合、具体的には以下3点に気を配り、考える必要があります。
 
 ①つめは要約の背景を突き止めることです。相手にものごとを伝える場合、通常要約して伝えますがこれは、相手に正確に伝わっている場合も、あるいは伝わっていない場合も、さらには誤解されている場合もあります。下の二項目、即ち伝わっていない場合や誤解されている場合は困ります。

 ですからそれを避けるためには自分の真の意図を読み取ってもらう必要があります。
そのためには出来る限り誤解のない表現をとる必要があります。あるいは伝達後に相手に確認をとってもいいのかもしれません。
 一方、相手の要約したことを自らが読み取る場合は相手の真の意図を推察する必要があります。そのためには相手に直接確認をとる必要があるのかもしれません。

 例えば国が発行している何々白書と呼ばれている資料があります。これは基本的に国民の皆様に対して「われわれはこんな仕事をしています、その分結果を出したので、お金くださいね。」という意図があるのかもしれません。(こんなこと聞いても「はい、そうです。」などと答えてはくれないでしょうが。)

 ②つめは行動や気持ちの裏を突き止めることです。お子さんにゲームをさせてばかりいると嘆く親御さんを見かけます。そうした方々はどこかで禁止したい、否定したい気持ちがありその裏にはどこかにお子さんをゲームでつなぎとめておきたい、繋ぎとめられると思っている部分があるのではないか、と思います。

そう考えますと、上記の例であるならば子供がゲームをすることに不満を抱えながらも常にゲームを買い与えていることで支配欲が満たされるそういった気持ちがあるのかもしれません。

 ③つめは資料元を突き止めることです。例えば教育現場において、ゆとり教育が廃止されて久しいです。それでも絶対評価的な部分は残っています。こうした場合において評価は何を基準にして良いのか、わからなくなります。また、近代史では宗教戦争やら思想が交じり合っていて一概にどれが正しいともどれが間違っているとも言えません。それゆえにろくに教えてもらった記憶が私にはありません。

 こうした評価のわからない、あるいは何とも言えないことを証明する場合、わからないなりの資料を取り寄せる必要があります。あるいは自らが判断する場合にはどこからの資料でそのような判断をしたのかを明確にする必要があります。

 確かに資料を取ってきたり精査することは難しいですが、仮に間違った情報を元に判断していたとするならば判断や考えること自体が無駄、と言わざるを得ません。


まとめ


 いずれも1誰が2どのような意図で3現実や実際との差は何かを考える必要があります。そしてすりあわせて差を埋めることやどうしようもない場合には距離を置くことが必要なのかもしれない、と考えています。



それを以下を読んで考えました
議論のウソ 小笠原喜康著 講談社発行 2005.9です。

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