自分を強く見せたがることとそれへの対処

 自分もそうなのかもしれませんが、身近にも多く強く見せたがる人が居ます。そのような方はそのような方で自分の中にとどめておいていただければそれに越したことはないのですが、多くの場合他の人にもそれを押し付けてしまい嫌な気持ちになりがちです。私はこれは問題だと思っています。そこでここではそのような自分を強く見せるような人に対して何を理解してもらったらよいか、もしくは自分が強く見せようとしている場合にとっても何が必要なのか、といったことを書きたいと思っています。



 身近に居る強く見せようとする人


 自分を無理に強く見せようとする人が居ます。命令口調であることももちろんですが、それだけでなく静かに相手を追い込む人も居るようです。そうした人は相手に自分の考えを押し付け害をもたらしてしまいます。周りからすると非常に困った方です。例えば私がビジネスホテルで勤務をしていた際も、同じ仕事仲間でお客さんにあまりに強く当たりすぎて喧嘩にになってしまった場面がありました。本来助けてくれる人(同僚でもお客さんでも)が居るかもしれない状況でその人を敵にしてしまうのは非常に非効率あるいは不幸だと思っています。


強く見せる歴史と諸外国


 こうした強く見せようとすることはいつから起こったのでしょうか。私が考えるに昭和、それ以前からあったことのような気がします。
 戦中戦後においてわけのわからない社会だから誰かにすがりたい、従いたいと思っている部分もあると思います。そういう意味では自分に自信のないことが考えられますし、見方を変えると相手を受け入れるだけの技量がない、とも言えます。

 そして自分を強く見せることで何か得があるのでしょうか。強く見せることで(形だけ)自分がランクアップし、上のランクに見合った報酬を得ていた部分があったのではないかと考えています。私からするとそのようなことは所詮小手先の技術だと思っています。

 なお山本七平が「空気の研究」や他の書物でかかれていますがかつての帝国陸軍はそうした数だけをあわすためのこといわゆる「員数主義」を貫いていました。実際はしょぼいけども強く見せるため「だけ」の数合わせです。そういった強く見せる姿勢は外国は全てがそうなのかはわかりませんが、少なくともChinaでは昔からありました。「眠れる獅子」といって他の外国に強く見せてきことがあります。そうしたChinaの影響を受けてか、一部の上司向けの教科書においては「上司であるからには偉くならねばならぬ」誤解を強める傾向にあるのだと思います。

 一方日本でも現在特に東京などの都会に住んでいたりすると、汚いものやお下劣なものは社会から排除され(見えないように細工され)ています。そうした作られた環境に安住してしまうことで自分で何でも出来るといった誤解を学習して肥大化させてしまうことも一部あるのだろうと思います。


必要な圧倒的な挫折感・現実感


 こうしたことに対して必要なものは圧倒的な挫折感だと思っています。ちょっと力足らずで負けるなどと言うものではなく、自分が対処できないだけの圧倒的な負け感を持つことです。アルコールを含め依存症の治療にはそのようなことが行われています。よく「まだ落ちるところが生ぬるい」こととして言われます。私の場合、生きることを目的としているため、最終的には死ぬ直前まで落ちてしまったもいいと思っている部分はあります。


挫折を味わった後から見出せるもの


 そしてその圧倒的な挫折感を味わった後でこそ見出せるものがあります。「実るほど頭をたれる稲穂かな」と言うことわざもありますが、自分の力の小さいことを知って優秀な社員に仕事を敢えて振ると言う意味で、社長は少し馬鹿なほうがいいという話もあります。
 他方で社長はやせ我慢をする必要があると言うこともありますが、それはひょっとしたら結果としてやせ我慢をせざるを得ない「形」だけを見てその真意を測れなかった部分もあるのかなと感じます。そうした意味でやせ我慢をせよと言うことを盲目的に信じていることは残念な部分がクローズアップされている意味で残念です。

 加えて自分を自分として認識することも必要だと思います。基本的に世は他人に頼らねば生きていけません。ですから他人と自分とは違うことを認識しながらその存在、労力を割いてくれていることに感謝しておく必要があります。
 ひとつの例として頭を下げるプライドがあっても良いんだと思います。主に関西の人たちが良く持っている文化だと思いますが「自分が何も出来ない存在である」ことを認識しながら、だからこそ相手にお助けを頼むといったことも必要なのではないでしょうか。

 これらのことを要約すると、自分の身の程を知ることが大事なんだと思います。いくら年長者で素晴らしい経歴を持っていたとしても、それはあくまで過去の経歴でしかありません。ひょっとすると若い方でも自分より何十倍何百倍も優れている人もいると思います。そうした場合に自分がそうした人間に対してたいした人間でないことを認識すること、場合によっては後進に道を譲るメリハリも大切になる気がします。

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