善悪を判断するには澄んだ心で。
見方が変わる「正義」
真実という変わらぬものの他に、人によって見方の変わる事実があります。その事実の中の一つに善、正義というものがあり、これは人や組織によっても異なるものです。こうした善や正義の中で、特にみなの決めた善や正義というものが、本当の善や正義だと錯覚してしまう場合があります。
ドラマを通してみた例
例えば「踊る大走査線」というドラマにて、上層部が勝手に多くのことを決めてしまうような話が有ります。彼らは「組織を守るため」と称し、自らの保身も勿論在るでしょうが、彼らなりの「善や正義」に基づいて動いています。一方現場に要る警察官は目先の事件解決を「善や正義」としていて、結局上層部と現場とにおける「善や正義」の違いでぶつかりあうことになります。
どちらが正しい、どちらが間違っているという話はいえませんが、こうした善や正義は、何を目的とするかによって変わることが言えそうです。
つまり、場合によっては悪人から見たら悪こそ善ですし、悪から見たら、善が逆に悪に見えることも有るのです。
善悪や判断をするための目的があるか
こうした善悪や判断は目的がしっかりしていないと、行動は一貫性が無くなりぼやけてしまいます。一方で目的にしがみついてしまう、即ち目的を見つけ「なければならない」と目的を見つけることに執着してしまうと、それはそれで本来何をする必要があったか、と言った本質的な部分を「見誤る」可能性が十分にあるのだと思います。
判断を見誤らないために
ですから善悪を決めたり、判断するには、「これだ!」と言った一方的な視点だけでなく、複数の視点で見る意味で柔軟に見ること。一方で今何をする必要があるのか考え、冷静に、こだわり過ぎない。そうした澄んだ心の状態こそ平安があるような気がします。
また、既におきてしまった、間違った選択から発生した事象から再判断や真実を究明し、新たな判断をする必要があるならば、①複数の見方や事実を見ることを通して、②本当はこうであったのではないか、と、真実を「推察する力」これらも必要になってくると思います。
冷静で柔軟な判断力と、事象からの推察力を通して、よりよい循環した生き方の流れにもって行きたいものです。
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