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6月, 2015の投稿を表示しています

芯や本質を掴む

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炒め物は芯がないほうがいいですが、会話などは芯を掴みたいですね。  現在私を含め、日本人は戦争も無く幸せだからかわかりませんが事故や事件に関して忘れやすい傾向にあります。問題があっても基本的に誰かが何とかしてくれると思っています。これは確かに誰かが何とかしてくれる場合には有効です。しかしそれが成り立たない場合も時にはあります。そのような場合にはどうしたら良いのでしょうか。ここでは流されてしまいがちな状況から本質をつかむ方法を考え、どうすればよいかを考えます。 3つの必要なこと  現在はわけのわからない世の中です。誰かが何とかしてくれない社会と言い換えることもできます。こうした社会において、 常に間違いかもしれないといったリスクを負いながら、自らがものごとを選択する勇気が必要 です。なお、そうした選択をする場合、具体的には以下3点に気を配り、考える必要があります。    ①つめは要約の背景を突き止めることです。相手にものごとを伝える場合、通常要約して伝えますがこれは、 相手に正確に伝わっている場合も、あるいは伝わっていない場合も、さらには誤解されている場合も あります。下の二項目、即ち伝わっていない場合や誤解されている場合は困ります。  ですからそれを避けるためには 自分の真の意図を読み取ってもらう 必要があります。 そのためには出来る限り誤解のない表現をとる必要があります。あるいは伝達後に相手に確認をとってもいいのかもしれません。  一方、相手の要約したことを自らが読み取る場合は 相手の真の意図を推察する 必要があります。そのためには相手に直接確認をとる必要があるのかもしれません。  例えば国が発行している何々白書と呼ばれている資料があります。これは基本的に国民の皆様に対して「われわれはこんな仕事をしています、その分結果を出したので、お金くださいね。」という意図があるのかもしれません。(こんなこと聞いても「はい、そうです。」などと答えてはくれないでしょうが。)  ②つめは行動や気持ちの裏を突き止めることです。お子さんにゲームをさせてばかりいると嘆く親御さんを見かけます。そうした方々はどこかで禁止したい、否定したい気持ちがありその裏にはどこかにお子さんをゲームでつなぎとめておきたい、繋ぎ

真剣に生きるための情報解釈収集方法

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 私がかつて大学生であったころ、何に関してもテキトーに済まして生きていたことを研究室の先生に見ぬかれ、一喝されたことがあります。そのときは普段使用している日本語も大切にせず、雑に、または刹那的に生きてきた部分がありました。その経験があってか以後、多少は真剣に生きることを考えました。もしあの時叱られず、今もテキトーに生きてらと思うとぞっとします。そこで、今回はそうした経験を通して思ったこと、現在テキトーに生きている人にとって真剣に生きてみることをお勧めすること、そのための情報収集方法を書こうと思います。 固定化した見方をしていないか   「こうなるはずだ。」「こうであって欲しい」と言った思いが強いと真実を見落とす ことがあり、悪い意味で悲劇的な現実になることがあります。  例えば細かい善悪をレッテル張りします。身近な例で言うなら福祉業界でも「福祉に関するものはどんなものでも良いもの、良いこと」と思い、本来そうではないのかもしれないのにもかかわらず 事実を見据えられず自分勝手に解釈 します。  そのようなことが正しいことではないこと、良いことばかりとは限らないことを知ってほしいです。 真実はいつもひとつ。自分の見方を知る。  名探偵コナンではないですが、たいてい真実はひとつです。言い換えると私たちが見ている面はいつも真実の一部分でしかありません。逆に書くならひとつの真実でも見方によって多くの解釈ができます。  一番有名なたとえで言えば例えばコップに半分ほどの量が入った水を見る場合に、見方によって「もう半分しかない」とも、あるいは「まだ半分もある」とも言い換えられます。  こうした多くの客観的な見方、多くの解釈を得るためには他人の見方や考え方を聞くのもひとつの方法だと思います。翻って ひとつの事例に関して自分がどう考えているか、普段からどのような傾向に考えるか認識することも必要 なのだと思います。 「わかったつもり」で雑に、せつな的に生きてしまう  そのような自分はもちろん他人の考え方を取り入れる場合、「わかったつもり」という考え方は間違いで害になります。 「いろいろ」と言い誤魔化してすべてをまとめて完結することで深く解釈ができずそれ以上を考えることをしません。 場合によっては自分の意図しないことが相手に伝わること

理学と工学の違い

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理学的考え方と工学的な間が方の違いを知ることは重要  理学と工学は似ているようで違います。それを見極められないと、研究室配属などで間違った選択をしかねません。間違った選択をてしまった場合には、せっかくのばすことのできる能力をみすみすつぶしてしまう意味で問題です。そこでここでは理学と工学の考え方の違いを書きたいと思います。なお、私は過去に高専で工学、大学で理学の先生にそれぞれつきました。ですのでそれぞれの考え方がある程度わかると踏んで書いています。 理学と工学の違いはなかなかわからない  私が高専から大学に編入するときに、どの学部に編入するか考えたことがあります。特に理学部と工学部はどちらも同じような学科がありますし、どこがどう違うのか当時はわからず、また、それを教えてくれる人も周りには居ませんでした。  通常数学や理科ができればそれら工学なり理学なりの分野へ進むことはあります。しかしだからといって明確に違いを見出しているケースはあるのでしょうか。  通常高専5年生なり大学4年生なりになると研究室に配属されます。すると実際にどのような研究をするのか体験し、各研究室間での違いを確認できます。その違いはもちろんボスの性格によるところも大きいですが、ボスの出身学部も多少なりとも影響を及ぼしていると思われました。  ちなみに私は高専では工学部出身の先生につき、大学では理学部出身の先生につきました。それら高専と大学とで違う学部出身の先生について学べたことは、知見を広げる上ですごく良かったと思っています。  ですのでそれらの出身学部の先生の違いでわかったことをお伝えして、少しでも多くの方が自分に合った学部の選択をしていただければなと思っています。それらの違いを以下に記しました。 理学は何をする  理学は知的好奇心が根底にあり、 「なぜ?」から真理を追究する学問分野 だと思っています。当たり前が当たり前でないことを考えます。ですから研究をしたからと言って場合によっては現実的な問題が解決するとは限りません。(もちろん解決の原因を考え、対策を練るところもあろうと思いますが。)また真実を見出すことは難しい一方で、現象を明らかにできたときにはいくらでも応用が可能となります。そうした真実に基づいた理論を構築する

成功への鍵3要素

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成功への鍵は常に選択にあります。  最近の話でもないですが、lineをはじめメールに即応性を求める方が増えています。確かにline等のメールは確実に記録を残せる意味で便利ですが、開封は相手の状況によって左右されることもあり、即応性を期待することは、難しいと思っています。ただ、こうした(メールに即応性を求める)ことは、価値観の違いからくるものだと考えているのであえて問題だといって取り上げるつもりはありません。そう思っている方がいらっしゃるのなら、それでいいと思っています。さて、こうした価値観の違いは、「成功」という言葉ひとつをとってもあります。多くの方は「成功」というとお金を持っていることと思われるかもしれません。しかしそれは表面的なもので、本質的な部分は別にあるのだと思います。そこで ここではそうした多くの方が考える「成功」のもと=成功の鍵、これを得るためにはどうしたらよいか、考えてみようと思います。 成功に関与していると思われる3要素  私が考えるに「成功」にはそれぞれ三点 ①気持ちの面、②時間の面、③行動の面、のすべて、あるいはいずれかが満たされる必要がある のではないかと思います。これらを満たすことで、結果としてお金に結びつくこともあるかもしれません。しかし一方で、必ずしもお金に結びつくものでもないと考えています。  ①の気持ちの面としては 妥協しない 、 ということです。例えば理不尽なことにあきれる表情を出したりします。  また他人との関わり方でもそうですが、本音を出します。ついつい本音を出すとみなから嫌われてしまうのではないか、私をこれまで慕ってくれた人が離れてしまうのではないか、と不安に思われることがあると思います。  確かに本音を出すことでこれまであなたを都合よく利用してきた人が離れることもあるでしょう。しかし、その代わりに自分の本音を善しとする人が近づいてきます。つまり組成が変わることはあっても、総数が変わることは少ないと思うのです。(下図1・・・本音を出した場合の友達組成変化を示した図) 図1.友達を例に取った総数の変化の図  なお、本音を出した瞬間は場合によっては友達の総数がゼロ、あるいは周りに誰もいなくなる可能性もあると思います。しかし

福祉業界は長年居てもスキルが身につかない、という意見

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福祉業界に来ていいのでしょうか、よく考えてみては?   私は以前会社に勤めていたことがあります。そして福祉の会社をいくつか経由して今は自営をしています。そうした経歴のなかで福祉の業界というのは、普通の会社の論理とは異なる論理で動くことを私は知っています。具体的にはどう違うかを、「遊び」と「お金」の面を中心にここでは書いていこうと思います。  今回の文を通して、特にこれから福祉業界に来ようと考えられている方に対し、本当にこの業界にきていいのか、よく考えて欲しいと思います。なお、私の基本的な考え方として、福祉の業界に来るのは他の業界を経験した後、あるいは最後でいいと思っています。  特に大学や専門学校の卒業をまじかに控えている方ならなおさらで、まずは世の中の論理を知る意味で、一般企業で働かれたほうが社会のためにも自分のためにも良いのではないかと考えます。  なぜか、それは少なくとも現在の日本は資本主義的な社会であり、多くの社会は会社の論理で動くことが多いと思われるからです。  また福祉はある程度の年齢を重ねた方でも新入社員として活躍できますが社会人、会社員としての仕組みは若い時でないと知れない、知りにくいとも思うからです。それを踏まえた上で書いてゆきます。  なお下の図は遊びの大小を横軸に、専門性の高低を縦軸に示しました、ざっくりとした業界・職種の地図です。(銀行や商社、一般公務員、官僚、医者の位置はあくまで一個人の妄想です。クレーム等がありましたらご連絡ください。) 普通の会社の構図 報酬から遊びを作る  私もそれほど多くの年数や会社を勤めていたわけではありませんのですべての会社がすべてそうだとは一概には言えないのですが、通常会社で長年勤めると、社内における信用がつき、会社や社会がお金で回るシステムを教えられたり、あるいは自ら学ぶ機会ができます。  一例を挙げますとものづくりの会社の場合、まず「モノ」という結果を出して、それに見合った報酬をお客様からいただきます。そうしてお客様からいただいた報酬の一部を自分の懐に入れたり、あるいは次なるお客さんや、さらなる付加価値を追及するため一部を研究開発に回します。そしてその研究開発に回したものの中の一部により次のお客様に提供できる価値を創造できる「

やる気のなさと続けてしまうこと。

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 本当は全然やる気がないのだけれど続けてしまうことがあります。これはひょっとするとつまらないながらも続けることが習慣となり、安定している状態だからなのかもしれません。そうした習慣・行動は時間をつぶせる意味では有意義なのかもしれませんが本質を見極められないことがあり、そういう部分においては問題です。そこでここではそうした「やる気がないけども続けてしまう」ことや依存的なことへの対策を書きました。 やる気が出ない、でも続けてしまうこと  かつて私が小学生から中学生くらいだったころ、友達と遊ぶ機会がない場合、家でテレビをいつも見ていました。土曜日の18時くらいの番組は見ていて苦痛でした。なぜかというと、女性受けを狙って関係維持を目的としているような内容の番組が多くあり、質が低いと思ったからです。要するにつまらなかったのですね。  つまらないなあと思いながらも見ていたのですが仕方がなく見ていたとしても、いつしかそれが習慣化してしまいます。するとテレビしか見るものがない、という視野狭窄になってしまい、やる気がないのに続けてしまう→更にやる気がなくなる→続けてしまう。といった悪循環になってしまったのかもしれません。中学生のころには立派なテレビ大好き人間になりました。  昨今では子供が外で遊ばず、家でゲームばかりして居るという話を聞きます。これも先の私の場合と同じように「ゲームしかすることがない」と子ども自身が考えていて、 仕方なく続けている部分があるのか もしれません。  また、そうした 子供のやる気の喪失というものは実は親御さんが望んでいる場合もあるのではないか と思います。  どこか子供をわが近くにおいておきたい。独占したい。そう思っている場合もあると思うのです。  ちなみに私がテレビを見るのを断ったのは学校の寮や会社など、物理的にテレビのない環境にある期間いたからです。環境が変化したおかげでテレビを見なくても平気になりました。 仕方がないから続ける依存、孤立が孤立を生む  こうした「何もないから仕方なくしている」状態はいわば常に待っている「待機状態」と考えられます。しかし何に向かうか特定できないため、目的が定まらず 最終的には何もしたくない、と言った無力感 を持つことがあります。  これはアルコール依存の方が依存症となるように言い

発想を作るには。

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花咲くことは発散に近い、自然を相手にすることに通ずる?  新たな発想を持とうと思う場合、持とうと思って持てるものではありません。しかしものをつくる場合やクリエイティブな仕事をする場合、上司やお客さんから新しい発想を求められる場合があります。そうした場合に発想ができないと問題です。そこでここでは発想する手段として「KJ法」を理解するとともに、どうしたら実践できるか、その方法を示したいと思います。 日本人は無神教だからこそ他を受け入れられるかも  周りの状況を受け入れること、発散的な考えいつでもは大事だと思っています。これは、日本が他国と違い無神教、あるいは多神教であることから発散的な考えが存在し、それによるものがあるのかもしれません。  そこでこの発散的な傾向を利用する手段のひとつとして「KJ法」というものがあります。これは工業界はもちろん教育界や商業界など多くの場面で使え、 発想が求められた場合、比較的簡単に答えを考えることができ ます。 KJ法とは  その KJ法とは現実を知る方法 です。工学や福祉に応用できます。特に機械工学での力学や化学工学では経験式が多く使われていますが、こうした一つの経験式を求める場合にも、それが正しいのか正しくないのかほかの見方ができるのではないかと考える場合に威力を発揮します。  具体的には上記の計算式でしたら現実に近い式を作る、という目標のもと、良いも悪いも他人の考え方や計算式、意見を持ち寄って吟味します。   KJ法は広い視野で現象を理解すること、複数の視点を持つことから真実を推察する ことが可能です。なお、観察と対策を行うという意味で PDCAサイクルのCHECKとACTION といえるのではないでしょうか。 KJ法を実践する方法 KJ法による発想法は具体的に以下の方法で成り立っています。  ①に、まずは計画を立てます。選択を集中することでどこに着目するか明確にすることで問題へ向かいます。本来知っていると思っていることが実は知らなかったなどということもあるかもしれません。  ②次に略語や要約を用いて簡略化し、時にそれが発散を刺激する要因になります。現実と感想とを分け、主観は全開で、結果を目的としない方がいいです。例えばレゴパーツもい

会社やお金に縛られず自由を謳歌してみては?

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 日本文化の根底には母親的な部分がどこかにあり、それゆえ会社や組織に縛られたい、組織に属していることこそがよいことだ、などと思っている話を聞くことがあります。しかしそれは本当によいことなのでしょうか。一度立ち返って自分の本心に耳を傾け、甘えている組織から脱却する意味で「声をあげる」、または「自ら立ち上がる」必要もあるのではないでしょうか。ここではそうした自分の自立する意味や、生きる方法について書いてみました。 日本人の社会は母性的  日本は母性的な社会だといわれています。福祉をはじめ、教育、労働など、大きなものにすがる。甘えを許す。言ったことも容易に反故にできる、などといったことがあり、それが日常茶飯事行われています。  それゆえ例えば朝のニュースで占いを見てそれに一喜一憂したりしています。 母性的な社会は使用者にとっていい面があります。  こうした母親の甘えがある世界は操作しようとする者や使用者からすると容易に操作できる意味でいい世界です。  警察の違反でも見せしめで悪いものを懲らしめたり、労使裁判でも裁判所はどちらかというと個人の意見よりも信用のある会社の言い分を信じたりします。  しかし操作される者や使われる者から見ると、例えば国やマスコミが夢ばかり語って現実を一切語らないなどいい世界であるとは思えません。 使用者の価値判断はお金  こうした社会を形成する手段の一つとしてお金や信用が第一だとする考えを広める方法があります。  すると例えば使用者、強いものの基準は、大抵大企業、資産家など、信用、すなわち金を多く持っている者で、彼らはますます大事にされます。逆に使われる者はお金のために本来しなくてもいい安請負や危険な仕事をせざるを得ない場合も考えられます。  しかしこうした状況が続くと、本来持ちつ持たれつで成り立っていた会社活動、社会活動がいずれ成り立たなくなってしまうと思うのです。これは実に残念です。ですからお金以外に価値観を持つことが望まれます。 組織に縛られる必要はない、まずは自分を大切に  それでは何に価値観を持つか、と考えた場合、周りを見渡すと、多くの日本の会社員は使われる者の考え、いわば奴隷のような考えがよしとされてきています。それが会社員一人ひとり

働いてから立ち止まりのすゝめ

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他人に釣られて歩き続ける必要ありますか?私はないと思います。  誰しも一度は立ち止まって人生や働き方を考える必要があるのかもしれません。前回私は27歳位の時に立ち止まりました。立ち止まるということはその道での行き詰まり、といえるのかもしれませんが、立ち止まることでこれからの、真の生き方を考えることができるのかもしれません。かつて私がメーカーの会社員で働いていた時に、研究開発部の部長であった常務が「行き詰まったら逆が真だ」と言われていました。その時はそういう考え方もあるのかと、ふんふんと聞いていましたが、これはものづくりだけでなく、人生でもありえることなのかもしれません。そうした働く場合の立ち止まり、考え方について書きました。 お金に関する勘違い  学校を出て仕事をしだすと、お金を得ることがあります。基本的には仕事をしたり働くとお金を得られます。これはごくごく当たり前のことなのですが、この順序が逆転してしまう勘違いが世間ではよくなされています。つまり、「お金を稼ぐため」に働くという考え方です。  そうした考えに対して私は 非常に虚しい と思っています。なぜなら例えばお金の得ることを目的とした場合 1)その手段として犯罪に手を染めることもありえ ますし 2)例えば偶然に大きなお金が入った場合には それで働くことが終わってしまう と思うからです。 1)は得てして犯罪をせずに時間をかけて地道にお金を貯めるよりも犯罪をしたほうが、短時間で手っ取り早く、且つたくさん得られます。 2)はそもそもお金を得るため仕事をしたり仕事、働く意味があるのか疑問を感じます。旧くから仕事は遊びだ、ということが言われていて ホモ・ルーデンス でも書かれていますが、働かないことは遊びをしないことでもあり生きる楽しみも感じられないのではないかと思います。 生きているのに死んでいる働き方  さらに他人の価値(お金)に踊らされて働くことは他人の顔色を伺いながら仕事、生活をするという意味で、 自分の仕事をする意味や働く意味、ひいては生きる意味を見いだせない ように感じます。 人間は私を含め堕落的な生き物で、 現在の状況よりはよっぽどの抵抗がないとラクな状態に安住しようとします。 動くより動かないように、考えるよ

【心】ぶれない軸を持つために

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 強くものを言う人と接すると、その人に屈してしまう。これは自分の軸がぶれ、わからなくなっている状態かもしれません。それはそれでもちろんよい部分もありますが、ぶれない軸、しっかりとした考えを持って接そうと考えた場合、屈することは問題です。そこでぶれがちな軸をしっかりとしたものとするにはどうしたらよいのでしょうか。ここではぶれない軸を持つための方法を書きました。 ぶれない自分の軸を確立するには  かつて大学の先生に「新聞を疑うことが大切だ」と、 当たり前といわれている説でも疑問に持つことの大切さ 、を教えていただきました。これは 他人の軸を無根拠に取り入れるのではなく、資料という証拠によって、自分のぶれない軸を持つ こと、これこそが研究でも、人生でも大切だ、ということを言われたのではないかと思います。  そのぶれない軸を持つためにはどするか、というと 生き残るには何を目的におくか、考える 必要があります。 目的によって不必要な物を捨てる、見分ける事が鍵なの だとも思います。そうした取捨選択を身につけるには「ものの見方を変える」意味で リフレーミング技術 を使います。 リフレーミング (reframing)とは、ある 枠組み (フレーム)で捉えられている物事を枠組みをはずして、違う枠組みで見ることを指す。元々は 家族療法 の 用語。 西尾和美「リフレーム 一瞬で変化を起こすカウンセリングの技術」によると、「リフレームの目的は、今までの考えとは違った角度からアプローチしたり、視 点を変えたり、焦点をずらしたり、解釈を変えたりと、誰もが潜在的に持っている能力を使って、意図的に自分や相手の生き方を健全なものにし、ポジティブな ものにしていくことです」(32p)とのこと。  そのリフレーミング技術を身につけるにはたとえば本を読んで多くの手段や考え方の選択肢あることを理解したり、取り入れた情報を他人に説明することも必要です。理解をしたり説明をするのには 通常、「要約」が必要で、要約した情報も適切に分析する 必要があります。 どうしても間違えやすい人間の誤解  得てして物事の考え方でも生き方でも、どうしても人間は弱い生き物で、 易きに流され、他人の 箱物文化を取り入れたがる傾向にあり ます。その背景には自由や選択に対する不安があり、何かに