会社で研究者になるには大学院卒の資格がいるか


 工業大学や理科大、高専、総合大学理工系学部など理系の学校を出て研究者として仕事をしていく場合、通常大学院を出ていたほうがいいといわれています。確かに研究のプロセスを洗練させる意味では重要と思います。しかしたとえば研究職として就職するために大学院に行くなどそうした場合に本当にお金を出していく価値があるのでしょうか。私はないようにに思います。そこでここでは大学院に行く意味とその試験について疑問を持っていることを記したいと思います。


大学や大学院は何のためにいく


 私は高専で化学(専攻は有機)、大学で微生物を専攻していて、高専から大学にいくときには分野の転向を目的としていました。有機化学をもっと広く見ていくと生物学につながると考えたからです。

 それゆえそれなりに大学にいくための勉強をしていたのですが、大学入学後は専門科目の内容についてはなんとなしに理解はできました。そうした専門科目を知れたのはもちろんよいのですが、それ以上に私は大学に行くことで、私よりも周りには格段に経済的に裕福な方ががいて、また、多くの方が私よりも頭がよく、結果を残す力も格段にあるように感じました。

 そうした意味では大学に行くことによって、高専を卒業したばかりの段階では「井の中の蛙」を知れた意味で貴重な体験を得ることができました。

 しかしそのような考えや得られるものを考えずに、高専から大学に行く人、あるいは大学から大学院に行く人がいます。


社会の研究者は大学院卒を求めている?


 具体的には理系の大学や高専に通われている方の中で、その中でも特に研究者になろうとしている方がそれです。もちろんすべての人がそうであるというわけではありません。

 若者の半数近くが大学に行く現在、そうした大学卒の方々と差別化を図るため、会社で研究者になることを考える場合には、多くは大学院卒の資格が求められています。確かに研究という、ものの考え方を洗練させる意味では大学院にいること、その資格をとることは重要です。

 しかし場合によってはよろしくない研究室に入ってしまうとその研究室の先生の考え方がそのままコピーされてしまうことがあります。あるいは大学院の研究が社会に出ても生きないことが多いことがあります。それを考えるに、研究者になるために大学院に行くのでしたら私は疑問を感じます。

 それに研究者に向いていない人もいることを考える必要があると思います。私をはじめ多くは高専五年間や大学四年までの間に気づくことだと思いますが、中には研究という仕事が本当は向いていないのにもかかわらず、それまでに数学やその専門分野の勉強で好成績を修められたからたまたま大学院に行く、とした方もいるからです。そうした場合は不幸です。なぜなら向いていないかもしれないもののために年間何十~何百万という学費を支払わねばならないのですから。


大学院に入るための勉強についても疑問


 また、特にほかの大学の大学院に行く場合において自分の実力はこんなはずではないと思い、偏差値のより高い大学や、日本で一番入るのが難しいとされる東京大学にはいるため、何ヶ月もそのためだけに勉強している(俗に言う学歴ロンダリング)方がいます。しかしこれも私にとって見ると果たして意味があることなのかも疑問です。

 何ヶ月も勉強して(しかも大学院入試のための意味のあるかどうかわからん勉強)普通に大学から大学院に入る人たちにようやく見合う学力になったとしても、いざ入学してから、その人たちとの頭の良さに追いつくために常に勉強し続けなくてはならなくなるような気がするからです。

 それだけ無駄な大学院入試の勉強をする余裕があるなら自分の分野の研究論文を一報でも多く読み解いて自分で論文を書くくらいの実力を得たほうがよいと思います。

 ただ、大学院で学ぶ場合、世界の論文を読み解いたり論文を投稿する際には英語で提出する必要がある以上英語や専門は知っておいたほうがよいにはよいと思います。

 それにしても基本的に英語と専門(場合によっては数学)といった普段やってればたいてい身についていることを、ことさら大学院入試のためだけに時間を割く意味がわかりません。そうした無駄なことに長時間費やしている方はそれまで(大学なら4年間)の間、何をしてきたのでしょうか。そんなのに時間を割くだけ無駄なのではないかと考えています。

 なお、私の高専の学生時代は私のほかに同じ研究室のメンバーは2人いて彼らも私同様2人も大学に行ったのですが、1人の方が大学入試のためだけに何ヶ月、何年も勉強しているのを見てて、何でこの人は無理に学力を高めようとしているのだろう、と疑問に思いました。


会社から求められる役割


 そうした大学院を卒業してから研究者になりたいと考える人の中研究職を目指す人の中には、普段から研究しているからこんなもんならチョロいという考えや、営業とかは苦労するってよく聞くから研究でええわといった姿勢があるかもしれません。

 確かに研究室単位で産学連携からコネ続きで入社できる可能性を有している場合、大学院時代にしていた研究をそのまま仕事として継続できることがあるかもしれません。そしてコネがあるかはわかりませんが年ごとに産学連携の件数は増えていると言えます。しかしそのような研究室の研究がそのままでき、かつ会社に入社できるなどという例は全体の研究件数に比べると非常に少数であると考えます。

 とすると、多くの研究室の研究が生きず営業に近い研究や、私がかつてしていたように生産に近い研究をする必要もでてくるだろうと考えます。

 一方で研究という「ひとつの事象に徹底的に調べること」は重要で、それを知っているがゆえに売り出すための話法を考え付いたりどこまでわかってどこまでがわからないか、といったことを言えることから、営業で大成する場合もあります。
 そうした意味では研究のノウハウを生かすことはできるのでしょうが研究成果が必ずしも生きるわけではありませんし、生きる保障もありません。

 そもそも会社の場合ならば、研究費を稼ぐよりはまずは利潤を追求することが求められます。研究はあくまで余裕があってなされるものです。ですから 、ずっと消費し続けの研究者は好まれません。そのためには配置転換を余儀なくされることも多いです。とすると、研究者になることは通過点ではあるかもしれないけれども決してゴールではない、と考えられます。

 加えて実際ほかの部署の仕事をしてみたら研究よりもそっちのほうが興味深くなる可能性もあります。ですので最初から研究以外は向かないはずだ、と考えるのではなく、まずは経験してみてから向いてる、向いていないを判断する、といった心の余裕を持つことが大切と考えます。

 さらに見方を変えて、会社側からすると高学歴な方を採用しようとする場合、より高給を支払う必要が出てきます。そうした支払われる給料に対して、見合った働きをしてくださればよいのでしょうが、大学院卒の場合大卒のそれとは期待される見込み量が異なり、成果を期待されるプレッシャーに耐え続けることも必要となります。



肩書きや学歴以外に自身の持てる部分を持つ


 以上から研究者としての考え方は役立つかもしれませんがそれがそのまま生きるということはない、すなわち自分の思い通りにならないことが多いと思います。

 しかしそうしたことに落胆するのはもったいないとも思います。ですからそうした理不尽にあっても何とかする意気込みを持つため、たとえば研究をどう生かすか、であるとかどういった研究成果を残したか、であるとかを考えておく必要がある気がしています。
 そしてあくまで研究者は通過点として認識しそれまでに目の前にある課題をクリアし、実力をつけておく必要がある気がしています。
 小さな会社でしたらないかもしれませんが、ある程度大きな会社ならば部署移動ができます。そうした制度を利用して、必要なときに研究者になりたい意気込みをアピールするのです。すると最初は研究者でなくても最終的には研究者になれる可能性があります。

 大学院の受験勉強に関しても付け焼刃で勉強せざるを得ないにならば、そうした普段からの勉強のしなさ、実力のなさについて認め、あるいはそれを恥じたほうがよいと思います。

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