科学教より己教

 
 学生時代に卒研発表の発表会で「あんたの言ってることは宗教か?(自分のしたいようにデータを扱うのか、ということ)」を言われたことがあります。
 そのときは何が問題なのだろう、なぜそのような言われ方をしたのだろう、などとただただ怒られたことに凹んでいました。
 しかし数年後社会人で仕事をするにつれ、言われている本当の意味やデータを良くも悪くも見つめるその大切さがわかりました。
 そしてさらに数年後、改めてよく考えると、データを取っている以上その時点で何らかの意図は働いていると考えました。
 すると、データを集計していながらも、実は自分の思い通りのデータしか集計していない=データに踊らされているのではないか、と考えました。データを見ている以上は真実ではないですし意図されたデータを見て真実だと思っていても、それは真実の究明にはならないと考えました。
 そのような経緯からここでは科学を科学教としデータで都合の良い解釈をしていることが多いこと、それを認識し、打ち消す方法を書いてみました。


科学とは


 科学は自然界にあった状況を再現し、仮設を立て再検証するものです。
広辞苑(新村出編 岩波書店 2008第6版)には
観察や実験など経験的手法によって実証された法則的・体系的知識
と書いてあります。
一般に定義として使われる法則を公理といいます。それから導き出せるものを定理といいいます。

 公理は正しいらしい、といえますが真実であるとは限りません。それを証明するには反証実験を行います。しかしそれには多大な労力と時間がかかります。ですのでいちいちそんなことはしてられません。通常公理は正しい、として扱います。

 データと論文における関係性もそうです。通常人がデータを編集すると何らかの意図や思惑が介在します。それをもって論文の作成に当たります。しかしこのデータの取り方も場合によっては何らかの意図が存在する可能性がある、と思われるのです。

 たとえば菌数を数えるにしても特徴的な目に見える大きさのものを選択的に数えていることがあります。実際にすべての菌の数は数えていません。というかそもそも数えられません。
 つまりわからないことを何らかの基準を持ってわからないなりに解明しようとすることが「科学」というものなのかもしれません。とすると科学は宗教同様科学はある意味科学教といえなくもないのかなと考えます。



科学教より


科学は科学教であっても私自身はいいと思います。

 しかしそれを何の疑いもなく信じまた人に強要するのはどうなのかなと考えます。それこそキリスト教が唯一の宗教であるとユダヤ教徒に押し付けているのと一緒でしょう。場合によっては戦争にまで発展してしまいます。

 ですからこそデータに頼りきりにならず自分で考える力が必要なのではないでしょうか。すなわちそのデータの取られた背景や意図を”読む”力が必要な気がします。

 例えばこちらの記事<日経新聞>にもあるようにダイキンが理化学研究所と共同で温湿度にかかる人間の疲労度を実験しています。ダイキンはエアコンや除湿機でトップの売り上げを誇る企業です。だとするとこれはその環境自体と人間の疲労度を知りたいと思う意図ももちろんあると思いますが、それ以上に、この実験の結果がわかることによって、将来的には疲れの少なくなるエアコンを開発することが考えられます。


考えることと信じること


 そのため自分の考えや基準を普段から持っておくことは重要です。そしてそれを信じて疑わないこと折れない気持ちや自分を信じるこというなれば「己教」のような金字塔を打ち立てる必要があると感じます。

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