「人を動かす」には「いう」より「する」

 大学教授や著名な有名人など、世には「偉い人」が多いです。彼らの中には確かに「聞こえはいいこと」を多く言うし、「もっともらしい意見」や戯言を言う人が居ます。そうした人は実践していない人にとっては自身の体現者であると同一視したり、あるいは評論家をヒーローと思われることはあると思います。
 しかし実際に工数や金を出して行動している実践者は評論家よりは何倍も、何十倍もあるいは何百倍も評価されるものであると考えられます。というより過去の出来事から実際に評価されます。
 一般的にそうした実践者によって人は動くし行動することがあるので、ここでは特に「人を動かそうと考える場合」そうした評論家よりも実践者が大事だということと、それぞれの特徴、最後はどうしたら評論家から実践者になれるかを書きたいと思います。


 二つの組織の形


 人が集まって何かの目的を達成する場合には多く「組織」を作ります。一般的に組織を作るうえで重要なのは「いかに早く」「官僚のような組織」を「作るか」です。
 この官僚組織の考え方は、要は一人の支配者を置いてそれによって命令を行わせると言う意味でのトップダウン的な考え方です。トップの考え方や指示が『間違っていなければ』行動も迅速にすることが出来ますし、効果も高いと言うのが一般的な考え方です。
 それに対して現場や下から情報をあげるボトムアップ的な考え方もあります。現状の状態から推察して相手との交渉を元に妥当な選択を相手に迫っていくと言う考え方です。まとめたりどういう方向性でいくのかを考えるのには思考力や工数が必要ですが、妥当な選択を得ることが可能です。


官僚組織の問題点


 現状の国や地方公共団体、その他会社などの組織に関して、多くは前者のような官僚型の組織が良いとされ、実際そのような形で組織構成がされています。
 しかしこれでは末端の意見なんかどうでも良くて、トップが現場の情報をないがしろにして間違った選択をした場合には間違った行動を選択してしまいがちです。間違った選択をしてしまい例えば会社が倒産するくらいならばお金がなくなったくらいで問題はないですが、宗教戦争などで人を殺してしまったりする場合においては取り返しがつかなくなるため大きな問題となりえます。
 最近の例で言うとブラック企業がはびこっている現状や、教員への過酷な労働環境が提示されていることなどがあり、時折ニュースでも話題に上がっています。

 またこうした官僚型組織ですとどうしても「肩書きが上位の方がトップに行くべき」などと思れがちです。そして「肩書きの良い人というのはいいことを言っている」とも思われがちです。
 しかし実際は必ずしもそのようなことはありません。もちろん純粋に力をつけてきた結果としてその肩書きを持っている人も居るにはいるので、その方々を否定するつもりは毛頭ないです。ですが、割合的に不明ながら少なくとも金を出している実践者や裏に存在する権力者によって肩書きを「利用されている」ことのある人が祭り上げられている場合があります。 そうした何者からの意図のもと「肩書きを利用」されている発信を真に受けると騙されます。
 例えばマスコミにはスポンサーが居るため、そのスポンサーの意図によってニュース報道が変わります。スポンサーにとって都合の悪いニュースはスポンサー自身の首を絞めることにもつながるため基本的には報道しません(わざと報道させて健全性をアピールするといった方法も取られる)。

 なおトップから意味不明なことを言われて不満を抱えながらぶーぶー文句を言いながらも行動したり、裏の権力者などによって騙されたとしてもそれが幸せならばそれも一つの方法なのかもしれないです。
 しかしひょっとすると世に居る多く居る人の中には、そうした組織構造を理解したり肩書きに騙されないことを認識することによって、今後更なる楽しみのようなものが見出されることがあると思います。
 そうした楽しみを見出してみたいと思われる方、また上記現状の組織特有の問題を変えてゆきたいと考える方の場合、下記の評論家から実践者に代わる必要があります。ですのでそれぞれの特徴を以下に書きます。


評論家と実践者の特徴


肩書きに利用されてる評論家


 上記の肩書きに利用されている方は他人だったらまだしも実はそれを「本人自身が認識していない」こともままあります。
 そうした「知らず知らずの内に自分が肩書きに騙されている」方は、心のどこかで「肩書きを持っているから偉いはずだ」と思っています。これは「実践できない弱い自分へのコンプレックスによる」ものです。
 そうした実践することにコンプレックスを持っている方は実践にコンプレックスを抱えているため実践しません。するといつの間にかきれいなことしか言わない評論家と化してしまいます。

 評論家は非常にラクな役割です。
 なぜなら失敗をしても責任を取る必要がないですし、それに加えてあらかじめ案を出した実践者に対して否定していればそれがあたかも「仕事として成り立っているように見える」からです。
 これはいうなれば「ノーリスクで賭けをしている」ようなものです。
 そうした方は形上はいいことを言います。そして無駄に人を活気付けようともします。しかしリスクを負っていないため「本気で」ついてきてくれる人は少ないです。


評論家と対極な実践者


 上記のようなわけのわからない権力者や組織の論理などに動かされるよりは自分から時間や労働と言うリスクを負って実践的に動いた場合のほうが、プラスになるのではないかと思います。
 教育でも無理やりやらされたものより自発的にしたものの方が成績が上がったとされている結果もあります。
 ですのでそうした働きかけをするには自分や他人が実践者になる必要があると思います。
 実践者は時に評論家を観察しています。そうして実践することによって評論家の集めた人たちを自らの財産を使って動かすことが可能です。言葉だけでなく実践しているため理由を説明されても説得力があります。

 もちろん実践してもいつも100%で成功することはないですが、それでも実践することによって失敗から新たな発見をして学ぶことは出来るでしょう。例え失敗したとしても挑戦権さえ放棄している「絵空事しか言わない評論家」とは「月とすっぽん」ほどの違いがあります。

 そして面白いことに人は多くリスクを負わない評論家よりもリスクを負ってる実践者についていきます。人によっては「よくわからないけど…」といったり、表現できる人については「熱意がある」と言ったりします。


究極どうでもいいが実践者になる方法


 評論家になろうが実践者になろうが、正直他人のことではあるのでどうでもいいといえばどうでもいいことではあります。

 しかし実際に組織上の問題に直面して何とかしたいと思っていたり、それにより不満な状況から脱出したいと考えていたりするのであれば、それこそすぐにでも評論家から実践者への脱皮をする必要があると思います。

 そのためにはリスクを負って行動する必要があります、先に示しましたように「金や財産を使う」ことはもちろんのこと、「工数をかけるといった行動」的な面でも自らリスクを負う必要があるのです。リスクを負えないうちは正直いつまで経っても評論家のままだと思います。

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