隠居として投資家の役割
僕は「実生活で潔く隠居できるような人、あるいは若者に次世代の受け渡しの出来るような環境」を作りたいです。
なぜなら皆自分の能力の限界があり、そしてその限界は年々広がり、自分の実力以上のことをできる(特に若い)人については応援する行為をすることが重要なのかもしれないと考えるからです。
近年ではインターネットが盛況で現場第一線で頑張っておられる方の情報は簡単に手に入ります。僕以外の第一線で頑張ってくれる方が居てくれるのは大変嬉しいですが、一方でそうした方は、いつまで一線で働く必要を持っているのか、自分の衰えを否認して無理してイキることに何の価値があるのだろうと考えます。
ですのでそうした「自らの衰え」を実感した時に「隠居」や「他人を立てる仕事として」の役割を考えてゆくことは大変重要だと思っています。ここではそうしたことを実践するためにどうするか何が必要かといったことを書きます。
インターネットでは多くSNSにて自慢合戦をしています。確かに自慢できる環境のあることは自分がどれだけ素晴らしい人間か、他人と比べて自分の優秀さを誇示できる意味で心地良いです。
また僕の友達でもじゃんじゃかじゃんじゃか投稿して、「何々しませんか」「何々が熱いです」「これだけ結果が出ました、俺偉い」ことを示しています。そうした有意義な情報もインターネットの発達する前と比べると、現在では回線とスマホがあるだけで簡単に手に入るようになりました。
また情報だけでなく物も明治維新、朝鮮戦争特需から始まり現在は当時の状況と比べて発達の一途をたどり、世界の工場であるシナもあることから、終戦時に比べてかなり「品質の高い製品」を「安価」で手に入れることは可能です。
しかしいくら情報や物があって接する機会があったとしても、それが自分がどう思っているのか、すなわち自分が「本当に興味があるのか」といった心の面や心の発達の面では改めて考える場面のようなものはあられるでしょうか。私はそうした心の面の発達は技術発達に追いついていない部分があるのではないかと考えます。
一般的な「心」の分析であれば、お医者さんであったり大学の研究室の先生であったりすれば評論家的な視点に立って考察せしめることは出来るのでしょう。しかしほかならぬ自分自身にとっての「心の動き」を普段どれだけ理解している方が世の中に居るのか正直疑問です。大半の人が「自分の心の動きに普段は目を向けない」、あるいは、「考えてもいない」状況なのではないかと考えます。
また「心」だけでなく「体」についても同じです。医療技術の発達に伴い、二十年前三十年前と比べて寿命も延び続けて多くの時間生活をおくれるようになっています。見た目的には大きく変わっていることはないでしょうが、自身の体は一日一日老化することは当たり前とされています。それは生物として生きている以上致し方ないことであると考えます。
となると時間の経過に伴い自身の「老化のあることを認める」こと、「老人であるのなら無理をしてまで若者のように振舞う必要はない」こと、それに伴って「社会における自分の役割を考える」必要があるのではないかと考えます。
医療やモノ作りの技術が発達していることと、それに伴って心や体の衰えを認識していることが遅れていることについて、出来れば車輪の両輪のように両者を認識できれば最高とまでは行かなくても自分にとっての最良、あるいは他の人とっても「幸せ」であることは認識できるのではないかと考えています。
この両者間で差の起きることは、自分自身の心の環境と外の心の環境とに差があることが原因なのではないかと考えます。その差を埋めるためには今自分の状況がどんな状態であるのかを認識することが必要なのではないかと考えます。
自分が自分自身である状況を認識する方法としてはたびたびブログでも書かせてもらっていますが「挫折」の経験することが大切である気がしています。挫折は通常「大病、投獄、浪人、左遷」という「自分ではどうしようもないような出来事=理不尽」によって現場が立ち行かなくなった状態であり、言うなればこうした理不尽の現場によって「立ち止まり」「点検すること」といえることのような気がしています。
理不尽を得る意味ではそうした外や現場第一線に積極的に顔を出す必要があるのかもしれません。外や現場第一線ではない家庭や学校では、あらかじめ厳重に管理された環境下にあって、外界からの理不尽といわれる刺激はシャットアウトされがちでしょうし、そうした状況を経験する必要性も感じることがないからです(親の考え方が固いと思ったり学校の校則がむちゃくちゃだと思ったりすると、それはそれで理不尽と考えられなくはないです)。
現状を知った上で次に想定されることとしては自分自身の立ち位置と他人への関与の仕方を考える必要のあるような気がしています。それぞれどういうことかを以下に示します。
挫折して自分自身の「ふがいなさ」だとか「ちっぽけさ」だとかを認識した後に、今後をどう生きるか体力が衰えることを認識した上、自分が「どういう死に方をするか」など、生きているうちに考えておかねばならぬことかと思われます。
もちろん「死ぬこと」まで想定する必要はないかもしれないと考えることはあるかもしれません。しかしいつ何時どんな事故が起こって亡くなってしまうかもしれません。明日交通事故であっさり死んでしまうこと、遺伝病で突然認知症になってしまうことも考えられます。そうした意味で「出来ること」を「出来るうち」に準備しておくことは必要なのではないかと考えます。
これはいうなれば経営で言うところの「リスクヘッジ」です。あらかじめ最悪の事態を想定しておくことでそれ以上に悪くことはないだろうと心の内面でも安定させることが出来ます。
それと同時に他人に関しては第一線で活躍できる人や自分が老いた後を継ぐであろう後輩や後継者をあらかじめ想定しておくことは重要なのかも知れないと考えます。
そうした環境を作る意味では応援したり投資をしたりして後の人を「立てる」もしくは「育ててゆく」視点が必要かも知れません。
そのためには後継者や思いを受け取ってくれる人に自分の資産というリスクを投じて応援するといった行動を取ります。具体的には自分の心揺さぶられるような楽しいことに全資産を投入してもいいのかもしれません。
どうせ資産なんて死んでしまえばなくなるものなのだし、死んでなくなるくらいならばいっそのこと応援できそうな楽しいことに全資産を突っ込んだほうが応援された人のためにも自分のためにも嬉しいことであるような気がしています。
多くの方は自分の資産が死んでも惜しく、ひたすらためることを是とし、死んで他の人に贈与される過程で国に接収されることを望むのでしょうが、本気で相手を応援したいと思うのならば、国に接収させることなく資産が尽きるまで相手を応援し続けたらいいのではないかと思います。そのほうがよっぽどお金としての使い方は有意義と思います。
一番の不幸は自分の現在の状態を知らず、また応援したいような相手と接することがなくただ毎日をだらだらと過ごしているような状況の場合です。
そうした状況は「自分が自分でわかっていない」意味で寂しいことだと思いますし、「お金はあっても心のつながりを持てていない」という意味で、全盛期にはさぞ非常に悲しいつながりをおもちだったのではないかと私は思います。
そうした考え方の転換は若ければ若いほどいいと思うので、そうした「リスクを負って人に応援する大切さ」は持っておいてほしいと思っています。 リスクを負って応援する人はもちろん私でもいいですが、どうせならご自身の身近な人で応援したい人に資産を投じて応援してともに幸せを分かち合って欲しいです。
なぜなら皆自分の能力の限界があり、そしてその限界は年々広がり、自分の実力以上のことをできる(特に若い)人については応援する行為をすることが重要なのかもしれないと考えるからです。
近年ではインターネットが盛況で現場第一線で頑張っておられる方の情報は簡単に手に入ります。僕以外の第一線で頑張ってくれる方が居てくれるのは大変嬉しいですが、一方でそうした方は、いつまで一線で働く必要を持っているのか、自分の衰えを否認して無理してイキることに何の価値があるのだろうと考えます。
ですのでそうした「自らの衰え」を実感した時に「隠居」や「他人を立てる仕事として」の役割を考えてゆくことは大変重要だと思っています。ここではそうしたことを実践するためにどうするか何が必要かといったことを書きます。
技術発達した社会と自身の心・体。
インターネットでは多くSNSにて自慢合戦をしています。確かに自慢できる環境のあることは自分がどれだけ素晴らしい人間か、他人と比べて自分の優秀さを誇示できる意味で心地良いです。
また僕の友達でもじゃんじゃかじゃんじゃか投稿して、「何々しませんか」「何々が熱いです」「これだけ結果が出ました、俺偉い」ことを示しています。そうした有意義な情報もインターネットの発達する前と比べると、現在では回線とスマホがあるだけで簡単に手に入るようになりました。
また情報だけでなく物も明治維新、朝鮮戦争特需から始まり現在は当時の状況と比べて発達の一途をたどり、世界の工場であるシナもあることから、終戦時に比べてかなり「品質の高い製品」を「安価」で手に入れることは可能です。
しかしいくら情報や物があって接する機会があったとしても、それが自分がどう思っているのか、すなわち自分が「本当に興味があるのか」といった心の面や心の発達の面では改めて考える場面のようなものはあられるでしょうか。私はそうした心の面の発達は技術発達に追いついていない部分があるのではないかと考えます。
一般的な「心」の分析であれば、お医者さんであったり大学の研究室の先生であったりすれば評論家的な視点に立って考察せしめることは出来るのでしょう。しかしほかならぬ自分自身にとっての「心の動き」を普段どれだけ理解している方が世の中に居るのか正直疑問です。大半の人が「自分の心の動きに普段は目を向けない」、あるいは、「考えてもいない」状況なのではないかと考えます。
また「心」だけでなく「体」についても同じです。医療技術の発達に伴い、二十年前三十年前と比べて寿命も延び続けて多くの時間生活をおくれるようになっています。見た目的には大きく変わっていることはないでしょうが、自身の体は一日一日老化することは当たり前とされています。それは生物として生きている以上致し方ないことであると考えます。
となると時間の経過に伴い自身の「老化のあることを認める」こと、「老人であるのなら無理をしてまで若者のように振舞う必要はない」こと、それに伴って「社会における自分の役割を考える」必要があるのではないかと考えます。
技術と心の穴埋めをするには挫折する。
医療やモノ作りの技術が発達していることと、それに伴って心や体の衰えを認識していることが遅れていることについて、出来れば車輪の両輪のように両者を認識できれば最高とまでは行かなくても自分にとっての最良、あるいは他の人とっても「幸せ」であることは認識できるのではないかと考えています。
この両者間で差の起きることは、自分自身の心の環境と外の心の環境とに差があることが原因なのではないかと考えます。その差を埋めるためには今自分の状況がどんな状態であるのかを認識することが必要なのではないかと考えます。
自分が自分自身である状況を認識する方法としてはたびたびブログでも書かせてもらっていますが「挫折」の経験することが大切である気がしています。挫折は通常「大病、投獄、浪人、左遷」という「自分ではどうしようもないような出来事=理不尽」によって現場が立ち行かなくなった状態であり、言うなればこうした理不尽の現場によって「立ち止まり」「点検すること」といえることのような気がしています。
理不尽を得る意味ではそうした外や現場第一線に積極的に顔を出す必要があるのかもしれません。外や現場第一線ではない家庭や学校では、あらかじめ厳重に管理された環境下にあって、外界からの理不尽といわれる刺激はシャットアウトされがちでしょうし、そうした状況を経験する必要性も感じることがないからです(親の考え方が固いと思ったり学校の校則がむちゃくちゃだと思ったりすると、それはそれで理不尽と考えられなくはないです)。
現状を知り次に想定されることとは
現状を知った上で次に想定されることとしては自分自身の立ち位置と他人への関与の仕方を考える必要のあるような気がしています。それぞれどういうことかを以下に示します。
自分自身の立ち居地
挫折して自分自身の「ふがいなさ」だとか「ちっぽけさ」だとかを認識した後に、今後をどう生きるか体力が衰えることを認識した上、自分が「どういう死に方をするか」など、生きているうちに考えておかねばならぬことかと思われます。
もちろん「死ぬこと」まで想定する必要はないかもしれないと考えることはあるかもしれません。しかしいつ何時どんな事故が起こって亡くなってしまうかもしれません。明日交通事故であっさり死んでしまうこと、遺伝病で突然認知症になってしまうことも考えられます。そうした意味で「出来ること」を「出来るうち」に準備しておくことは必要なのではないかと考えます。
これはいうなれば経営で言うところの「リスクヘッジ」です。あらかじめ最悪の事態を想定しておくことでそれ以上に悪くことはないだろうと心の内面でも安定させることが出来ます。
他人への関与の仕方
それと同時に他人に関しては第一線で活躍できる人や自分が老いた後を継ぐであろう後輩や後継者をあらかじめ想定しておくことは重要なのかも知れないと考えます。
そうした環境を作る意味では応援したり投資をしたりして後の人を「立てる」もしくは「育ててゆく」視点が必要かも知れません。
そのためには後継者や思いを受け取ってくれる人に自分の資産というリスクを投じて応援するといった行動を取ります。具体的には自分の心揺さぶられるような楽しいことに全資産を投入してもいいのかもしれません。
どうせ資産なんて死んでしまえばなくなるものなのだし、死んでなくなるくらいならばいっそのこと応援できそうな楽しいことに全資産を突っ込んだほうが応援された人のためにも自分のためにも嬉しいことであるような気がしています。
多くの方は自分の資産が死んでも惜しく、ひたすらためることを是とし、死んで他の人に贈与される過程で国に接収されることを望むのでしょうが、本気で相手を応援したいと思うのならば、国に接収させることなく資産が尽きるまで相手を応援し続けたらいいのではないかと思います。そのほうがよっぽどお金としての使い方は有意義と思います。
認識できず応援できない不幸
一番の不幸は自分の現在の状態を知らず、また応援したいような相手と接することがなくただ毎日をだらだらと過ごしているような状況の場合です。
そうした状況は「自分が自分でわかっていない」意味で寂しいことだと思いますし、「お金はあっても心のつながりを持てていない」という意味で、全盛期にはさぞ非常に悲しいつながりをおもちだったのではないかと私は思います。
そうした考え方の転換は若ければ若いほどいいと思うので、そうした「リスクを負って人に応援する大切さ」は持っておいてほしいと思っています。 リスクを負って応援する人はもちろん私でもいいですが、どうせならご自身の身近な人で応援したい人に資産を投じて応援してともに幸せを分かち合って欲しいです。
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