多くの学生は市場にならない一考察

 知り合いでかつて自分が学生だったことから学生を支援したいと思う人がいます。しかしそれはどうなのでしょうか、ひょっとしたら学生や幼児向け対象の市場はないのではないか、あるいはあっても市場は拡大していかないのではないかと考えます。そうした学生向けの支援をすることについて、例えば学生支援向けの団体を個人で作ろうとしている方に対して、ちょっとやそっとの生半可な気持ちでサービスは出来ないのではないかなといったことをここでは書こうと思います。


市場の原理とお金


 一般的な市場は社会に望まれているものを、資源のあるものAが加工して望む人Bにあげて、そのお返しとしてBが次回加工に対する応援をAに送って成り立っています。
 当然そのAB両者間では「信用」があってのもので、基本的に加工品をもらったお客さんであるBは応援としてAに「お金」といった形を渡します。お金は加工したもの自体を得るためには必要ですがそれだけでなく、労働力や人を動かすためのものなど、パワーがあるものです。
 一般的にお金の価値は国が認定しています。ですから国としての信用が無くなったりするとお金の価値が紙くずになったり超高級なものとなったりします。われわれの使っている身近な日本「円」は世界的に見てもかなり「信用の高い」ものといわれてます。

  国家間はもちろんですがそれだけでなく他の人との取引でもこの「信用」が大事なことは言えます。信用が低くなったら単位あたりの価値が下がり同じような労働をしても必要なお金の量が増えます。例えば今まで1000円で一時間労働していても、その信用価値が下がると同じ労働をしていても2000円も3000円も必要になります。 そうした意味でお金を約束を反故された場合に対しての担保として使うことが可能です。


学生が無責任となりうる理由


 一方市場外には上記の一般的な性質を知る社会人だけでなく幼児や小中高校生、大学生などが居ます。彼ら生徒さんや学生さんの多くは基本的に親の管轄下で社会に出ている身分です。運転免許ならいわば仮免状態で社会に出ているといって間違いないでしょう。その上で、彼ら学生さんは学生でない人と比べて何が違うか三つ考えてみました。

 ①学生さんは基本的に「親がお金を払って学校に通わせてもらっている身分」です。所属組織に対して責任を負っていないことから帰属意識も薄く、約束を破っても責任は問われません。当然担保も持てないケースが多いですから責任を負って仕事は出来ません。
 ②お金についても自分で稼いでいるケースは日本では少ないと思います。もちろんバイトをしている生徒さんや学生は多いと思いますが、多くはあくまで「自分の遊びのためのお金」であり、生活を支えるほどの切羽詰った状況で働いている人は少ないと思います。ですから「お金に対し」てその価値がわからないまま生活をすることになっているのです。そうしたお金を使っているのにその価値がわからない学生と本気で価値をわかって使っている社会人や経営者とは価値観が違います。
 ③また法律的にも20歳までもしくは大学を卒業するまでは少年法や社会的にも親から守られています。ですからたとえ相手に迷惑をかける行為をしていたとしても社会的な責任を負わずに好き勝手することが出来ます。

 これらのことがすべてクリアできる若しくはクリアできる覚悟がある学生さんがいるのならば信用に値する人と言えなくはないですが、そのような人は社会人に比べると高校生や大学生の中でも本当にごくごく一握りなのではないかと考えます。 特に”子供を容易に大学卒業させられるくらい資産を持った裕福な家庭が多い現代にとっては”ですね。言い換えると学生さんの多くが無責任で信用に値しないのではないかと考えます。


社会のルールを学生には適用できないのでは


 そうした多くの信用に値しない無責任な生徒さんや学生さんに対して、信用で成り立つ社会のルールを適用して守ってもらうことが出来るのか、といった疑問を私は感じます。というよりきっと約束を守ってもらうことは出来ないでしょう。なぜなら子供や学生サイドが約束を破ったところで組織もお金も法律も責任を負うのは本人ではなく学校や親や社会などの他人だからです。
 相手にした行為や費やした時間や労働に関してもそうです。自分で社会的な責任や金銭的な責任を負っていない学生さんに対して投資をしたとして、何かの天変地異が起こりさえすればひょっとすると価値が何十倍何千倍といった倍率に膨れ上がることはあるかも知れません。
 ですが一般的に社会的、金銭的、法律的な責任を負っている社会人に比べると、個人で時間やお金を費やす効果のようなものは社会人のそれより幾分か効果が薄い(お金や時間の重要性を理解していないのでそれらの使い方が下手)、あるいは効果の発動するまでに時間がかかる(まずは学生を終えてからその後に社会人となって効果が発動するまでに数年規模でかかる)可能性があります。若しくはもともと約束を破るつもりで近づいてくる学生さんも居るでしょう。そうだとしたら学生に関わる価値は小さいです。


それでも可能性を信じたいならば


 ですが文字通り腐るほどの、例えば国家転覆を目論めるほどの非常に多くの資産を持っていて、それを根こそぎあげたいお気持ちであったり、将来的に発展する市場の可能性を考えていなくても良い(そんな場面あるか?)と思っているならば、そしてそうした資産をあげようとしている人自身が死ぬ覚悟があるならば一つの可能性として学生支援をしてみるのも良いのではないかなと思います。
 しかしそれにしてもちょっとやそっとの種銭を投じたとして市場が発展することはないでしょうし、本当の意味で生徒や学生の支援をしたいと思っているならば資産の食い潰しをされること以外考えられないと思います。若しくは学生さん自体を自分が信じられなくなってしまうといった問題が生じてくる危険性を感じます。


そもそも相手はそれを望んでいるか


 また、いくら外野側が「こうしていきたい」と思っていても学生側が「望んでいない」ケースがあります。そうならばわざわざサービス自体が必要ないものなのかもしれないと考えます。
 自分が何らかのアクションを起こしてそれに対する返答が容易に予想できる場合であるとか、反応までリアルに想像し、そしてそのとおりに相手が乗ってきたのでしたらサービスの重要性や説明をしてもいいのかもしれません。
 しかしその準備過程で相手が否定してきたとしたらサービスを提供する以前の問題で、相手がサービス提供者の考え方まで達していなかったということが考えられます。だとするとサービスを作ること自体が無意味です。それならいっそしないほうがましです。


まだ保護者向け市場なら発展はありそう


 支援する市場の拡大することを考える場合、まだ学生さん本人ではなく学生さんにお金を出している「保護者向け」でしたら可能性は期待できるかもしれません。しかしそれにしても結局は学生を対象としているものではないので「学生向けサービス」とは異なった形になると思います。
 となると前提としての「かつて学生だったから学生向けのサービスをしたいと思う社会人の熱意」はなくなります。となると最初の例でしたら前提からすべて覆ることになります。だとすると「詰み」です。

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