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7月, 2015の投稿を表示しています

混沌状態の問題に対し自ら答えを出す。

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答えが見出しにくい現代において、問題の発生する場合があります。 そうした場合、何が正解で、何を「良し」とすればよいのでしょうか。 ここではどうした行動をとることでそれら問題の答えを見出すことができ、 また考え方の面で何に気をつければよいか、といったことを書きました。 世の中は不確実です。 世の中は不確実です。 ですから確実なものを得るため何かに“すが”ります。 婚姻届やお金など、目に見えるものが対象となる場合もありますし あるいは占いや人間関係など、目に見えないものが対象となる場合もあります。 こうした“すが”る原因として、その心には ・これしかないのだといった強迫感や ・これが絶対的に正しいといった崇拝感 があるのかもしれません。 これら自体のあることは別に問題ないのですが 個々が行き過ぎてしまう(程度が大きい)と、自分自身の神経症や 他人に対する「自分の考え」の押し付けとなってしまいます。これは問題です。 ですからそうした問題を防ぐために、現実を適切に見る目や 難しくて考えたくもなかったようなことを理解する頭が必要です。 その際、効率的なことを執着してしまうとかえって非効率になります。 例えば肉体的な疲れを認識せず働き続けることで やがて心の病気になってしまう場合がそうです。 こうした場合には肉体的な疲れを認識する目が必要になります。 ①自身を知り、計画/行動/記録する。 そこでそうした現実を適切に見る目や 考える頭を持つためには「自身を知る」必要があります。 自身を知る例として世には精神分析があります。精神分析では すべての(心の)問題の答えは無意識の中に存在していて それを意識的に表出させて解決する といわれています。 他に答えを安易に求めず、自分から考えを発する方法ですが、 この方法を応用することで、問題を解決できます。 その応用の方法として、「計画を立てること」があります。 はじめに目的を立て、次に行動します。行動後は記録を読み返し、 目的に立ち返るか適宜行動を修正してゆきます。 はじめに目的設定には、 Yes/Noといった二項対立や なぜ?といった開かれた質問をする ことで見出せます。 次の行動では、 行動を続け習慣化すること

一に差別化二に関係

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差別化も必要ですが関係を維持することも必要です。  自社で「ものづくり」を行う場合、はじめに差別化や技術力を持つことが大事ですが、その次には「他社との良い関係を作る」ことが大事となります。この「他社との良い関係を作る」場合にはなぜ、どのようなことに気をつけ、どうすればよいのでしょうか。それらを明らかにするため、ここでは他社と良い関係を作るための方法を示すとともに、この事例から我々の生活ではどのようなことが応用できるか、といったことを書きました。 関係性を望まれる状況  BtoB(ビジネスtoビジネス:企業間取引)を主とするものづくりの企業において、第一に求められるものは「他との差」や、「技術力」の高いことです。そして第二には「他社との関係を持つ」ことが求められます。  なぜ二番目に他社との関係を持つことが大事かと書きますと、それがない場合には、自社が裸の王様になってしまうからです。するとせっかく自社が技術力の高い良い製品を作ったとしてもそれを売る販路が出来上がらなかったり、あるいは改良に向けての情報も入ってきたりしません。  これは企業にとって良いものを作り続けようと思った場合には問題です。そこで「他社との良い関係を作る」方法を考えます。 強気を伸ばし、弱気は協力する。  通常企業で成長戦略を練る場合強い、弱い、機会、脅威をそれぞれ図示したSPOT分析をします。すると自社で強いポイントや、弱いポイントが見出せます。  そして 自社の強いポイントは 以下の方法を使って 新しい発想や攻める場所を生み出し ます。1、枯れた出来事の組み合わせで新しい出来事を作り上げる。2、これまで問題とされてこなかったことを改めて問題として提起する。  また 自社の弱いポイントは他社との協力をして、対策を打ち ます。 ここで他社との関係が重要 になります。人にもそれぞれ得意・不得意分野があるように企業にとっても得意・不得意分野はありますから、 自社の弱いところを他社の強いところでカバー します。 協力を図る方法  こうした「自社の弱い部分を協力してもらう」といった関係を作るにはどうしたらよいのでしょうか。  ひとつに、自社の強いところや弱いところを認めたように、 他社の強いところや弱いと

情報の取捨選択を通して仕事の依頼主を慮る

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書道は究極のキーワード学かも知らん 仕事の依頼をし去れる場合の気遣い  仕事は依頼する側と依頼される側とがいます。通常依頼する側、即ち依頼主は、進捗がどうなっているのか常に知りたいと思っています。  一方依頼される側は中途半端な進捗状態よりも一秒でも早く、出来る限り完璧に近い形で依頼主に仕事を渡したいと思っています。  このように 依頼主と依頼される側とで気持ちが大きく異なっていて、仕事上でトラブルが発生し、状況が悪い方向に転がると問題 です。  特に依頼される側が「依頼主に連絡するのは迷惑だ。」と考え、トラブルが起こっていても依頼主に連絡を怠ってしまう場合が問題です。場合によっては時間も内容も、依頼主の希望とは大きく外れてしまうことがあります。  ですからこうした悪い状況を防ぐ必要があります。そのためには、 依頼される側が トラブルの発生する以前から、依頼主への「マメな」フォローをすることが求められます。  では自分が依頼される側になったとしてこうしたマメなフォローを依頼主にするにはどうしたら良いのでしょうか。ここではその方法を書きます。 情報を仕入れて捨てる。循環する。  はじめに ①事前に相手方と自分との違いを知ります 。 場合によっては本などを使って世間と自分との「ずれ」を認識しても良いのかもしれません。その際、自分の知っている部分は全体の一部かもしれないという気持ちを持ちながら、出来る限り多くの情報や見方を持ちます。  そして次に ②文章なり言葉なりで短く伝えます。 そのためには、例えば・5W1H(なぜ、いつ、どこで、何を、何が、どうするを示すこと)や・KJ法(帰納法の応用し、グループ化すること)といった技法を利用して暫定案を作り、常に修正できるようにします。その際上記の技法を使う場合には「型を守り、慣れたらそれを破り、最終的には離れる」ことで、自分なりの表現方法を身につけられます。  上記①、②を循環させることでマメなフォローが出来ると考えています。  なお、日本では 一を聞いて十を知る という言葉があります。内容は以下のようです。 一を聞いて十を知るとは、物事の一端を聞いただけで全体を理解するという意味で、非常に賢く理解力があることのたとえ。  こ

問題解決には暫定案を出し改善し続ける

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 世の中問題は無数にあります。それらをほうっておいてもよいですが、解決できれば嬉しいです。その際、問題解決をするにはあるセオリーがあります。このセオリーを知らないと問題を解決することはできません。問題が解決できないことはこれまた問題です。そこでここでは、世の中にある問題の解決をするセオリーや方法を書きました。 問題対処への簡単な流れ  問題に対してはじめに、一回すべて「前提条件なし」にして考える必要があります。これは当たり前が当たり前ではないことを学ぶということです。逆にいうと当たり前でないことが当たり前な場合もありうります。 それには素直さや推察力をはじめ、広い視野が必要となります。 つまり問題を問題として気づくことにより 問題解決のいとぐちとなり ます。  そして、 とりあえずの暫定案 を書いたり話したりして表現します。書いたり話したりといった表現をする場合には通常欠陥が生じますが後々になってその 欠 陥を見つけて更に改善を加える ことでより現実に即した問題解決案を持つことができます。  なお、問題解決しようとしているプロセスはあっても「これがあればすべて解決できる」などといった 到達点としてのゴールは本当は無い です。逆にいうと 到達点だと思っているゴールはあくまで暫定案 です。ですから どこで妥協をするかといったことを予め考える必要があるかもしれません 。  こうした問題を改善し続ける例として、トヨタの改善案があります。通常他の会社ならもう(この程度で)いいだろうといった案が出ていてもトヨタの場合は違います。 改善案を更なる改善の手段と考え 、改善に改善を重ねていつでも良質な製品を作ります。これはよく 「乾いた雑巾を更に絞る」という 表現 をされます 。 まず必要なのは自分の意見と型  上記のような暫定案を出す場合、以下の順番で並べると自分も他人も理解しやすいのだと思います。 ① 全体を通して自分がどういう 考えか表現 します。 ② 相手の意見を尊重しながら、それに対する自分の意見を出します。 「確かに・・・しかし・・・」  という型を使います。 ③ その根拠と、もう一度総括した結果を出します。 「なぜなら・・・」、「結果・・・」という型を使います。   ②において、 権威を「傘」に着たあいまいな

異常は変態

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異常は特徴があるというだけで、決して悪い意味ではないです。  日本は昔から突拍子も無いことを好む方が一定数います。これはオタク文化をはじめ、古くから、他と異なることや「変態」に興味があったためだと思います(春画や遊郭など)。一方で、こうした変態や異常は国などにより規制がなされたりしました。私が身近と考える精神保健福祉の例であげますと精神障害者を私宅で監置するための法律「 精神病者監護法 」があります。こうした法律により、精神障害を排除したことによって確かに日本国はある程度の人間の質確保や、均一化した考え方が育まれた部分はあると思います。しかしこうした選択が場合によっては悪しき方向に傾くこと問題となってしまう場合もあります。これは残念です。そこでここでは選択時の問題とならないように、変態を認める場合におけるマイナスの側面とプラスの側面とを示したいと思います。 変態はいつから  異常はかつては良くも悪くも注目されました。わけのわからないことをブラックボックスにし、つき物や迷信を信じて異常を排除した部分がありました。(それは現在でも血液型占いを信じることに通じます)一方で古くは春画や遊郭などをテーマにしたものが江戸時代、もっとそれ以前からあられたのだと思います。  こうした異常即ち変態をひとつのジャンルとして表現したのは明治期からといわれています。海外の知見を取り入れることにより他国と日本との違いや日本の変態性を確認できたのかもしれません。  当時異常性を変態として研究した方は居ましたがミイラ取りがミイラになると言う言葉があるように、私は彼らは彼らでまた変態だったのではないかと考えています。 変態とは  私は変態とは異常と同じもので、悪くは無いと考えています。そこで私は変態を認めるマイナスの面とプラスの面とを以下に示します。 変態を認めるマイナス面  異常や変態を認めてしまうとこれまで集まっていたものがばらばらになることから 一貫性を持ちにくく、「目的」に沿って行動しにくく なります。  例えば上記の私宅監置法などの法律や、国家戦略でも言えます。国は維持することも目的のひとつとしてありますが、そのような場合、異常や変態を「ある」と認めてしまうことでという組織の存在する意味

NOをいう大切さ。

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はっきり断ったり、助けてを表明することも重要です。  こだわりが強いと現実を見失い、それが強すぎてしまうことで自分だけでなく他人をも傷つけてしまうことがあります。これはともに社会で生きていく上では問題です。そこで、ここではそうした現実を見失った人と接する場合、場合によってはきっちりと自分でNO!ということ、あるいはほかの人の協力が必要なことを書きました。 自らを見失う:他者を滅ぼし自らも滅ぼす  一時は万事という言葉があるように、普段の考え方が生きるうえで改善の鍵です。すべてを知る必要も無く、興奮しているのならまずは落ち着き、命令口調でなくとも、相手に刺激をしないように一方で言いたいことをわかってもらうことが必要です。  興奮をしている場合には、「こだわり」の関係する場合があります。こだわりは執着と言い換えられ、これにとらわれると本質を見失うことがあります。  例えば行動を繰り返す場合、結果よりも回数に着目する場合がそうです。(もちろんそれがすべて問題だと言うわけではないですが。)こうした場合は、執着に要する力を別に向けることが重要です。別に向ける方法が見つからない場合は、もしかすると山篭りなどをして、社会と断絶する必要のある場合もあるでしょう。  なお、こうした執着が強すぎる場合、気持ちは他人に責任を押し付けるものと、自責に刈られてしまうものとに分けられます。  自責に刈られている場合では、自分だけが責任を負っていることから一見無視していればよさそうですが、 相手との接触によって自責が他責に変わることがある ようです。自殺未遂などを相手への脅迫手段として用いる場合もあります。こうした依存的な状況は自他ともに滅ぼします。 言いなりにならない、打開する。  もしそうした執着の強い相手から絡まられてしまい、さらに自分が困った場合にははっきりと「NO!」ということが重要です。すると依存的な状況を脱却できる可能性があります。間違って湾曲に断ろうとしても、相手は都合よく考えます。そして NOを実際にいわないと周りから攻め立てられます。すると時間の経過に伴いどんどん問題が大きく なります。  そうしたNOを言う必要のある ターニングポイントは他者への影響に変わる時点 がひとつといえるのではないでしょうか。また、自分で何

「楽しさ」に踊らされない。

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電波は到達速度は速いが見えない、だからわかりにくい。  最近ではあまりニュースにもなりませんが一時期、ツイッターやその他SNSにおいて一部の方が自分の所属している組織での悪行を紹介し、それを 自慢していた風潮 がありました。こうした風潮は、「自分は凄い」「強いんだ」などという思い上がった自己顕示欲から発信されたものだと私は考えています。  一方、現在日本だけでなく世界でも、芸能人や企業の方までこぞってSNSを利用しています。しかし彼らの目的は販促が多く、上記のような自己顕示欲から発信するものとは根本的に違います。  こうした「(多くの)情報が発信されている」といった表面的な部分だけをとって、それに踊らされてしまうと、変なところで出てしまったり、最悪は事件になってしまいます。これは問題です。(「多く」という言葉も「一人が多く」か、「多人数が少し」かで意味が変わる。)  そこで踊らされる立場から踊る立場へ転換したいと思った場合どうしたらよいのでしょうか。ここでは、踊らされるものと踊るものを雇用者と使用者に置き換え、立場を逆転するために考え方の転換を図るにはどうするかについて書きました。 楽しさに踊らされすぎるとまずい  気がつくと我々は便利な世の中に安住してしまいがちです。間接的に速く情報が得られるようになるにつれ、嫌な情報は遅く、楽しい情報は早く欲しくなってゆきます。その手段としてSNSを利用しているケースもあるのだと思います。  SNSを利用することで楽しい気持ちが早く共感できます。しかし共感を得る体験が楽しい、と思うようになるにつれ楽しいことを共感するためにSNSをすることから、SNSをするために楽しいと思われることをすることへ、と、考え方が転換されてしまう部分があります。これが行き過ぎると事件になります。  こうしたこと(考え方が転換してしまうこと)はSNSを通して自分が「楽しさ」に踊らされているものと私は思っています。もしくは「楽しさ」に踊らされていることさえも気づいていないのかもしれません。 踊らされる側と踊る側との違い  「楽しさ」に踊らされていることに気づいていないのならば、何かしらのアクションを通じてそれに気付けば良いと思います。あるいは「楽しさ」に踊らされているこ

レゴブロックで作品を作るように論文や発明を作るには。

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 論文を作る場合や発明をする場合は通常、文献なり実験なりで得られた情報や結果を①素直に受け取り、②細かく分解後、③取捨選択し、④新たに組み立てる必要があります。これはどこかレゴブロックを組み立てることに似ているようです。こうした具体的な例示をされることで難しいと思われる論文作成方法や発明をする方法もいくらかはわかりやすくなるかもしれません。そこでここではレゴブロック作品を作ることになぞらえ、論文や発明のできる順序を示してみました。 基本的な骨組みを作る。  はじめに(1)~(3)を複数持つことで骨組みができます。その骨組みを合わせて最終的には一つの作品(文章)とし、より大きく、より強い作品が作られる可能性があります。 (1)ブロックを箱や作品から取り出す。ブロックの入ってない箱やブロックでないものが入った箱を出さない。すでにある作品を分解してパーツを取る。=情報収集をする。情報を素直に受け取り、仕入れる。(思いが強過ぎると事実を見誤る。)       ・ブレインストーミング       ・実験した結果  (2)不必要なブロックはしまう。接続できないブロックは速やかに箱に戻す。=自分で判断し、不必要な情報を捨てる。       ・目的に沿った情報選択 (3)組み立てて、形にする。同じようなものを同じようなものでまとめる。 最適に組める形を見出す。=組み合わせを考える。       ・KJ法       ・PERT法       ・フィッシュボーン 肉付けする。:一歩引いた視点で見る。  続いて骨組みを肉付けします。先で得られた作品(文章)を一度引いて見ます。すると、これまで見えなかったものが見える可能性があります。 (4)ブロックを組み合わせた原因や、使わなかった理由を考える。なぜ仕入れたのか、どういった理由で捨てたのか。そもそも仕入れたものはブロックなのか。など。=考察する。演繹と帰納を他者と繰り返すことで、結果の起こった原因を推察する。       ・なぜそのようになったのか(演繹)。       ・一般的な事項から共通点は何か(帰納)。 (5)他の人の作った作品を鑑賞し、自分の作品に持ち寄って生かせるところを生かす。=類似例や反論できる例を示す。    

不安で寂しい人生を生きるには。

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舞台を舞うくらい楽しんで生きたくないですか?  私は小さいころから未来や将来を知りたがっていました。未来や将来を知ることで失敗をしたくなく、また未来にある不安を解消したい気持ちがあったのだと思います。しかしそれは意味のないことがわかりました。こうした失敗をしたくない、もしくは不安を持ちながら生きるということは、常に気を張っていることから緊張し、毎日が楽しくありません。これではせっかく生きているのにもったいないと思います。そこでここでは考えの見方を変え、不安な毎日をわくわく生きるにはどうするかを書きました。 人生(環境)は不安と寂しさを有する。  そもそも人生は人に理解できるものなのでしょうか。社会調査でも言えますが、人生は常に一発勝負です。同じことは二度と起こりえません。確かに同じ行動をしさえすれば同じ「ような」ことは起こる可能性は高いかもしれません。しかしそれでも厳密に言うと前の状況とは違います。すると、わからない状態が常に続くと考えられ 未来の判らない人生には不安 を持ちえます。  一方そのような一度きりしかない不安な人生において、実は人間は生まれてくるときも死ぬときも一人です。確かに生まれてからは親や教師、同級生や同僚など多くの方と接する機会はありますが、それでも死ぬときまで一緒と言うことはありません。すると 寂しい気持ちも持ちえる と思っています。 不安と寂しさの解消のため記憶とつるみ  上記のように人生は不安や寂しさを持ちえるため、人は出来る限り「知り」、そして「つるもう」と考えます。  日本の教育では何でも知らねばならないと言う強迫感から 記憶重視の考え方となり、 一方で古くから農耕民族として共同生活していたことから 「皆と一緒」を良し としていると考えます。  すると個性を出すことは恥ずかしく、尊重もされない傾向になるのかも知れません(ただし高専は別)。  こうした状況が続くと、誰か特権階級を持ったものに対し、その下で奴隷のように仕える生活が善しとされてしまいます。 頭で考えただけで行動はせず 、中間層から外れたらのけ者にされて終わりだと考えることから、 常に中間に居ねば、と強迫的に なります。  これではいつか疲れてしまい、また人生を楽しむ余裕もありません。