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12月, 2017の投稿を表示しています

言葉と行動に責任を持つ方策

 自分の言葉を責任を持つことは重要です。さもないと所属組織をつぶしてしまうだけでなく、場合によっては相手を混乱させてしまいます。これは問題です。そこでここでは言葉の責任を持つ重要性とそれを得るための方策を示したいと思います。 言行不一致の現状  高度経済成長期のようにすべてが成長路線ならば、自分や相手がどうであっても結局はうまく行くようにできました。例え言葉に責任を持たなくても、言行不一致であっても、なんと無しに良くなっていくことはわかりました。それならば結果オーライで良かったのかもしれません。  しかし現状の日本では成長期から停滞期にあります。国も経済も生ものといわれています。一般的な生物の成長には成長期、停滞期、死滅期というのがあり、何からしらの抜本的改革がない限りは最終的には死ぬ運命にあります。  例えば現状日本ではもう幾年も前から少子高齢化が問題だといわれ続けています。しかしこれといって何の対策もせずに少子高齢化の歯止めが利かない状態です。一方他国ではそれなりに成果をおさめる方策をとって人口減少率のストップがなされてきたりしています。他国と日本では環境が違うといわれればそれまでだと思いますが、確実によくなると言うエビデンスが得られないため失敗を恐れているのかわかりませんが、いまだ抜本的な改革はとられていません。そうした状況ではいずれ日本という国がなくなる危険性もあります。  また言葉に責任を持たないことや言行不一致な行動をとることで相手が何を意図しているのか理解することが出来なくなってしまいます。これは相手を苦しめる意味で問題だと思っています。  そのような人は他人と心の暖かい交流が出来ません。私の親族の一部にもそのような心の冷たい人はいて、特に物品授受の際、心はなく物をやたら与えて、与えた後でその反応に対して不満を爆発させる方々がいます。  そのような方々は相手を思いやって物を分けるというよりは「ものをあげている私」しか見えていません。すると変に相手の気持ちを自分勝手に読み、自分の気持ちを押し付けてしまいます。  例えば私が気持ちの上でも言葉の上でも「要らない」といった場合、相手にとってはそれは「本当は欲しいけどいらないといっているんだ」などといらぬ誤解してしまい、ものを不必要に勝手に与えます。そして与えたものを受け取らなかった

察してほしい文化からの成長方法

 言わなくてもわかってくれ、察しろ、などといった言葉や気持ちがあります。こうした言葉や気持ちが交わされる文化はわびさびを味わう意味では素晴らしい文化だったのかもしれません。しかしそれが相手との関係を悪いものにしているものになっているのだとしたら問題です。そこでここでは察してほしい文化や言わなくてもわかってくれという文化について異様であることを示すと同時に、それを打開するためにはどうするか考えます。 察する文化はわびさびの文化  かつての日本はものがありませんでした。だからこそ、限られたものの深みを理解して味わうことができました。それが「わびさびの文化」です。古きよき文化ではそれが大事とされてきました。  しかし現代でもこの文化が残っていて、そして悪い方向に行き過ぎてしまう状況ですと、例えば認知症の老人が「なんでわかってくれないんだ」と家族を攻撃したり、職場の上司が「知っててあたりまえだろう」などと部下に対して攻撃したりしてしまいます。  こうしたことの起こる場合、あらかじめそうすることで意味があるならばもちろん良いのだと思います。しかし多くの場合は自己満足のための無意味なものです。そしてそうした無意味なことに付き合っている人は疲弊してしまいます。そうだとしたら問題です。これは解決する必要があります。そこでここではそうした問題の解決方法を書きます。  (例えば上記家族の問題ならばお互いが理解できず不満が発生します。すると表面上では取り繕っているものの、頭の中では何を考えているのかわからなくなり、事務的な会話はなされたりしますが家族の中で暖まる会話がありません。すると時に裏に下がったら文句を言うことがあります。) 察する文化は変な文化と認識  日本人は他国と比べて農耕民族と呼ばれています。が、これもその察する文化を推し進めることになった原因のひとつだと思われます。  農耕民族はある場所にとどまり限られた物資をお互いに協力して察しあい、ひとつの土地に長くいることで利益を得てきたという文化があります。そうした長く同じ地にいる、そうすることによって田畑を耕し毎年定期的な出来高が期待できるなどとした場合には、そうした察する文化を推し進めることで相手との協調が出来、どんどん農作物を作ることが出来ます。そして子孫を繁栄させてきたのだと思っています。

福祉作業所指導員という仕事

 福祉作業所の指導員という仕事があります。この仕事はイメージしにくいかも知れません。ですのでここではどんな仕事か。何が必要かといったことを書きました。 どんな仕事をするか  登録している利用者さんと一緒に作業をしながら、その人に何が向いているか、あるいは何が向いていないかを一歩下がった視点で見極めます。   作業の内容は場所によってまちまちですが、畑作業をしたりミシンや針仕事を用いて手工芸を行ったり、あるいはパンや饅頭などの食べ物を作るところ、さらには客室清掃や一般企業の清掃のされることが多いです。  そして作業や話し合いからの記録・計画書を通して利用者さんの成長を導きます。それぞれの人には違いがあるので、作業をすると決めたらそれを見守る必要があります。のっけから小中学生の学校の先生のように、皆画一化して指導することはNGです。   記録や計画は一年間の計画から月々の計画、最終的には日々の計画と落とし込み、それと日々活動している内容の差異を認識して週1回なり月1回のモニタリング時期に次の活動期間における目的や目標を計画してゆきます。 形としての作業所  就労支援事業所にはA型とB型とがあります。A型は利用者さんを従業員のように最低賃金以上で雇用し、B型は雇用契約を結ぶことなく(最低賃金以下でも)雇用します。B型に比べるとA型はコストや経費を重視する傾向にあるようです。  働く形には住み込み型と通所型とがあります。後者の通所型の場合、作業時間は概ね9:00-15:00です。場合によってはもっと遅くの時間まで行うこともあります。その際利用者さんが病状の都合で作業し得ないこともあるので、そうした利用者さんのし残した仕事をこなす必要があります。  どうしても時間の配分が難しいこともあり、指導員は作業時間後(15:00-17:00くらい)に記録をつけることが多いです。先の利用者さんのやり残した仕事もあいまって、残業を余儀なくされる場合があるかもしれません。  作業所のような福祉施設は国や地方公共団体から運営助成を受けていることが多く、その助成採用基準はわけが解らないことが多いです。そうした意味では事業運営するには国や地方公共団体へのコネが必要になります。 仕事をする上で必要なもの  必要なものは特にないと思いますが、利用

目的と目標を見出す方法

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 ソーシャルワーカーと言った支援者を含め、仕事の上司なども基本的には裏方の役目です。ですから主役になることなく相手をいかに支えるか、いかに目的を持ってもらうかといったことが重要になります。そこでここではそうした他者を支援する場合に必要とされる目的と目標を見出すための方法を書きました。 現状から見いだせる目的と目標  目的を持つには現状を適切に把握することが大事です。日本の言葉には石の上にも三年という言葉があるように、原状にどっぷり漬かって今を見つめ、これまでとの違いを認識することや、他人を理解することで自分を認識することができます。  例えば歴史から学ぶといった場合においても、過去は過去の出来事として認識し、現在からの過去の流れを否定することで、目的を設定し、また今と近い将来からの差で目標を見出せます。 目標を立てる場合にはバランスを保つ  何事にも多面性、二面性があることは一般的に知られています。例えば生きる目的とはライフワークとライスワークのように、通常2種類以上の到達点があります。ライスワークとは目先の課題を解決(飯を食うための仕事)で、ライフワークとは真理の追求(好奇心から見いだせる仕事)です。  ですから現状を認識するにあたってはこうした違いを知り、バランスを取ることが大切です。その際議論の求められることはありますが、その到達地点は議論で相手を「打ち負かす」ことではなく、「よりよい選択をする」ことです。議論の「打ち負かすことをよし」とすると足を引っ張ることが良しとなり、最終的には何も言えなくなってしまいます。 バランス具合を測るため図示する  こうしたバランスを取るためには図示することがわりやすいです。図示することができれば二面性や多面性をわかりやすく示すことができるのかもしれません。  また常に 全ての結論は途上 を認識することは大事です。あえて遊びを作ることで、その遊びから成長をする種とすることができます。 発信から見出せる目的  こうしたことから①周辺情報から真実を推察することが大事です。また②直接自分が得た情報を作ることで他人に発信することができます。    ただし前者は推察が時に情報の真実を見えなくさせてしまうことや、後者は情報やそのヒントを見逃すと言った注意点もあることを知るこ

なぜ生き方や考え方を考えるか

  生き方や考え方を考える必要はないのでしょうか、私はあると思います。現状の不満があるのなら、そしてこれから人口減少によって人あまりの時代が到達することから、今後よりいっそう生き方や考え方を詰める必要があるように思います。そこでここでは生き方や考えることによって何ができ、そうするためにはどうすればよいか、といったことを書きました。 生き方や考えを考えることは無駄か  私は生きることを考えることは必要だと思っていますが、そのように考える人は少ないのでしょうか。実際どれほど生き方や考え方を考える必要があると思っている人がいるのかはわかりません。  ガススタンドに行かずに家で充電できる電気自動車ができたり、交通機関でも非接触カードを使って乗車することができるようになってきています。そのように便利になり人と接触する必要がなくなってきていますが、それに安住してる人が多いのかも知れないと考えます。  そうしたことに満足しているのならば私がこうして「生きること」について考えることは、実は世の中にとっては無駄なのかも知れないと思うことがあります。私が限られた資源を無駄に使っているとするなら、いっそ死んだ方がいいのかとさえ思えます。 満足しているなら愚痴は言わないのでは  一方で多くの方は目の前のこと(仕事)に取り組むのに精一杯で、生きることや考えることを考える余裕がないのかもしれないとも思えます。すると現状に不遇であることに嫌気がさし、愚痴を言うことしかできない生活をするようになるのでしょう。私はそういった場合にこそいっそ考え方を変えて真剣に自分の生き方を考えてみてはどうかと思います。それはそれで無駄だと思われることはあるのでしょうが、行動を起こすことや考え方の変わることで人生を楽しく歩むことのできる可能性はあります。すると現状に満足し少しでも不満や愚痴を言う機会を減らせれると私は思っています。   なお現在 日本の人口は減少 しています。それに伴ってこれから日本の労働者人口はどんどん少なくなることが予想されます。だとするならば今後仕事あまりの時代が来るようになり、これまでのようないやいややりたくもない仕事をするといった必要がなくなるのだと思います。それならいっそ自分の興味の有ることや関心のあることにに目を向けてもいいのではないかと思い(これ

池袋 高専自慢会を開催予定です。

 2018年1月14日の午前午後に東京都豊島区池袋で元高専生・現役高専生・高専関係者による自慢会を開催する予定です。  高専生は特異で高い能力を持ちながら、なかなかそのよさをアピールする場がありません。ですので今回その特異や強みをアピールする会を定期的に開くことで、自分の強さを認識するだけでなく、他人の強さを認識できます。そして社会の多くの課題の克服の達成をすることを目的とします。  いきなり開催しても活発な議論をすることはできないと考えます。そこで初回は材料を持ち寄って共同で作りながら毎回一人の自慢を聞く会にしたいと思っています。初回はカレーで主催者の豊島がルーを持ってきます。  参加ご希望の方はフェイスブックにメッセージもしくはメールでメッセージをください。 開催日   2018年1月14日 開催時間  11:00-15:30 場所    ここ実ハウス 定員    15名 すること  カレー作り       高専自慢会の紹介       自慢を聞く会 必要な持ち物 ・名刺 ・ペンとノート ・参加費2000円 ・参加のためのカレー作りの材料 ・その他シェアしたいもの お酒は出ません。 カレーの材料は食べられるものに限ります。

限られた状況をどう生き生かすか

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 日本という国に生まれてきたり、毎日雨風をしのげることが当然、みなと同じような服を切れるのが当たり前...と思っていたりする。自分で仕事が選べたりすると思うこともある。確かにそのように考えることは、自分に自信を持つ意味で重要なのかもしれない。しかし、どんなに自分が努力しても対処しきれない、「天命に任せる」といったことはある。ここではそうした思うがままにならないことがあることを知り、どう生かすかを記したい。 昔は限られた状況があり平等ではなかった。  現在でもインドのカースト制度がある。日本もかつては身分が四民で分かれていた。その制度の間は破られるものではなく、意識せずともそこには境界線があった。  日本で平等が言われたのは明治以降である。戦後になってから資本主義国家になってしたいことができ、稼ぎたい人が稼げるが、そのように自由を選択できた期間は日本の歴史から見ると非常に短いものである。 限られた状況は良い生き方をするには必要。  明治以前や強制させられていた場所や時代では、境界線のあることである意味幸せではあったと思う。動物でも制限があらかじめあることで、甘えや幸せを感じることがあるのだと思う。  上記のようにたとえば犬の世界も限られた制約があるからこそ、十分にその力が発揮できる。  確かに一挙手一投足に限られる状況、限られすぎる状況というのも嫌なものではある。しかしかといって限られた状況がないと甘えられない意味で成長できない、良い生き方はできない部分があると思う。 現在は制られた状況が少ない。  一方現在の日本はそうした制限がない状況になりつつあるように思う。戦中や戦後のころに比べ、日本は豊かになっていて、多くの人が平均になっている。一億総中流階級といわれたこともあった。  総中流になるということ、豊かになることとは、技術が発達して不便な状況や制限のある自然を人間の生き易いように改造しつつあるということである。そうしたことが起こるにつれて、生き方とか仕事とか、なんでも自分の思い通りになる、努力でなんでもなりうる、と思ってしまうのではあるまいか。  例えば子供を作るにしても、技術発達のおかげで自然にできなかったら人工授精をする。障害児が生まれそうなら堕胎をする。延命治療を本人の意思ではなく家族の意思を尊