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台湾の現地視察 YOUBIKEと台鉄のススメ

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 2024年の12月12日から2024年の12月23日までの間5日間台湾へ現地視察をしに行きました。現地をより味わうことを目的としていて、そのための移動手段は電車、自転車、バスでした。なかでも今回は現地をよりよく知るため安くて勝手の良い台鉄と自転車(YOUBIKE)を中心に使い、それらの良い面と参考になりそうな面をここでは書きました。ですのでこの文を読むと台湾において台鉄と自転車とが今後使えるようになるかもしれません。 台鉄  台鉄は台湾の国鉄で台湾を一周する鉄道です。ざっくり台湾の行きたい場所にいける意味で重要な乗り物です。今回は台湾の方々にとってこの重要な乗り物、台鉄を使わせていただき、桃園空港から1番目か2番目に近い「中レキ」という駅から高雄空港に向かって南下しました。台鉄の動く方向は「南下」と「北上」とに方向が分かれていますからどちらに乗ったら良いか判断はし易いです。 図1.車両は現代ロテムが製造しています。  今回乗った電車は上記のように現代ロテム製の車両で、座席もMRTと違って樹脂製ではなくシートになっていたため数時間座ってもお尻が痛くならず座り心地も良く、また扉の表示もどことなく見覚えのある京王線のような形で馴染み深かったです。 図2.シートも表示も京王に似ています。  ただ台鉄では日本の電車のように車両の中に路線図のようなものは貼られておらず、また何時にどこへいくらかかって着くのかが分からなかったため、それらを把握するために事前に BUS+と言うアプリ を入れて、またそれと 台鉄の路線図を日本型に描いてくれた方の絵 を利用させていただき、自分が今どこにいてこれからどこへ行こうとしているか、そのときの値段も調べました。恐らくこれら先人の知恵がなかったらわたしは移動ができなかったでしょう。こうしたアイテムを作ってくださった方々には感謝の気持ちでいっぱいです。  さて今回乗った電車は区間車といういわゆる各駅停車でしたが、BUS+や台鉄のHPから検索した結果からすると、どうやら元々乗り継ぎ乗り継ぎしていくケースはあまり考えられておられないようでした。ですが無理やり乗り継ぐことで本来行く予定の時刻より何分か早く到着することができました。これはつまり日本で使われる ジョルダンの乗換え案内における18切符検索 のように、乗継まで示すサービスを作ると今後ダウンロード...

「死ねるほど楽しいこと」の「出来る環境を選ぼ」う!

 先日台湾やタイに一人で旅行をし、それら他国を観察してこれから自国や自分にとって幸せになれそうなことを考えました、ポイントは「死ねるほど楽しいことを見つけること」だと思っています、またそれを実現するためには一つに「環境を選び取ること」が大切だと筆者は思いました。そこでここではそれぞれメリットやデメリットを記し、自分なりにより良い生活を実現するために選択・行動しましょうということを書いています。   他国観察から得られるこれから大切そうなこと  先日台湾とタイに一人で行き、それらの国々は下水は細いけれど機能していたこと、屋外に公共的に使えるトイレの数が少ないこと、飲料水を調達するにはなんぼか費用を出して購入する必要があること、がわかり、日本との国力や文化の違いを感じました。 それらの経験から日本の水の充実さや安定性を知る意味で、海外に一人で行くのは有効なことがわかります!  一方台湾やタイに限らず他国で日本の上下水道のようなのを完備できさえすれば、それらの国々は現時点でも既に十分発展していると思いますけど、まだまだ発展できる部分はありそうでしたし、新たな価値も十分産み出せそうな気がしました! ですからもちろん日本国内で事業の種を育てても良いですが、日本国外で事業の種を育てても良さそうな可能性を感じました。  翻って日本の完備された上下水道のように、「公共に貢献できるような状況や人」を日本国内および外国で育てることで、手痛い状況にある日本でもあるいは他の国でも多くの方から信頼されて力をつけられる可能性がありそうです! そのためには自分が死ねるほど(真に)楽しいこと(興味あること)をして、その楽しいことで他人に喜んで貰うことが大切に感じます!   死ねるほど真に楽しいことをするには  死ねるほど楽しいことや死ねるほど興味深いことが何かわからないのでしたら、お友だちに聴いても良いと思いますし、僕に言うてくださればそれを見いだすお手伝いのできる可能性があります! そしてその死ねるほど楽しいことをすることが、わたしの ツイッターのプロフィール に書いてあるような「幸せになること」ですし、それは間違いないと考えます。  勿論自分で他からの資料を読み解いて自分の生き方を自省し実験して改善してくことで見いだせることもありますから、それはそれで良いと思います、...

自然界で生きるために必要な「思想」

 わたしたちが自然で生きるために必要なものは何でしょうか、わたしは思想が一つのよりどころになるのではないかと考えています。例えば自然の中の一部分を科学という思想で切り取ってそれを扱うことで、より便利に良くなれる可能性があります。また人と人とが密に接する組織という場面では、お互いの思想をかけ合わせることで一人ではできない目標が達成できます。そこでここでは思想の形を三つ取りそれぞれ示し、その中でも特に良くなるかもしれない思想を使った場面を記してみました。   私たちを取り巻く自然環境とは  日本はどちらかというと多神教な国であり日本語で十分生活できる強い国だとわたしは考えています。その背景には過去の江戸時代の思想が大きく影響していると考えられ、特に武士道や近思録などが大きな影響を及ぼしていると思われます。これらの思想は現在でも難題が発生したときなどに問題解決の手段として有効に使える道具です。ですので過去の思想や文化や母語を学び使えるようにしておくと、現在の状況観察から思想と環境を融合させることで対処ができる意味で重要と考えます。   また今日、日本人の多くは恐らく科学をかつての思想のように多くの場面で活用していると思います。もちろん自然を科学で全て解明することは出来ないのですが、ただそうした科学の思想を持って使えるようになると、一部では無暗に動物のように殺し合わずに済みます。そして多くの方が崇拝している「科学」を信じる立場にたちますと、わたしたち人間の身近で重要な化学物質としては水があります。この水は電気分解することで水素と酸素に分解することでき燃やすことができる意味で価値の高いものだと思います。また一方で水に限らず、札幌における歩道信号のひさしや八王子における畑の活性化や絹産業による商業の発展など、現在人間は自然をより暮らしやすい形で使用している現状があります。過去にはこれら自然を味わって利用してきたことがあるように、現代の私たちも既にあるこれら自然を味わい使うことで需要発掘やビジネスチャンスにつながりそうです。  ところで現在自然界で生きるわたしたちにとって視座を広げますと重要なのは組織と思われます。なぜなら人が複数人集まり組織を形成することで、一人ではできないことができるようになるからです。作られた組織では組織の中の人々をお互い違う「仲間」と考え...

桜島が中心にある県鹿児島で暮らす

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西郷隆盛像です。この像に限らず市内に銅像がやたら多い気がします。 鹿児島という土地    鹿児島は本州の中でも最南端にある都道府県です。今回は鹿児島県の中でも中心地として知られる鹿児島市に行きました。ここはかつて江戸時代には島津家が強かったことと西郷隆盛が生まれ育った場所として知られ、特に鹿児島市内には多くのそれらの銅像やモチーフがあります。なぜあんなに銅像が多いのだろうと思ったほどです。 島津家のもの思われる家紋です。 鹿児島県の整備やインフラについて 市内から眺めることができる桜島です。良くも悪くも桜島。   鹿児島県の全域にかかることだと思いますが、鹿児島県の中心には桜島があり、風に舞って桜島の火山灰が広く堆積することから、道のあちこちで火山灰を集めている様子がうかがえました(下記写真のような火山灰を集めた黄色い袋が道のいたるところにおいてある)。  年中火山灰が飛散することにより街の方が頻繁に道路を掃除しているためか、あるいは火山灰が道の劣化を防いでいるからなのかわかりませんが、他県の道と比べて作られている年数の割に綺麗な感想を持ちました。加えて距離に対して大きい公園の多い印象を持ったことから、建築などのインフラ整備を強くあろうとしていて、だからこそ例えば鹿児島高専には化学の学科はないのかも知れないなと思いました(本来高専は大学卒業者より早く実践力に強い若者を社会に送る目的で設立されたと言われています。ですので鹿児島県は建設業が強いからこそ建築の学科はあっても化学の学科がないのかもしれないと予想しました。)。 桜島の火山灰を集めた袋です。火山灰は触るとサラサラしてます  鹿児島の地元にある国立鹿児島大学に行くと、鹿児島県の特徴としてこの桜島のことを熱心に研究していることが伺えました、特に鹿児島大学内の博物館に行くと鹿児島の特徴が書かれた資料を見ることができました。地質や気候などを研究している人が多いのでしょうか。現象究明はもちろん必要なのかもしれませんが、それから一歩進んで「自然現象をどう使うか」という発想があったら更に自然を良く活かせそうな気がします。  例えば下記の写真にもありますが、鹿児島は桜島のマグマの影響で温泉が多くの場所で取れるらしく、それで商売をしている方も多く見られます。桜島など活火山のない一般的な銭湯ですと水やお湯を加熱な...

おっさんの九州旅(概要)

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  このたび2020年11月3日から2020年11月21日まで九州3県(鹿児島、福岡、長崎佐世保)に行き、九州の地が関西や関東と違ってどのような土地なのか、ここで暮らすには何が必要か、九州で暮らす人たちはどんな方か、などを体感しました。  また今後台湾に行こうと考えていますが、その際自分の知っている文化圏とは異なる文化圏に入り込むにはどうするか、といったことの練習をする目的として、九州で生きるにはどうするのか、交渉などをするにあたり何が必要かといったことを調べました。以上のことについてここでは書きたいと思っています。     必要だったもの  氷点下まで耐えられるマミー型の寝袋  タオル2枚くらい  数日分の着替え   体洗う用、衣類洗う用の洗剤  歯磨きセット  移動を缶便にする小分けのバッグ    持って行ったけどいらなかったもの 暇になったら読もうと思った5冊の本 過剰なタオル   荷物  上記の必要だったものと持って行ったけどいらなかったもの、すべてをロスコの大きなリュックバッグに入れ持って行きました。  荷物の大きさは飛行機の手荷物に乗るぎりぎりの大きさだったので、行きは預け荷物帰りは手荷物で乗せ移動しました。今回飛行機は国内便でしたのでまだ荷物の大きさが厳しく取り締まられることはなかったですが、海外へLCCで行くとしたら荷物の大きさが引っかかって輸送するのに追加料金がかかりそうな気がします。大は小を兼ねると思って大きなバッグの荷物を持ってゆきましたが、使わないものを持ち歩くことは苦痛でしかなく、それだったら使わないものは使わないものとして持ってゆかない勇気を持つ必要性を感じました。  荷物の総重量は合計でおよそ10キロ近くあったので、日中は都度大きな荷物と小さな荷物に小分けにし、大きな荷物をコインロッカーに入れました。コインロッカーは主要の駅にももちろんありますが、それ以外にも特に主要駅の近くに百貨店や商店街がある場合にはそこにもコインロッカーがあり、百貨店や商店街の空いてる時間に荷物を預けて移動することを考えるならどちらかというと割安でした。なお 鹿児島では駅のロッカー(400円/24hr)に対してイオンのロッカー(200円/day) 博多では駅のロッカー(400円/24hr)に対してヨドバシのロッカー(...

文化(言葉と体験)問題への対処

 今までそしてこれからも多くの人と接する機会が増えるにつれ、他者の文化を知ることは重要になってゆきます。そうした他者の文化を知る場合にはいくつか方法があり、その文化の代表的なものに「言葉」と「体験」があります。今回は文化の枝葉に当たる「言葉」と「体験」についてそれぞれどのようなことかを考え、どうしたら言葉や体験から生ずる「異文化の問題」へ対処することができるか、また僕の体験例から異文化間への問題への対処法を示します。 言葉の問題  文化には言葉があり、普段我々が使っている言葉についてあまり意識していないかもしれませんが、言葉の中には言語だけでなく人の感情を乗せることができ(言葉=言語+感情とします)ます。  そして言葉の中の言語はあくまで文字や記号といったものでしかなく、その場にある言葉に乗っている感情は言語で正確に表現できない問題があります。確かに言語自体は翻訳なり勉強するなりすれば習得できることがあるかもしれません。しかし実際その言葉を発した人がどういう気持ちであるかとか、言葉を発した人がどのような背景からその言葉を発しているか、などといったことは言葉の発された場面で言語だけでは把握しきれません。  そもそも他者との交流で使われる言葉の中に感情があること自体を知らない可能性があります。言葉を交わしていても感情がお互い通い合っていないと、お互いに話している言語だけやり取りをしていても「なんか違うんだよな」と思われることがあると思います。  例えば最近のニュースで日本の茂木外務大臣が外国人記者を慮って言っている言葉でも外国人記者はそれを攻撃と思ったことがありました。このような一場面、すなわち限られた時間内において言語だけで言葉の全てを表現するのはなかなか難儀です。   体感の問題  文化には言葉だけでなく体験することもあります。身を持って他文化を体感を得るには「他文化を理解する必要がある」と思っています。  それには捨てる必要はないにしても少なくとも一度は「自文化を捨てる覚悟が必要」だと思っています。なぜなら自文化に凝り固まっていしまうと他文化を理解することができず、自文化で他文化を裁いてしまう恐れがあるからです。本来他者を理解すること・他文化を理解することが目的なのにそれを自文化の土俵で裁いてしまっては、得たい目的のものも得られなくなります。  ...

幸せになるには「受け取」り「与える」。

 幸せになることを考える場合には何が必要でしょうか、一つに「受け取ること」と「与えること」とのバランスを調整することが大切であるように思います。それら二つは人への不信感が前提にあると適切にできません。そうした人への不信感は相手だけでなく自分を傷つける意味で修羅の道への生き方になると思うし不幸になっている気がします。だとしたならば問題です。そこでここでは「受け取ること」と「与えること」とはどのようなことかを示し、一つの方法として特に受け取る場合において何をどうしたらよいか書きます。 受け取ったり与えて幸せになる  物事はまわりまわっています。日本のことわざや言葉でも例えば「金は天下の回り物」であるとか、あるいは「風が吹けば桶屋が儲かる」といったものがあります。通常生きている自分という人間はできることの限界はあるのですが、それはもちろんのことそれ以上に周りへの影響によって自分が受け取るもの、及び与えるものとが存在します。  ところで「幸せになる」ことを前提とした場合には、それら「受け取ること」と「与えること」とのバランスを調整して平衡にすることで「幸せにつながる何か」の得られることがあります。それらバランス調整することを考える場合、一方だけ強くてもあるいは一方だけ弱くても流れに滞留が起きて本来得られるものでさえも得られないことがあります。ですからきれいな形で「循環」を回すことが幸せになるためには大切であると考えられるのです。  それを考えるにあたって受け取ることとはその文字の通りで 自分 の 所へ 来たものを手で 取って 持つ。 「 代金 を-・る」   とあります。 受け取るとは  多くの大人は小さいころに母親からは通常無条件の愛情を受けて育っていきますが、この「愛の受け取り」に何かしらの悪影響があると大人になって他者からの愛を受け取ることができにくくなる性格になると思われます。またそれだけでなく生育過程で他人からの裏切り行為を学習してしまうと、大人になっても人から好意で出されたモノを受け取ることができない性格になることも考えられます。すると本来純粋な気持ちで接してきている人を必要以上に疑ったり常に考えの邪推をしたりする人間になってしまうのではないでしょうか。https://www.nhscafe.net/blog/138...

恋と愛との違い、愛への昇華方法

 現段階でのたたき台として文章を書いています。変だったらコメントください。  世の中には「恋愛関係」というものを多くの人が持っていて、それが転じて子供とを作ったり結婚したりして複数人で生活します。その他者との関係を作る場合において「恋すること」と「愛すること」とがありますが、これらは違うことを知ることは重要と思われ、特に「恋」から「愛」に昇華する方法はあまり書かれている文章はないのでここではそれを書いてみました。 恋と愛の違い   まず、「愛すること」と「恋すること」とは同じようなものであると認識している人がこの世の中には非常に多いですが、実は恋と愛とは違うものであることは認識したほうがいいです。 愛することとは  「愛すること」とは「相手を認める」ことです。故マザーテレサが「 愛の反対は嫌いではなく無関心である 」と言っているように、これを論理的に解釈すると「無関心であること=無視すること=存在を認識しないこと」の反対が「愛」であるといえます。いうなればそれ(無視することの反対)は「存在すること・認めること」であることが考えられます。この「存在すること」や「認めること」というのは「相手がどうあってもそのままを受け入れること」です。もちろん他人と自分とは違う部分があるので、特に価値観や考え方の違う部分は一般的に発生しますが、それらが「大きく違ったとしても受け入れられること」、「違っていてもゆるすことができること」を「愛すること」と言い換えることができます。これすなわち「相手が自分とは違うことを知ること」、あるいは「何が違うのかを明らかにすること」でもあると言えます。  例えば恋愛だけでなく子供を育てようとする親は「子がどんなであっても認める=愛する」 ことがあります。もちろん親である自分の思い通りに子供が動いてくれたらそれ以上に楽しい部分はあるかもしれませんが、親として子供が育つにあたっては社会的に好ましくない非行に走ろうともあるいは犯罪者になろうとも無条件で子供の存在を認めることができるのではないでしょうか。逆に子供の存在が親である自分にとって認められない、もしくは子供は自分の一部のものであると主張するような親がいるとするならば、その親は子供にとって血のつながりはあるかもしれませんが子を育てる意味での親ではないと言えます。 ...

人づくりと野菜作りの似た点・共通点

 僕はかつて福祉事業所で野菜を作っていたのですが、今思い返すとあれは人づくりと似ている点があると思いました。そうした「人の成長」と「野菜の成長」とを共通点として書いた文章は少ないと思います。そこでここでは人の成長・自立について野菜作りで例えれば多少は理解しやすいのではないかと考え文章にしました。この文章を読んで一人でも多くの人が自立してほしいと思っています。 人を育てるのは野菜を育てるのと同様 ①誰が対象か見極めて(野菜の植える土地を選定して) ②気持ち伝えて(種植えて) ③言葉で相手を認めて(水と肥料あげて) ④育つのを楽しみに待つ(育つのを楽しみに待つ) ことが重要なのだと思うよ。 特に④の「楽しみに待つこと」は会得が難しい。 — 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) October 9, 2019 野菜作りが人づくりと似ていると思ったきっかけ  かつて僕の所属していた福祉事業所では畑で野菜を作っていました。その時のことを何年かぶりにたまたま思い出して、人と野菜といずれも成長をするにあたっては似た点や共通点があるかもしれないと考えました。  「似たようなところ」とは、野菜作りも人の成長も基本的に「自分一人で影響を及ぼすことのできることは少ない」ところです。人も野菜も他者や日光などの外的要因が成長には必要だと思います。加えて人の成長や自立というものは目に見えません。ですからこのなんとも表現しきれない人の成長や自立といったものを、目に見える「野菜作り」に例えることでもしかしら人の成長や自立を理解することへの手助けができるかもしれないと考えています。そこでここでは試しに文章を書いてみました。  ちなみに私が考える野菜作りにおいて大事だと思われる点は四点あります。上のつぶやきでも示していますがその四点とは「土地」と「種」、「水分や栄養分」と「待つ時間や待てる心」です。詳しい内容を以下に記します。 あってもいいのは素質(土質、土壌環境)  そもそも人が成長したり自立したりする場合においては「素質」が大切と思われます。以前の記事でも記していますが、私の考える「いい素質」というものは「 誠実な人 」や「素直な人」です。そのような人が僕は好きです。  素直さや誠実さが備わっている人は土...

思い込みの使い方

 齢36歳になってようやくつい最近ものと言葉の使い方を知った豊島です。思い込みはものによって増幅されるし場合によっては大きな影響を及ぼすことのできるものでもあります。ですから有効に使いたいです。思い込みは有効に使えると幸せになれることのある一方、使い方によっては大変不幸になるものとすることもできます。そこここでは「思い込み」の使い方を書きたいと思います。 知らず知らずに持っている「お金の常識」  ものとしての「お金」があります。多くの方が「お金が欲しい」と思っている社会の常識があります。しかし、そうした思い込みがあるからこそ、そこに感情が乗っているとお金を得ることで感情が倍増してしまうといった特徴があります。それを考えるとお金と感情はお互いに影響しあっていることで利点でもあり欠点でもあります。  一般的に「金は天下の回り物」と言われています。これはつまり基本的にお金を投げたらそのまま世の中を回っていくものなのですが、そうした流通があるからこそ、そこに感情がつくと爆発的にお金と感情が増えてゆくといった特徴があります。正式には「金」は多くの人がほしいものだからそれを介して「感情」が「増幅」するといったことが起こりうる、ということです。 お金を使った思い込みの使い方  例えば「これであなたが幸せになって欲しい」と言って10円硬貨のあげる場面を考えてみます。相手は10円を貰ったおかげで自分が幸せになったと思います。あるいはそうされたことによって相手は自分が幸せになるために10円を使うとします。すると「10円」というただの硬貨が「幸せの道具」と思い込むことが可能なのです。気持ちは満たされるとそれ以上の価値を生み出すことがありえて、以後10円以上のお金を与えたくなる。といった特徴があります。すると最終的に戻ってくる金額は10円以上の価値となります。  これは悪い風に、すなわち「呪い」としても左右させることができます。例えば「これをあげると私が死んでしまう」と言って10円あげるとしましょう。すると相手は10円を貰ったおかげで相手が死んでしまったと思いこみます。すると10円が命の値段と思い込む部分がどこかにできます。すると以後10円以上のお金を受け取るのが怖くなるといった現象が起きます。(10円×人数分を自分が殺したと錯覚する)最終的には人の命を絶つ金額...

運を良くする方法=命をかけることから=

 多くの人が考える「運」は普段何気なしに生きている状況では良くも悪くも「引き寄せる」ことや「影響を及ぼす」ことは出来ない。しかし一つにリスクをとることで「自分の行動」から運を引き寄せることが出来る。ここではリスクの中で最大と思われる「自分の命」を使った場合について考え、それを「どう生かすか」例を交えて書きたい。なお、人間死ぬ気で行動すればたいていのことはかなう、とよく言われるが、それは概ね正しい(かなうと言うよりは良くなると言ったほうが近い)ことをここでは書きたい。 多くの人から見た運とさだめ    一般的に運はどうしようもない。それは当然のことで、なぜなら人間にはできることの限界があるし、自分のできること以上のことをしようとしても無理だからである。  そのようなどう頑張っても限界がある世の中で、特に我々が考える普段の「満たされた状態」では決して運を左右することが出来ないわけだが、一方でその「運」と言うものはある「自分の考え方と行動」を通して引き寄せることが出来る。  そのような引き寄せ、即ち「運を良くする」、若しくは「運が良くなるようなチャンスをつかむ」ときには通常「自分の中でリスクを負うこと」が大切である。リスクとはすなわち「価値のあるもの」や「唯一のもの」を指す。例えば「お金」や「財産」はもちろん、究極の例で言うならば「自分の命、人の命」などもそうである。「失敗したらなくなってしまうもの」は価値が高い。  「失敗したらなくなってしまうものの価値は高い」ことを考えると、通常「お金」や「財産から交換したもの」は多く替えが効く。替えが効く意味では価値の低いものとも考えることが出来る。またお金や財産自体もかけて失ったとしてもまた稼げば手に入れることが出来る。そうした意味で「お金は凄く大事なものとは言えない」のかもしれない。 大事なもの=例えば命   一方先にも示したが最も典型的で大事な物として「人の命」がある。「命をリスクの対象にする」と言うことは行動を起こしたときに失敗すれば「死ぬ」と言うことだ。殆どの人は自分の命がなくなることに直面すると(普段は考えることはないだろうけど)惜しいと思う。例えすぐに病気で死ぬ人であってもだ(あくまで一般的な話でサイコパスのような飛びぬけた考えを持っている人は除く...

地に足をつけた考え方や行動のおすすめ

 最近メーカーに勤める知り合いと話す機会がありました。発言の内容から彼は凄く絵空事のようなことを言っているなと感じました。そのような絵空事を言うこと自体は問題ではなく、私個人としては何も言いません。しかし近年そのような絵空事を言う人が活動の幅を広げて多くの人を巻き込むようになってきています。多くの人を絵空事のような考え方で巻き込むようになると個人が幸せにはなることは難しいと思います。だとするなら問題です。そこでここでは皆さん個々人がどのような考えを持って行動したらよいかを書きます。結論としては地に足をつけた考え方や行動をすることが大事だということです。 障碍者障碍者言う知り合い  最近私の近くにものづくりのメーカーに勤める知り合いができ、話をする機会がありました。彼はメーカーに何年も勤めており、やたら「障碍者が、障碍者が」と熱く語っている様子がありました。  話をするに今まで彼は特段障碍者に興味があったわけではなく、身近にそのような人が居たわけでもありません。確かに人と接する上で障碍者向けのエンジニア製品を提供している人と接する機会はあるようですが、それゆえそのような方と話をして感化されたような感じがします。  障碍者に対して物を売ること自体は決して悪いことではないですし、「協力してくれる人が居たらいいね」くらいにしか思っては居なかったのです。ですが最近はどうも彼がその障害者をネタにした活動の幅を広げてきたそうなのです。このままでは多くの人が「良しと思っていないのに声の大きな人に流されてしまう」危険があるなと考えました。 恐らく一般的な人と彼らの動きの違い  私はこれまでメーカーで研究者として働いてきた経験から、会社の中でも「はみ出しもの」な部分や自覚はありましたし、良くも悪くも異常者という意味では正直精神障害に近い基質を持ち合わせていると思います。  ですからこそ僕と同じような人に対しても仲間が居るということ、いててもいいということ、生かせる場所があるかもしれないということをそれぞれ啓蒙していきたいと思い、精神保健福祉士として活動してきました。  そして恐らく障碍者向けにサービス製品を作っている人も恐らく、僕と同じように自分自身の経験や身近な人の経験から「なんとかせなあかんな」と思ってそうした不具合を対処できるようなものを作ったのだ...

選択や行動する人に失敗は無い

 選択をする人しない人、行動する人しない人が居ます。幸せになるには選択をすることや行動をすることが不可欠ですが、選択や行動する人にとって失敗することはあるのでしょうか。私は無いのではないかと考えます。そこでここでは選択や行動を起こせないのはどこから来ていて、また失敗がどういう気持ちからきているのか、最終的には選択したり行動をするにはどうしたらよいかを書きます。 行動をしない人は何を恐れている?  何事も生きているうちは選択をしながら生きています。もちろん「選択をしない」といったものもありますが、それも「選択をしない」という選択を取っていることと同じです。  そうした「選択をしない」という選択を積極的にする人にとっては、どこかに「失敗をしたくない」考えであったり、あるいはそうなることを想定し失敗を極度に恐れていることがあるかもしれません。  しかしそれが決して悪いといっているわけではありません。ただよりよく生きるためには選択や行動を起こしたほうが良いかもしれませんね、という提案をここではしています。 未来はわからない   そうした選択や行動を起こせない考え方のもともとはひょっとすると学校教育における授業によって培われた可能性があります。 学校教育では通常失敗は無く、さも「未来がわかっている」、あるいは「未来が決まっている」ことを生徒さんや学生さんに教えたりすることがあります。  しかし現実的な問題として、現在と過去以外は誰にもわかりません。ですから学校教育や偉い先生が言う「未来予想図」は、あくまで「未来予想図」なだけで、いうなれば「絵に描いた餅」です。確かに確率的には「そうなる」可能性が高いかもしれませんが、確率が高いだけで「そうならない」ことも十分ありえます。こんな確率論を考えていること自体が無駄だと思います。  つまり今は今だけなのです。将来に同じようなことが毎日が起こるとも限りません。確かに「同じような毎日」は起きていることがあるかもしれませんが、厳密には「まったく同じ毎日」は起きていません。何故なら自分以外の人や環境には同じように影響を及ぼすことは出来ないからです。自分の認知しうる限界というものが誰しもあります(これを一般的に宗教では「神」といいます)。 行動する場合にリスクが伴う  未来がわからないような状...

上司の「立ち位置」と「正義」とを考える

 上司がまとめ役としての立ち位置を誤って認識していたり、正義としての考え方が一方的だったりすると、相手を押し付けてしまいがちになります。学校や軍隊ならば従わせることが目的なのでそれでも良いかもしれませんが、特に会社組織などにおいて売り上げを上げることが第一目的になっている場合、そのような押し付けは部下など立場の弱いものにとっては非常に厄介なもので、また売り上げの面でも上がらず問題となります。そこでそうした問題を起こさないためあるいは起きないようにするためにはどのような考えを持つのが良いか、一例を書きます。 自分の姿にこだわるリーダーの例  先日、上司が部下にどうやって売り上げを上げているのかといったことを説いてる場面に出くわしました。その途中でリーダーらしき人が割って入って「売り上げのことなんてまだ部下には関係ない」などと言ってさえぎる場面がありました。 上司が現状組織の売り上げ方とかを部下に説明してるのに、割って入ったリーダーが「そんなことを説明する必要ない」などということがあった。 それ見てて思うけど言うなりゃそのリーダーって組織力を削ぎ落とそうとするマイナス人間なんじゃあないかなあと僕は思う。 — 他人の幸せを買う資産家(豊島) (@KT_socialworker) 2019年2月20日  なぜリーダーである彼(彼女)はそのようなことをするのか。  私は ①まとめ役として今ある上司と部下の立ち位置が見えていなく 、②自分の正義や会社というものはこういうものだ、と、あらかじめ彼の中にある上司としての姿にとらわれすぎていている ものと考えます。  このような方が居ると組織の中でも 本来こうしたら売り上げが上がるだろうなあ場面に遭遇しても、リーダーの機嫌次第でどうするかが左右されてしまい、結果的には上がる売り上げが上がらなくなってしまいます。だとするならばこれは問題です。  ではそこでどのような問題にならないようにするには上司としてどうしたらよいのでしょうか、ここでは一つの方法を示します。 誤ったまとめ役としての立ち位置  生まれてこの方、特に 学校を卒業してからすぐに社会人になった場合においては、その人にとっては上司のモデルが「親」や「学校の先生」であっ たりします。  親は自分が何も出来ないときから面倒を見てく...

相手に伝える場合はシンプルにすべし。

 物事を伝えようとする場合にはシンプルにするのが良いです。相手には余計なことを想像させないほうが何事も相手に伝わる可能性が高くなります。しかし日本社会ではシンプルに書くことよりもより長い文章を書くほうが重要視されます。それはなぜなのでしょうか。そしてそうした状況を打開するには何をどうしたらよいかといったことを書きます。 私の身近な伝えること  私が小学生の頃は夏休みの宿題として読書感想文が出されていました。私自身それはあまり好きでもないし得意でもありませんでした。また国語の文章問題では「小説の本人になりきったらよいのか」「小説を書いた著者の感覚でとらえたらよいのか」「小説の著者を扱っている作題者の意図に沿ったら良いのか」などと考えながら読んでいたら結局誰の立場になってよんだら良いのか良くわからなくなり、わけのわからぬまま答えて結局間違った解答をしていた思い出があります。ですから国語の授業は最も嫌いな教科でした。  幸い国語を重要視しない学校「高専」に進学し、在学時には卒業論文を書いてはいました、が、その時にしていたことほぼデータ整理だけでした。ですので実質的に論文や文章を書くようになったのは大学生のころだったと思います。その時研究室の先生に文章作成のノウハウを教えてもらいました。「短文で」「変な誤解を与えないように」「独立した二つ以上のソースを元に」といったことをはじめて教わりました。  このときの経験が社会人になってから生き、改めて大学生のころに伝えることの大事さを経験しておいて「よかった」と痛感します。職場の上司との会話ではよく「上司の質問には結論から言うよう」などといわれますが、これに関しても大学生のときに教わった「伝えること」を綿密に実行していたら、上司がよっぽど変な人で無い限りトラブルになることはまず無かったです。 一般的な伝えること  日本では多く義務教育の段階で読書感想文を書かされます。本を読んで好き勝手に感想を書いてよいよといわれるものです。好き勝手書いてよいので文書校正や論理構成はむちゃくちゃでもかまいません。  こうしたことがまかり通る原因は樋口裕一さんが数々の本で書かれていますが、日本では諸外国のように「論理学を教える場面」が残念ながら「ない」ためです。ですので「伝わる」文章の書き方をろくに教わらないまま大人になっ...

仕事ではコミュニケーションが大切

 よく仕事場に居て「これはどうなのかな」などと思うことがあります。それは「作業自体としては問題ない」ものの、そこで「 働く周囲の人々との気持ちの関係うまく取れていない 」ことのあることです。確かにそれでも「ある程度の業績」は確保することは出来るかもしれません。しかしそれだけでは「長期的な仕事場の効率向上」を考えることは出来ないと思います。そこでここでは仕事を行う場合における関係性や気持ちの大切さ、とりわけコミュニケーションの大切さを書きたいと思います。 多くの組織構造は官僚型  多くのグループは「トップが少数で手足を動かす実働部隊に近づくほど多い」といった「官僚型の組織構造」をとっています。グループの長がそのグループを統括し命令していくスタイルです。  長はグループを束ねて売り上げの上げることが望まれます。そのためにグループメンバーに命令することはありますが、得てしてそうした場合において重要なのが「グループメンバーの気持ち」です。これを考えてまで行動している方がいったいどれだけ居るでしょうか、実はあまり考えている人は多く無いのではないかと私は考えています。 長の命令なら聞くには聞くが  自分がそのグループに所属していて、人間関係のあまり無いグループの長から突然何か命令された場合には「そりゃあなたがグループの長やから「やれ」と言われればやるにはやるけれど」と言ったり思ったりすることがあるかもしれません。 少なくとも私はそう思います。  そうした場合にグループメンバーとの関係性があまり出来ていずに、あるいは納得するのを待たずにグループの長が「あれしろこれしろ」などと言ってグループメンバーに行動を移させることは「物理的には」可能だと思います。しかし言うだけ言って以後関係性の構築に対するフォローが無かったり、あるいは放って置かれたりするならばグループのメンバーの士気が落ちることもあるでしょうし、一時的には業績を維持することは出来ても、長期的な視点で見た場合には売り上げアップさせることも仕事場としての雰囲気も実りあるものにすることはできえないと私個人的には思います。  これは多くの組織構造を持つものの欠陥として、グループの長が「組織の形」を認めるも、 その組織にいる人の「一人一人の固有さや気持ちあるいは考え方などといったものを認めていない」...

千三つの割合から考える挑戦の大切さ

 「千三つ」ということばが日本にはありよく使われます。1000の言葉の中に存在する真は3つしかない(裏を返せば997の殆どは嘘)ことのたとえで、建築業界はもちろん、それだけでなく製品開発や新規事業の立ち上げでも使われます。建築業界以外の場面では成功する確率はそれくらいの割合(0.3%)だといわれています。 今回はこの千三つという言葉を通じて、行動を起こすときにそれくらいの成功確立だと思えば失敗することも別に普通のことだよ恐れることは無いよということを書きたいと思います。 なぜその割合が重要と思ったか  千三つとは Goo国語辞典 によると 1 《千のうち本当のことは三つしか言わない意》うそつき。 2 《千に三つくらいしか話がまとまらない意》土地・家屋の売買や貸金などを斡旋 (あっせん) する職業。また、その人。「千三つ屋」   3 《千品目出しても当たるのは三品目くらいの意》食品業界で、新商品の開発の難しさをいう言葉。   なのだそうです。   なぜ千三つなどという成功確立を見出そうと思ったかというと、特に私が「誠実な人」を見極め接していこうと考える場合、不誠実な人が多く居る中でどれだけの人を母数と接したらよいかを考える必要があると思ったからです。  本田健さんの本にもその割合は書かれていますが、おおよそ同じくらいの割合で、誠実な人は1000人に2~3人くらいの割合で居ると考えられています。1000人居て2~3人が誠実な人なら、ありえなくはない割合だと思っています。  そこで実験をしてみました。日本人人口の1%の人たちを無作為に20人にとって実験してみました。するとおおよそ4~5人は誠実な反応を得ることが出来ました。即ち一般の割合に直すと0.01(抽出割合)*0.2(4(結果)/20(実験対象))=0.002となりました。割合としては千三つで間違いないと思います。  実験から考えられること  この結果から実験してみたところ多くの人は不誠実であるものの、大変少ない割合ですが誠実な人も「居る」には「居る」ことが考えられます。また一回の実験で「居ない」ことがわかったとしても、その実験結果を虚心坦懐に見つめて、何が原因でそうなったのかを調べた後に改良に向けて対策を打った後に再度実験を続けて...

皆したい仕事をしたら良いかも

 嫌な仕事を丸抱えして苦しんでいる方が居る一方、楽しい仕事しかせずにそれなりに楽しく生きている人も居ます。そうした前者のような人が後者のような人に変わるには何をどうしたらよいのでしょうか、ここでは仕事の仕方についてどうすれば嫌な仕事をせずにすむかといった小手先の方法を書きたいと思います。しかし結局は自分の心持次第な部分もありますから、小手先の方法だけでなく自分自身の心に問い直す必要があるような気がします。 「仕事は完結させる」幻想?  仕事を丸抱えで苦しんでしまう人の中にはどこか「仕事を完成させなければならない」といった執着があるのかもしれません。もしくは「相手をがっかりさせてはならない」といった思い込みも影響しているのかもしれないと考えます。  確かに与えられた仕事はする以上完成するのが望ましいです。ですが得意でなく低いクオリティで仕事をこなしたとしても相手はあまり嬉しくないです。そして完成させてしまった場合には次回以降同じ仕事が来る可能性があります。嫌な仕事が何回も舞い込む場合、確かに慣れ的な部分である程度は最初よりは仕事が早くクオリティが高くなる可能性はありますが、あまり楽しいとはいえないでしょうし、そもそもそれを好きでしている人に対しては着眼点も異なり全く適わないことが考えられます。  というよりそもそも「嫌な仕事なら完成させる必要も無い」のかもしれないです。与えてくれた人も結果として仕事が完成できなかったりクオリティが低いようならば以後その仕事を積極的に与えてこなくなることも考えられます。その場合、何もせずに拒否するだけなら「してから言え」という話になりますが、実際にやれるだけはやったけれどもこの程度しか出来なかったということならば他人はどうしようもない部分があるのではないかと考えます。 一方興味深い=好きを追求する利点  好きな仕事あるいは興味深い仕事をしていたらその周辺の部分についても知りたくなると思うのは自然ですし、仕事自体の専門性的な部分も繰り返すことで目が肥えだんだんと深く大きなものになっていく気がします。  選択を迫られた場面では嫌だと思っていたり拒否されたりして遠ざかっていたとしても、後々自分の専門性が磨かれることとなってだんだんと広く目が見えるようになるにつれ、好きだったり興味深かったりなることは考えられます。...

多くの学生は市場にならない一考察

 知り合いでかつて自分が学生だったことから学生を支援したいと思う人がいます。しかしそれはどうなのでしょうか、ひょっとしたら学生や幼児向け対象の市場はないのではないか、あるいはあっても市場は拡大していかないのではないかと考えます。そうした学生向けの支援をすることについて、例えば学生支援向けの団体を個人で作ろうとしている方に対して、ちょっとやそっとの生半可な気持ちでサービスは出来ないのではないかなといったことをここでは書こうと思います。 市場の原理とお金  一般的な市場は社会に望まれているものを、資源のあるものAが加工して望む人Bにあげて、そのお返しとしてBが次回加工に対する応援をAに送って成り立っています。  当然そのAB両者間では「信用」があってのもので、基本的に加工品をもらったお客さんであるBは応援としてAに「お金」といった形を渡します。お金は加工したもの自体を得るためには必要ですがそれだけでなく、労働力や人を動かすためのものなど、パワーがあるものです。  一般的にお金の価値は国が認定しています。ですから国としての信用が無くなったりするとお金の価値が紙くずになったり超高級なものとなったりします。われわれの使っている身近な 日本「円」は世界的に見てもかなり「信用の高い」もの といわれてます。   国家間はもちろんですがそれだけでなく他の人との取引でもこの「信用」が大事なことは言えます。信用が低くなったら単位あたりの価値が下がり同じような労働をしても必要なお金の量が増えます。例えば今まで1000円で一時間労働していても、その信用価値が下がると同じ労働をしていても2000円も3000円も必要になります。 そうした意味でお金を約束を反故された場合に対しての担保として使うことが可能です。 学生が無責任となりうる理由  一方市場外には上記の一般的な性質を知る社会人だけでなく幼児や小中高校生、大学生などが居ます。彼ら生徒さんや学生さんの多くは基本的に親の管轄下で社会に出ている身分です。運転免許ならいわば仮免状態で社会に出ているといって間違いないでしょう。その上で、彼ら学生さんは学生でない人と比べて何が違うか三つ考えてみました。  ①学生さんは基本的に「親がお金を払って学校に通わせてもらっている身分」です。所属組織に対して責任を負ってい...

サービスの価値はお客さんが決める。

 テレビタレントや芸人など、大衆の目にさらされるようないわゆる「芸能人」という人々が居ます。人によっては非常に高い値段でオファーしないと仕事を引き受けてくれない場合もあるそうです。ですがそれら無形なもののサービスにかかる値段を決めるのは誰なのでしょうか。多くが主催者側事務所側ですが、よくよく考えてみると結局のところ一番大切なのはお客さんが決めるのだと思います。そうしたお客さんからの値段を決めてもらう姿勢は大事だといったことを書きます。   芸能人のファンミーティング  先日芸能人でありユーチューバーでもある方のミーティングに行ってみました。  イベント自体は課題はあるなあと感じたものの、それはともかくやっぱり芸能人は美人な傾向があると思います。私が見てそう思いました。  とした上で、その芸能人の方が何をしたいのかということは正直見えてこなかった部分があります。  主催者側がどんなに素晴らしい企画を作ったとしても、お客さんの変わりやすい心理にいつも対応することは出来ないのではないかと考えます。  それを考えるならいっそ 「お客さんが何を望んでいるのか」を十分吟味した後に、それに合わせて企画の内容を変えてゆく のが大事なのかもしれないなと感じました。 宣伝サービスの内訳  今回出席した芸能人がしている「宣伝サービス」は他の会社、例えばメーカーなどと違ってはっきりといったサービスの影響力や効果が目に見えません。ですから勝手に、そして余計に値段がつりあがってしまうものなのだろうと思います。  そもそも何に一番お金がかかっているかを考えるに、多くは場所代や食費、間接経費などの固定費と、事務所サイドの人を雇うための変動費です。それらを宣伝されたことによって「期待できる経済効果」から引いた分が売り上げになります。となると同じ箱でし続けるならば経費はほぼ一定額になることが考えられるので、宣伝効果が高ければ高い分だけ売り上げは高くなることは考えられます。  また、芸能人の人も芸能人の人で、より多くの人と接する必要があるならば、事務所だけでなくお客さんからも多くの監視の目があるもとでそれらに対して「芸能人としての顔」をせねばならぬのだと思います。  つまり少なくともそのイベント中はどこからでも誰からでも注視されることから、休む暇がありませ...